シミラールック攻略本 ∟名前が仕掛けた"色の魔法"に、俺はまた完敗した。

兄貴が登場します。  秋の空気が窓の隙間から忍び込み、部屋の温度を心地良く下げていく。俺は、苗字家のソファに深く身を沈め、数日前に彼女と過ごした、あの甘やかな日のことを反芻していた。  セージグリーンのニット。チャコールグレーのパンツ。生まれて初めて身に付けた、洒落た革靴。ガラス張りのショーウィンドウに映った俺達の姿は、まるで一つの物語を共有しているようで、気恥ずかしさと同時に胸を張りたいような誇らしさでいっぱいだった。 「わたしも、この服を着た工くんが、一番好きだよ」  そう言って、花が綻ぶように微笑んだ名前の顔が、瞼の裏に鮮やかに焼き付いている。  彼女が俺を想い、選び抜いてくれた服。その事実だけで、あのセーターはどんなブランド物よりも価値のある、俺だけの宝物になった。このどうしようもない高揚感は、誰の入れ知恵でもない、俺と名前、二人だけの純粋な感情の交歓が生み出した奇跡だと、信じて疑わなかった。  穏やかな午後の静寂を破ったのは、書斎のドアが軋む音だった。ぬるり、と云う擬音が相応しい気配と共に、名前のお兄さんである兄貴さんが姿を現す。今日の彼の胸元には『推敲は自分との殴り合い』と云う、創作者の壮絶な闘いを物語る文字列が、やけに血気盛んな毛筆体で踊っていた。 「やあ、工くん。今日も妹と仲睦まじいようで、兄としては何よりだ」 「こ、こんにちは、兄貴さん!」 「気分転換にコーヒーを淹れに来たんだが……ああ、そうだ。名前、少し頼まれてくれないか。書斎の机の上にある『世界の奇鳥大全』と云う分厚い本を取ってきてほしい。今、空飛ぶサボテンの翼の構造で悩んでいてね」  隣で静かに本を読んでいた名前が、兄貴さんの突飛な悩みに、僅かに眉を動かした。その反応を横目に、俺はバレーで鍛えた反射神経を無駄遣いし、弾かれたようにソファから身を起こした。 「俺が! 俺が行きます!」  好きな子の前で、その家族に良いところを見せたい。そんな単純明快な男心だった。兄貴さんは「おや、そうかい? 助かるよ」と面白そうに目を細め、名前は「ありがとう、工くん」と、静謐な湖面のような瞳で、俺を見上げた。その視線だけで、俺のやる気は最高潮に達する。  兄貴さんの書斎は、本の雪崩が起きる寸前のような、混沌とした創造の空間だった。言われた通り、机の上に鎮座する『世界の奇鳥大全』に手を伸ばす。その時、ふと視界の端に、ローテーブルの天板に無造作に置かれた、一冊の書籍が映り込んだ。 『初心者でも絶対失敗しない! 恋人と始めるシミラールック入門 ~"匂わせ"から"完全一致"まで~』  ……ん?  俺は動きを止めた。資料を掴み掛けた指が、空中で化石のように固まる。脳が、その文字列の意味を咀嚼するのに、数秒を要した。シミラー……ルック。どこかで聞いた、耳障りの良い単語。その後に続く、やけに具体的な副題。  ――雷鳴が頭蓋の内側で轟いた。  脳内で、あの日の記憶が猛烈な勢いで逆再生される。  俺が着ていた、燻んだセージグリーンのニット。名前が穿いていた、ブラウン基調のタータンチェックのスカート。一見、バラバラに見えるのに、並んで歩くと不思議な程に調和していた、あの完璧な組み合わせ。  まさか。  いや、そんな筈は。  俺は吸い寄せられるようにその本を手に取り、震える指でページを捲った。目に飛び込んだのは、『上級編:キーカラーで紡ぐ、二人だけの世界観』と云う、小洒落た見出し。そこには具体的なコーディネート写真ではなく、色彩理論に基づいた解説がびっしりと書き連ねてあった。 『――例えば、キーカラーを一つ設定し、互いの服装に散りばめる手法は、洗練された一体感を演出します。スモーキーなグリーンを男性側のトップスに採用した場合、女性側は同系色の柄物スカートや、或いは全く別の色味の服装に、キーカラーのアクセサリーやバッグを合わせることで、主張し過ぎない、知的な繋がりが生まれるのです――』  カッと、全身の血液が沸騰する。羞恥の熱が、顔面から耳、首筋までを瞬く間に侵食していく。  またか! またしても、俺はこの手のハウツー本の実験台にされていたと云うのか! 『悪魔的恋愛上達術』に『奇跡の一枚を撮る構図の法則』、そして、今度は『シミラールック入門』だと!? 苗字家は、俺を攻略する為の教本で満ちているのか!  恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。  だが、その羞恥の嵐の中心で、全く別の感情が芽吹いてしまうのを止められない。  俺とのデートの為に。  「お揃いのヤツ」と云う、俺の拙い願いを、最高の形で叶える為に。  名前は、こんな本まで読んで、一生懸命に研究してくれていた。その事実が、どうしようもなく愛おしい。彼女の、掴みどころのないミステリアスな魅力の裏側にある、健気で、少し不器用だけど、全力の愛情表現。そのギャップに、心臓がぎゅうっと締め付けられる。  好きとか、愛しいとか、そんな単純な言葉では、この胸の内で暴れ回る感情を、到底表現できない。  もっとこう、根源的で、抗い難くて、手の施しようがない想い。  これは、ヤバイ。 「工くん? 資料、見つかったかな」  背後から、名前の涼やかな声が届いた。はっとして振り返ると、彼女が不思議そうな顔で、書斎の入り口に立っている。その静かな双眸が、俺の手の中にある一冊を捉え、ほんの僅かに見開かれた。 「あ……」  俺は本を突き出し、しどろもどろに言葉を紡ぐ。 「先頭文字名前、これは……! あの日の服は、まさか、この本の……!」  問い詰める声は情けなく裏返っていた。そんな俺を見て、名前は少しも悪びれる様子なく、悪戯が成功した子供のように、ふわりと微笑んだ。 「うん。工くんと、もっとお洒落を楽しみたかったから。少し、勉強してみたんだ」 「べ、勉強……」 「あの日の工くん、本当に素敵だったよ。わたしの想像以上に。……この本に書かれていた、どんな法則よりも、工くんに似合う組み合わせを考える方が、ずっと楽しかったけれどね」  その一言が、俺の理性の最後の砦を木っ端微塵に粉砕した。  羞恥も、プライドも、何もかもが吹き飛んで、ただ目の前の彼女が、どうしようもなく愛しいと云う感情だけが、全身を駆け巡る。 「……お前、ほんと……ヤバイ」  絞り出したのは、そんな語彙力のない言葉だった。  俺は堪らず本をその場に落とし、彼女の華奢な身体を思い切り抱き締めた。驚いたように、名前の身体がびくりと跳ねる。 「工くん?」 「敵わない。……お前には、絶対に敵わない」  腕の中で、名前がくすりと笑う気配がした。そして、俺の胸に頬を寄せながら、囁くようにこう続けた。 「うん。だって、わたしは工くんを、世界で一番格好良くする方法を、誰よりも知っているからね」  その返しに、俺はまたしても顔から火を噴きながら、このどうしようもなく愛しくて、敵わない恋人を、更に強く抱き締めることしかできなかった。  寮の自室のベッドで、俺は一人、天を仰いでいた。  あの日の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。名前の健気な努力と、悪戯っぽい笑顔。俺の口から洩れた「ヤバイ」と云う、余りにも正直な心の叫び。  クローゼットに掛けられたセージグリーンのニットが、静かに俺を見ている。  あれはもう、ただの服じゃない。  名前のどうしようもなくヤバイ想いが、ぎっしりと編み込まれた、俺だけの宝物だ。  次は一体、どんな一冊で、俺の心を掻き乱すのだろう。  そう考えた瞬間、羞恥よりも先に、ほんの少しの期待が胸を過った自分に気づき、俺は堪らず枕に顔を埋めて絶叫した。



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