春隣りの手紙 ∟季節の変わり目、まだ名前のない関係が、一通の手紙で揺れ動く。

兄貴が登場します。  季節の変わり目はいつも決まって、わたしの脆弱さを暴き出す。  三月の半ば。冬の残滓が春の陽光に溶け、町の輪郭が曖昧に滲む、そんな時季。わたしは自室のベッドの上で、熱に浮かされた思考の海を漂っていた。シーツに吸い込まれる身体の気怠さ、咽喉の奥に巣食う微かな痛み、学校に行けない退屈さ。その全てが、熱さで潤んだ窓ガラスの向こうの、ぼんやりとした景色のように現実味を欠いていた。  只一つ、確かな輪郭を持って心の水面に浮かぶのは、一人の少年の姿。  ぱっつんの前髪と、その下に宿る強い光。コートの上で誰よりも高く跳び、ボールを撃ち抜く、しなやかな肢体。五色工くん。彼に会えない、と云う事実だけが、この面白くない日常の中で唯一、鮮明な喪失感を伴っていた。  コン、コン、と控えめなノックの後、ぬるりとドアが開いた。現れたのは、兄貴兄さん。今日の兄の胸元には『風邪は恋の万能薬』と云う、やけに達筆な明朝体の文字列が、処方箋のように躍っていた。 「やあ、名前。具合はどうかな。何か、欲しいものはあるかい? 例えば、喋るサボテンが恋の病を治す、なんて物語とか」 「……要らないよ。それより、飲み物が欲しいな。冷たい水がいい」 「了解した。その前に、退屈凌ぎの差し入れだ」  そう言って、兄さんがベッドサイドにそっと置いたのは、一冊の本だった。赤と黒の扇情的な表紙に、舞うようなフォント。 『一瞬で相手の心臓を射抜く! 恋文の書き方必勝講座』  わたしは熱で重い腕を持ち上げ、その胡散臭いにも程がある書籍を手に取った。ぱらり、とページを捲れば、目に飛び込むのは喧しいくらいにポジティブで、妙に自信に満ちた断言の数々。 『言葉の矢で、彼の心を射止めなさい!』『便箋一枚に、宇宙を込めろ!』  わたしと五色くんの関係は、まだ名前のない、曖昧な場所に在る。只のクラスメイト、と云うには近過ぎて、友達、と呼ぶには何かが違う。この本に記された恋文の書き方など、今のわたし達には必要ない筈だった。  けれど。  ページを繰る指が、或る一文の上でぴたりと止まった。 『弱っている姿で庇護欲を掻き立て、不意打ちのストレートな言葉で追撃する』  脳裏に、五色くんの顔が浮かんだ。褒められれば面白い程に天狗となり、落ち込めば世界の終わりのような表情をする、感情の振れ幅が大きくて、大型犬みたいな男の子。そんな彼に、この『恋文の書き方必勝講座』とやらを仕掛けてみたら、一体、どんな反応をするのだろう。  想像しただけで、普段は凪いでいる心の水面に、小さな擽ったい波紋が広がった。誰も知らない秘密の遊びを見つけてしまった子供のように。  わたしはペンとレターセットを手に取った。これは、只の実験。熱に浮かされた頭が見せる、ほんの気紛れ。そう自分に言い聞かせながら。  どんな言葉を紡いだのか、正直、よく憶えていない。只、普段のわたしからは想像も付かないような、拙くて、剥き出しの気持ちを並べ立てた。本の教えと、心の奥底から湧き上がる本音が、熱で溶け合い、一つの形を成していく。  書き終えた頃には、心臓が奇妙な程の速さで脈打っていた。これはもう、"只の実験"なんかじゃない。  夕暮れ時、インターホンの音で微睡みから引き揚げられた。お見舞いに来てくれたのは、案の定、五色くんだった。部活帰りなのだろう、ジャージ姿の彼は、わたしの部屋に通されると、どうしていいか分からないと云った様子で、所在なげに視線を彷徨わせている。 「だ、大丈夫か、苗字さん。顔、赤いぞ」 「うん、少し熱があるだけ。心配してくれて、ありがとう」  指南書通りに、弱々しく、儚げに。わたしは努めてゆっくりと瞬きをし、彼を見上げた。途端に、五色くんの顔に浮かんだ心配の色が、一層濃くなる。その分かり易さが、堪らなく愛おしい。  短い会話の後、五色くんが「じゃあ、俺、そろそろ……」と腰を浮かせた、その瞬間。わたしは衝動的に、彼のジャージの袖を掴んでいた。 「待って、五色くん」  驚いて振り返る彼に、わたしは枕元に隠していた封筒を差し出した。  これは罠だ。  五色くんの心を射抜く為に仕掛けた、甘い罠。  けれど、その封筒を握るわたしの指先は、紛れもなく慄いていた。だって、生まれて初めての、わたしから誰かへの、震えるような告白だったから。
 苗字名前が、風邪で学校を休んだ。  その事実だけで、教室の空気が、彩度を一段階落としたように感じられた。いつも、彼女が座っている席が空いている。ただそれだけのことが、胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な喪失感を、俺に与えた。授業の内容も、昼飯の味も、何も頭に入ってこない。  放課後。部活中も、俺の思考の片隅には、ずっと彼女の姿が在った。今頃、どうしているだろう。一人で心細くしていないだろうか。  居ても立ってもいられず、練習が終わると同時に、俺は彼女の住むマンションへと駆け出していた。  インターホンを押し、彼女の兄である兄貴さんに招き入れられる。初めて足を踏み入れる苗字さんの部屋は、彼女自身を思わせる、静かで不思議な匂いがした。ベッドの上で上半身を起こした苗字さんは、いつもよりずっと小さく、儚げに見えた。熱の所為か、白い頬はほんのりと上気し、潤んだ瞳は夜の海底のように揺らめいている。 「だ、大丈夫か、苗字さん。顔、赤いぞ」  俺の声は、自分でも驚く程に上擦っていた。彼女の弱々しい姿を目の当たりにして、心臓が警鐘のように、どく、どくと激しく脈打つ。守ってやらなければ。俺が、どうにかしてやらなければ。そんな柄にもない庇護欲が、腹の底から湧き上がる。  何を話したのか、緊張でよく憶えていない。只、苗字さんが時折、マスクの中で苦しそうに咳き込む度、俺の心臓はぎゅうっと締め付けられた。長居は悪いだろうと、そろそろ帰るべく腰を浮かせた、その時だった。 「待って、五色くん」  ジャージの袖を、華奢な指が掴んだ。驚いて振り返ると、苗字さんが熱に浮かされたような瞳で、俺を見つめ、一つの封筒を差し出していた。その指先が、僅かに震えているのが見えた。 「……これ」  俺は訳が分からないまま、それを受け取った。掠めた手指から伝わる、彼女の体温。それが、苗字さんの心そのもののように感じられた。  どうやって家まで帰ったのか、記憶が曖昧だ。只、ジャージのポケットに入れた封筒の、確かな感触だけが、やけに生々しい。  自室に戻り、ベッドに腰掛ける。心臓が破裂しそうなくらい煩い。意を決して手紙の封を切り、中から現れた便箋を緊張の走る手で広げた。  そこに並んでいたのは、苗字さんの普段の佇まいからは想像も付かない程、不器用で、真っ直ぐな言葉の連なりだった。 『五色くんと、五色くんのバレーボールが好きです』  その一文を読んだ刹那、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。  進学先の、白鳥沢学園高校の次期エースとしてではなく。あの、牛島さんに次ぐスパイカーとしてではなく。"五色工"と、"五色工のバレーボール"を、苗字さんが好きだと綴ってくれている。俺と云う、只の一個人の存在そのものを、真正面から肯定してくれた、初めての異性からの言葉。  息が止まる。  呆然と、次の行に視線を落とした。 『五色くんの隣に、わたしも居ていいでしょうか』  ――ドクン。  心臓を直接、鷲掴みにされた。  あの弱々しい姿。潤んだ瞳。熱っぽく、剥き出しにされた言葉。それらの凄まじいまでの破壊力に、俺の脳は完全に機能を停止させた。  これが、何かの間違いや、風邪の症状による戯言だとは思えなかった。これは、苗字名前の偽らざる本心だ。  込み上げてくるのは、歓喜。そして、どうしようもない愛おしさ。  この感情が"恋"なのだと、俺はこの瞬間に、絶対的な確信を持って理解した。  俺は封筒を強く握り締めた。便箋に残る、苗字さんの甘い香りが、俺の理性を溶かしていく。  苗字さんが元気になって、登校してきたら、必ず伝えよう。  俺も、苗字さんの隣に居たい、と。  甘い罠に掛かったとも知らず、俺は幸福の熱に浮かされながら、宝物になったばかりの一通の手紙を、何度も、何度も読み返すのだった。



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