雨の朝の駆け引き | 二つの感情が交錯する、雨の日の密室。

 今日の朝は、雨音で始まった。  窓の外では鉛色の雲が低く垂れ込め、細かな雨粒が静かにアスファルトを濡らしていく。どこか冷たく湿った空気が、部屋の中まで忍び寄ってくるようだった。  ベルトのバックルを留めながら、俺は苗字家のマンションのキッチンに視線を滑らせる。前以て外泊許可を貰い、昨夜は珍しく、名前の部屋で一夜を明かした。 「偶には、ゆっくり休んでいって」  先日の名前はそう言って、普段なら寮に帰る筈の俺に申し出てくれた。気遣いを感じる言葉の裏には、何か口にできない感情が潜んでいるようにも思えた。夜は長く、色々な話をした。彼女の部屋には、ラベンダーの香りが漂っている。それは、名前そのものの香りでもあった。 (また、こうして過ごす時間があればいいな)  そんな想いが胸を過った瞬間、甘い香りが鼻腔を擽った。フライパンの上でバターが溶け、じゅわっと音を立てている。名前は淡い色のエプロンを身に纏い、瞳を細めながら丁寧にフレンチトーストを焼いていた。  静かなバッハのチェロ組曲が流れるリビング。窓ガラスを伝う雨粒が、朝の柔らかな光を屈折させ、部屋の中に神秘的な影を描いている。 「……はぁ」  俺は数日前のやり取りを思い出し、思わず溜息をついた。 「今日はね、工くんが選んでくれた下着をつけているよ」  何の前触れもなく、そんな言葉を放った名前。心臓が飛び跳ねるような衝撃が全身を駆け巡った。しかも、俺の動揺を楽しむように、最後には「冗談だったよ」と涼やかな微笑みを浮かべて……。 「……ったく」  悔しさと弄ばれた屈辱、恥ずかしさが入り混じる。そして、一瞬だけ見せた甘い幻想に自分が踊らされたことへの情けなさ。それらが複雑に絡み合い、俺の胸を黒い感情で満たした。 「絶対、仕返ししてやるからな」  先日、俺が放った言葉が頭の中で反響する。このまま黙って引き下がる程、俺は甘くない。 「……やるか」  名前が調理に集中している隙を見て、俺はゆっくりと彼女の背後に近づいた。  フレンチトーストを焼く横顔は、朝の光を浴びて一層美しく見える。磁器のような白い肌、落ち着いた色合いの髪、そして深海のような、何を映しているのか測り知れない瞳。  その横顔を見つめながら、俺は意図的に声のトーンを落として囁いた。 「なぁ、名前」 「……ん?」  振り向く彼女の瞳が、俺の視線と交差する。 「……俺さ、お前が好きって言ってた下着、穿いてるんだけど」 「――っ」  一瞬、名前の手が止まり、呼吸が浅くなったように見えた。俺はその微細な変化を見逃さなかった。 「ほら、お前の好みなんだから、ちゃんと教えといた方がいいかなって」  名前は無言のまま、まるで深淵を覗き込むように、俺の心の奥底を見透かそうと見つめてくる。その視線の重みに、裸にされたような錯覚を覚え、自分の嘘が露見するのではないかと、一瞬、不安に駆られた。 「どうした?」 「……」  名前の長い睫毛が小刻みに揺れ、唇が僅かに開く。何かを言おうとする気配に、俺は無意識に息を止めた。 「……工くん」 「ん?」 「嘘を吐くのは、良くないよ」  ――!!  一瞬で見抜かれた。これほど簡単に読まれるとは。内心で舌打ちしながらも、俺は引き下がる気はなかった。 「嘘じゃねぇよ」  俺は彼女に一歩近づき、声を落として続けた。 「本当に、穿いてる」  再び沈黙が二人の間に流れる。名前の瞳に、僅かな揺らぎが生まれた。その反応を見て、俺は少しずつ勝利の予感を感じ始めていた。 「……どんなの?」 「……っ!」  予想外の返しに、今度は俺の方が言葉を失った。その僅かな隙を、名前は見逃さなかった筈だ。 「言葉で説明するより、見せた方が早いかな?」  先日、名前が俺に言ったセリフを、そのまま返す。意図的な挑発だったが、その言葉を口にした瞬間、自分の心拍が早くなるのを感じた。 「……」  名前の指が、フレンチトーストを返す動きを止めた。  二人の間に沈黙が広がる。部屋の中には雨音だけが響き、時間が凍り付いたようだった。  そして、次の瞬間―― 「……ふふ」  名前が微かに笑った。その笑みは、まるで勝負の結末を知っているかのようだった。 「工くん」 「な、なんだよ……」  俺は何か不穏なものを感じ、思わず身構える。 「フレンチトースト、焼けたよ」 「え?」  唐突な話題の転換に戸惑いを隠せない。名前は何事もなかったかのように、トーストを皿に盛り付けていく。その所作は優雅で、計算された自然さがあった。だからこそ、違和感を覚える。  ……何か企んでいるのか?  俺は警戒しながら椅子に腰掛け、目の前に置かれたフレンチトーストを見つめた。こんがりと狐色に焼き上げられた表面に、粉砂糖が雪のように舞い落ち、琥珀色のメープルシロップが滴り落ちている。その甘い香りに、一時的に緊張が緩んだ。 「……まぁ、うまそうだな」 「うん、食べて」  促されるまま、一口を口に運ぶ。ふわりとした食感と共に、バターの香ばしさと砂糖の甘さが口内に広がった。 「……美味い」 「良かった」  名前は満足げに微笑み、白い磁器のカップに紅茶を注ぐ。その仕草には気品があり、見惚れてしまうが、俺はまだ警戒を解かない。 「……なぁ、さっきの話、どう思った?」  フォークを置き、名前の反応を探る。すると―― 「……うん」  名前はゆっくりと頷き、俺の方へ身を乗り出した。その仕草には、普段は見せない艶めかしさがあった。 「今度、わたし好みの下着を、本当に選んであげようか?」 「――!!」  突然の言葉に、フレンチトーストが喉に詰まりそうになる。 「っ、げほっ! げほっ!!」 「工くん、大丈夫?」  心配そうに紅茶を差し出す名前の表情には、どこか楽しげな色が混じっていた。 「お、お前なぁ……!!」  名前は静かに微笑んでいる。その瞳には、獲物を追い詰めた猟師のような満足と、何か言葉にできない複雑な感情が宿っていた。  ……完全にやられた。  仕返しのつもりが、またしても彼女の術中に嵌ってしまった。勝負には勝ったつもりでいたが、最後の最後で逆転されてしまった感覚。 「……お前、やっぱり自覚しろって……」  深い溜息と共に、俺は言葉を絞り出した。 「うん、分かったよ」  名前は小さく頷くと、優雅な仕草で紅茶を口に運ぶ。その横顔を見つめながら、俺は決意を新たにした。  次こそは、絶対に仕返ししてやる――!!  窓の外では、雨が静かに降り続いていた。しかし、部屋の中では、目には見えない熱が密やかに燃え始めていた。



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