白鳥沢エースの光源 ∟スランプに沈んだエースが、名前の"お守り"で再び飛ぶ物語。

兄貴の描写が含まれます。  白鳥沢の次期エース。  その肩書きは誇りであると同時に、鉛のように重い枷でもあった。特に、牛島さんと云う絶対的な存在が卒業した今、俺に注がれる期待と視線は、日毎にその質量を増しているように感じられる。  その日の練習試合は散々だった。  全国レベルの強豪校を相手に、俺のスパイクは悉く厚い壁に阻まれた。焦れば焦る程、身体から力みが抜けなくなり、得意のストレートはコースが甘くなってアウトになるか、或いはリベロの真正面に叩き付けてしまう。 「工! エースがそんなんでどうすんだ!」  鷲匠監督の容赦ない叱責が、体育館の熱気の中で、氷の礫のように突き刺さる。分かっている。誰よりも、俺自身が一番、分かってる。ここで、俺が決めなければ、チームは勢いに乗れない。俺が、牛島さんのように、どんな状況からでも点を奪える絶対的な存在にならなければ。  その強迫観念が、蜘蛛の巣のように思考に絡み付き、俺の動きを更に鈍らせていった。レシーブは乱れ、サーブはネットを越えない。バレーを始めたばかりの頃に、戻ってしまったかのような無力感。  試合は惨敗だった。  ミーティングでの監督の言葉も、先輩達の励ましも、今はただ鼓膜の表面を滑っていくだけだ。悔しさと情けなさで、胸の奥が黒く焼け付くようだった。  一人、また一人と体育館を後にしていく中、俺は黙々とボールを打ち続けた。だけど、空っぽのコートに響く衝撃音は虚しく響くだけで、少しも俺の心を軽くしてはくれない。  どれくらいの時間が経っただろう。疲れ果てて床にへたり込み、エナメルバッグを無造作に引き寄せた時、それに付けられた一つの小振りな飾りが、体育館の常夜灯の光を吸い込んで、静かに瞬いた。  名前から貰った、キーホルダー。  掌に収まる程の、小さなガラスの球体。内側には、彼女の瞳の色を溶かし込んだような、深く、静謐な色の液体が満たされている。その液体の中央には、白金で出来た小さな星が一個だけ、時が止まったかのように、静かに浮かんでいた。  あれは、秋風が肌寒くなる前の、何でもない日のことだった。  並んで歩く商店街から脇道に逸れた、蔦の絡まる古びた建物の二階。そこは、いつから時が止まっているのか分からないような、アンティーク雑貨の店だった。埃の匂いと、古い木の香りが混じり合う中で、名前は宝探しをする子供のように、目を輝かせていた。 「工くん、これ」  名前が指差したのは、ガラスケースの隅、忘れ去られたように置かれていた、このキーホルダーだった。 「お守り、だよ。工くんに、似合うと思って」 「お守り……? これを、俺に?」  俺の疑問に、名前は縦に頷いた。次いで、その静かな双眸で、俺を真っ直ぐに見つめ、彼女らしい、少しだけ詩的な言葉を紡いだ。 「工くんは、暗い夜でも一番強く光る、一番星だから。でも、時々、その光が強過ぎて、自分の進むべき道を見失ってしまうことがあるかもしれない。だから、これは道標。わたしが居る場所に、ちゃんと帰ってこられるように」  その時は正直、半分も意味が理解できなかった。だけど、名前が俺の為に選んでくれた。その事実だけで、この小さなガラス玉は、どんな勲章よりも価値のある、俺だけの宝物になったのだ。  寮に戻り、シャワーを浴びてから自室のベッドへ倒れ込む。軋むスプリングの音が、やけに大きく響いた。ぼんやりとする視界の中、天井の染みが、今日の試合でブロックされた、相手チームの選手の顔に見える。  目を閉じれば、鷲匠監督の失望したような声が蘇る。  駄目だ。このままでは、俺は。  逢いたい。  名前に逢いたい。  こんな情けない姿は見せたくない。でも、彼女の、あの静かで、全てを受け入れてくれるような声が聞きたい。隣に居るだけで、凍て付いた心がゆっくりと溶けていくような、あの温もりに触れたい。  そんな叶わぬ願いを胸に抱いたまま、俺の意識は、疲労と自己嫌悪の深い沼へと沈んでいった。  ――気が付くと、俺は無限に広がる暗闇の中に、一人で浮かんでいた。  上下も左右も分からない、無重力の宇宙空間。声を出そうとしても、音には成らない。手足を動かしても、虚空を掻くだけで、どこにも進めない。焦燥感だけが、心臓を冷たく締め付ける。  俺は、どこへ向かえばいいんだ。  エースとして、どこへチームを導けばいい。  絶望が全身を侵食し掛けた、その時だった。  遥か彼方に、小さな光が灯った。それは、あのキーホルダーの中に浮かんでいた、白金の星。その微かな光が、灯台の灯のように、俺を呼んでいる。  俺は瞬きに向かって、必死に手を伸ばした。  進んでいるのか、いないのかも分からない。それでも諦めたくなかった。きっと、あの白光の先に、俺の帰る場所が在る。  指先が光輝に触れた。  その瞬間、暗闇は淡雪のように溶けて消え、目の前に、名前が立っていた。  彼女は何も言わず、ただ、いつもと同じように、静かに微笑んでいた。その穏やかな表情を見ただけで、張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れる。焦りも、悔しさも、情けなさも、全てがどうでもよくなって、唯一、安らぎだけが温かい波のように全身を包み込んでいった。  ――ハッと目を覚ます。  心臓が、夢の残滓で激しく脈打っていた。窓の外はまだ暗く、月明かりが床に青白い四角形を描いている。ぜえ、と荒い呼吸を整えながら、俺はゆっくりと身を起こした。  夢だった。  だけど、あの安堵感は、確かに本物だった。  机の上に置いたエナメルバッグから、例のキーホルダーを手に取る。ガラスの中の星が月光を反射して、静謐な光を放っていた。 『わたしが居る場所に、ちゃんと帰ってこられるように』  あの日の、名前の言葉の意味が、今なら理解できる気がした。  エースの重圧も、チームを背負う責任も、全部を一人で抱え込む必要なんてなかったんだ。迷った時、道を見失った時、俺には帰る場所が在る。彼女の隣と云う、世界で一番、安心できる場所が。  俺はスマートフォンを手に取り、メッセージアプリを開いた。  『今すぐ会いたい』と打ち掛け、情けない自分に苦笑する。こんな夜中に、迷惑だろう。少し考えてから、俺はこう打ち直した。 『明日、練習が終わったら、少しだけ顔が見たい』  送信ボタンを押すと、一分も経たない内に、画面がぽん、と明るくなった。 『うん。待ってる』  たった七文字の返信。  それだけで、空っぽだった筈の胸が、温かいもので満たされる。俺はキーホルダーをぎゅっと握り締め、再びベッドに横になった。もう、悪夢を見ることはないだろう。  次の日の練習、俺の動きからは、昨日までの迷いが、嘘のように消えていた。全身の力が、しなやかにボールへと伝わっていく。スパイクはブロックの僅かな隙間を射抜き、コートの隅に突き刺さった。 「……なんだ、お前。吹っ切れたのか」  ネットの向こうから、白布さんが呆れたような、少しだけ安堵したような声で言った。  俺は汗を拭い、力強く頷いてみせる。 「俺は、白鳥沢のエースですから!」  その胸には、確かな自信と、何よりも輝く愛しい恋人の存在があった。この光がある限り、俺はもう、道に迷うことはない。  ……まあ、その週末。苗字家を訪れた際、名前の兄である、兄貴さんの書斎の前を通り掛かり、床に『夢占い&深層心理コントロール術 ~彼の無意識にアクセスする方法~』なんてタイトルの本が転がっているのを目撃し、あの夜の救済夢が、まさかの遠隔操作だった可能性に思い至り、一人でソファに突っ伏して悶絶することになるのだが。それはまた、別の話である。



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