夕映えの果て
∟避けても追われる誠実さに、心臓は完敗する。
兄貴が登場します。
数日後、わたしの身体から、熱は綺麗に抜け落ちていた。けれど、代わりに燃えるような羞恥心が、心の奥底で燻り続けている。シーツの海に沈んでいたあの数日間が、まるで遠い前世の出来事のようだ。
あれは、風邪が見せた幻。気の迷い。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせる程、五色くんのジャージの袖を掴んだ時の感触と、戸惑いながらもわたしを気遣う真摯な眼差しが、雨上がりのアスファルトに映る陽光のように、鮮烈に蘇ってくるのだ。
『五色くんと、五色くんのバレーボールが好きです』
便箋に綴った、剥き出しの言葉達。熱に浮かされた頭で書いたとは言え、あれは紛れもなく、わたしの本心だった。実験のつもりだった秘密の遊びは、いつの間にか、わたし自身の心臓を的にした、危険な賭けへと姿を変えていた。
春の陽光が眩しい。重い足取りで教室のドアを開けると、五色くんの大きな背中が、真っ先に目に飛び込んできた。心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。すると、待ち構えていたかのように、彼が振り返り、わたしの存在を真っ直ぐに捉えた。その視線が、スパイクを撃ち込む直前のように鋭く、真昼の太陽のように容赦がなくて、わたしは咄嗟に目を逸らしてしまった。
その日一日、わたしは彼の眼差しから逃げ続けた。
休み時間の度に、五色くんの気配が近づいてくるのを感じ、その都度、クラスメイトの輪の中に隠れた。彼女らの他愛ないお喋りは、今のわたしにとって、嵐から身を守る為の仮初めの避難小屋だった。彼の実直さが、今はただ怖い。あの手紙を、彼はどう受け取ったのだろう。もし、悪戯だと思われていたら? もし、困らせてしまっただけだとしたら? 最悪の想像ばかりが、思考の迷宮をぐるぐると巡る。
放課後。チャイムの音が、闘いの終わりを告げるゴングのように響く。わたしは鞄を掴み、逃げるように教室を飛び出した。早く家に帰って、この息の詰まるような気まずさから解放されたい。その一心で、昇降口へ向かう廊下を足早に歩いていた、その時。
「
苗字さん!」
背後から掛けられる、焦ったような声。ぐい、と腕を掴まれた。振り返るまでもない。五色くんだ。夕暮れの光が差し込む廊下で、彼の影が、わたしの影を覆い尽くす。
「……な、何?」
「何、じゃない! 今日、俺のこと、ずっと避けてただろ」
少しだけ、拗ねたような響き。五色くんの大きな手が、わたしの片腕を熱く包んでいる。バレーボールを扱い続けてきたその指先には、まだ少年の柔らかさが残っていて、それでも確かに鍛えられた体温が、わたしの理性をじわりと溶かしていくようだった。
「あの、手紙の返事……させてくれ」
五色くんの言葉に、息を呑んだ。心臓が、風邪の時とは比べ物にならない程の速さで、警鐘を鳴らし始める。もう、逃げ場はない。
彼に連れてこられたのは、体育館の裏手。部活に向かう生徒達の喧騒が、嘘のように遠い場所だった。西日が、五色くんの広い肩と、緊張で強張った横顔をオレンジ色に染めている。壁に背を預けたわたしは、判決を待つ罪人のような心地だった。
「手紙、読んだ。……すげー、嬉しかった」
ぽつりと、五色くんが口を開いた。その声は、いつもの体育館に響き渡る声音とは違う、少しだけ掠れた、真摯な色を持っていた。
「…………」
「俺のこと、俺のバレーのこと、ちゃんと見ててくれたんだなって。……あんな風に言われたの、初めてで」
五色くんは一度言葉を切り、ごくり、と喉を鳴らした。そして、わたしに向き直ると、迷いのない、真っ直ぐな瞳で言った。勝負の瞬間にボールを見据えるような、揺るぎない眼差しだった。
「俺も、
苗字さんのことが好きだ。だから……俺の隣に、居てほしい」
――トクン。
わたしの心臓が、一拍遅れて震え、射抜かれた。
五色くんが紡いだのは、わたしが書いた言葉への、これ以上ない程に誠実なアンサーだった。仕掛けたのは、わたしの方だったのに。彼の純粋なストレートに、完膚なきまでに撃ち抜かれてしまったのは、わたしの心の方だった。
熱く込み上げてくるものを堪えながら、わたしは小さく、でも、はっきりと頷いた。
「……うん」
その一言を絞り出すのが、精一杯だった。
途端に、五色くんの強張っていた表情が、安堵と歓喜でふにゃりと崩れる。その幼子のような変化に、わたしも堪え切れず、唇が綻んだ。腕を掴んでいた彼の大きな手が、今度は壊れ物を扱うかのように、そっとわたしの手指を握る。その温かさが絶対的な安心感となって、全身に染み渡っていった。
家に帰ると、リビングのソファで寛いでいた
兄貴兄さんが、わたしを見るなり、全てを見透かしたように、ニヤリと口の端を上げた。今日の兄の胸元には、あの日と同じ達筆な明朝体で、こう書かれていた。
『ミッション・コンプリート』
「……兄さんの所為だからね」
唇を尖らせ、そう咎めてみるけれど、声は溶け掛けた飴みたいに、形に成り切らないまま、口唇から零れた。それは非難と云うより、照れ隠しと安堵が綯い交ぜになった、子供のような響きだった。
「おや、何のことかな?」
兄は恍けた態度で、読んでいた本から顔を上げた。その瞳が悪戯っぽく細められる。
「俺の指南書は、あくまで舞台装置を整えただけだ。五色工くんの心臓を射抜いたのは、
名前、君自身の言葉だったんだろう?」
兄の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。そうだ。切っ掛けは胡散臭い指南書だったかもしれない。けれど、五色くんに伝えたかった想いは紛れもなく、わたし自身のものだ。彼の手を握り返したのも、自分の意志。その事実が、今は何よりも誇らしかった。
ふと、兄の手許に視線を落とす。そこには、いつの間にか新しい本が収まっていた。『初めてのデート必勝講座 ~プランニングからスマートな会計まで~』と云う、またしても疑わしいタイトル。
わたしは呆れて溜め息を吐きつつも、口許が綻ぶのを止められなかった。この兄が居る限り、わたしの恋路に退屈は存在しないのだろう。
季節の変わり目は、わたしの脆弱さを暴き出す。
でも、その弱さがあったからこそ、わたしは生まれて初めて、誰かに手を伸ばすことができた。
甘い罠の結末は、想像していたよりもずっと幸福な熱を帯びていた。わたしの手の中に残る、五色くんの温もり。それが、これから始まる物語の、確かな序章だった。