ヴァージンノイズ | 君を待つ、秒針。

 まだ冬の気配を色濃く残した春先の風が、悪戯っぽく窓ガラスを叩いた。その乾いた音だけが、やけに大きく響く。  白鳥沢の寮の一室。俺、五色工は、ベッドに寝転がったまま、スマートフォンの冷たい画面を睨み付けていた。宿敵の顔でも見るかのように、険しい表情で。  液晶に表示されたメッセージアプリ。そのトーク画面の最終更新は、時計の針が一回りも前のことだ。俺が送った当たり障りのないメッセージには、淡々と『既読』の二文字が添えられている。けれど、その下に続く筈の返信は、一向に現れる気配がない。 「……はぁ」  思わず、肺の底から重たい息が漏れた。自分でも驚くほど深い溜め息だった。  部屋の白い天井には、いつ付いたのか分からない小さなシミがある。それをぼんやりと見つめていると、胸の奥、心臓のすぐ隣辺りが、冷たい針でちくちくと刺されるように鈍く痛んだ。  ――名前。  脳裏に浮かぶのは、屈託なく笑う彼女の顔。  いつもなら、どんなに忙しくても、遅くとも五分以内には何かしらの返事をくれる。スタンプ一つだったとしても。それが、一時間。一時間も沈黙を守っているなんて――。 「……俺、なんか気に障ること言ったか? ……いや、嫌われたのか?」  声に出してしまい、慌てて首を左右に振る。ブンブンと、否定するように。  そんなわけがない。そんなことがある筈がない。昨日の電話だって、いつも通り……いや、いつも以上に楽しく話せた筈だ。多分。……そう、であってくれ。  そう自分に言い聞かせても、胸の疼きは治まらない。  たった一時間。客観的に見れば、取るに足らない時間だ。名前にだって、スマホを見られない都合くらいあるだろう。分かってる。頭では、ちゃんと分かってるんだ。  だけど、この『たった一時間』が、今の俺には耐え難く長い時間に感じられた。秒針の進む音さえ、やけに遅く聞こえる。  ――もし、このまま連絡が取れなくなったら? このまま、ずっと会えなくなったら?  最悪の想像が、鎌首を擡げる。  瞬間、真空パックにでも放り込まれたみたいに、息が詰まった。視界がぐにゃりと歪むような錯覚さえ覚える。指先が冷たくなっていくのが分かった。  マズい、これは。相当、キてる。  スマートフォンの冷たい感触が、やけにリアルだ。指先が画面の上をするりと滑り、殆ど無意識の内に通話ボタンのアイコンへと吸い寄せられる。受話器の形の、あのマーク。  だが、どうしても、それをタップすることができない。  あと一押し、ほんの数ミリ。その距離が、途轍もなく遠い。 「……くそっ」  悪態をついて、ベッドの上で勢いよく寝返りを打った。スプリングが軋む音が、静かな部屋に虚しく響く。  名前の声が聞きたい。今すぐにでも。他愛ない話をして、笑い合いたい。会いたい。その温もりに触れたい。  でも、たかが一時間の沈黙に耐え切れず、焦って電話を掛けるなんて。そんなの、なんだか……みっともない。エースとして、いや、男として示しが付かない気がする。……なんて、くだらないプライドが邪魔をする。本当は、ただ、余裕のない奴だと思われたくないだけかもしれない。  焦れったくて、もどかしくて、胸の中がマグマみたいに熱くなる。この制御できない感情を持て余してしまう。  ――仕返ししてやる。  先日、彼女に揶揄われて悔しい思いをした時に、そう心に誓った筈だ。「次に会ったら、絶対ギャフンと言わせてやる』と息巻いた記憶が蘇る。  それなのに、どうだ。いざ名前と離れてみれば、俺の中に渦巻いているのは、仕返しへの闘志どころか、情けない程の寂しさばかりじゃないか。  会えない時間が、こんなにも心を蝕むなんて、想像もしていなかった。一日千秋、なんて言葉があるけれど、今の俺にとっては一分一秒が永遠にも感じられる。 「……ダメだ、もう耐えらんねぇ……!」  腹を括った。みっともなくても、余裕がなくても構うもんか。声が聞きたい。ただ、それだけだ。  決意を込めて、スマホを強く握り締める。今度こそ、通話ボタンを押そうと指を振り上げた、その時――。  ピロンッ。  静寂を破って、軽やかな電子音が鼓膜を震わせた。まるで、俺の決意を見計らっていたかのような、絶妙すぎるタイミング。心臓が、トクン、と大きく跳ねた。 慌てて画面に視線を落とす。息を呑む。  そこに表示されていたのは、たった一行。  待ち焦がれた、名前からのメッセージ。 『工くん、寂しくて泣いてない?』 「……っ!!!」  瞬間、沸騰したヤカンのように首筋から顔まで一気に熱が駆け上がった。カァッと音が聞こえそうな程だ。  なんだよ、それ! バカにしてるのか!? それとも、本気で心配してくれてるのか!? どっちなんだ!?  いや、どっちにしろ、俺の心中を完璧に見透かしているようなその言葉に、ぐうの音も出なかった。まるで、さっきまでの俺の葛藤を全部、すぐ傍で見ていたみたいじゃないか。  ……ああ、もう。 「……くそっ、可愛い……」  悔しい。めちゃくちゃ悔しい。なのに、それ以上に、どうしようもなく愛しいという感情が込み上げてくる。この、してやられた感。でも、それが名前だから許せてしまう。いや、寧ろ、嬉しいとさえ思っている自分が居る。  見透かされたような一言に、悔しさと安堵と、そしてどうしようもない愛しさがごちゃ混ぜになった複雑な感情で、俺はスマホをぎゅっと握り締めた。手のひらが汗ばんでいる。  ……いや、やっぱり早く会いたい。めちゃくちゃ会いたい。  でも、この、会えなくてもどかしくて、彼女の一言に一喜一憂させられる時間も……。うん、悪くない、かもしれない。  次に会えた時こそ、今日のもどかしさも含めて、盛大に仕返ししてやる為の、エネルギーになると思えば。  俺は、少しだけ口角を上げながら、新たな決意を胸に、名前への返信を打ち始めた。まずは、この可愛い『挑発』にどう応戦してやろうか、考えながら。



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