シミラールックは甘い呪い
∟二人だけのドレスコードで、彼女は俺を世界に刻み込んだ。
兄貴が登場します。
わたしの恋人、五色工くんは時折、驚く程に無防備な言葉を、その真っ直ぐな瞳と共に投げ掛けてくる。
「今度はお揃いのヤツとか、どうだ……?」
あの日の夕暮れ、わたしが選んだ服を着た彼が、照れ臭そうに期待を滲ませて紡いだ言葉。その響きは、わたしの心の水面に、静かでありながらも深く広がる波紋を描いた。
お揃い。
それは所有の印だ。彼がわたしの、わたしが彼の、特別な存在であると云う無言の表明。街ですれ違う人々への、ささやかでありながら、絶対的な牽制。わたしと云うフィルターを通して選び抜かれた意匠を、工くんが身に纏う。その事実だけで、胸の奥底に潜む独占欲が甘く満たされていくのを感じていたけれど、"お揃い"と云う概念は、その欲望を更に純粋で、強烈な形へと昇華させる響きを持っていた。
週末の昼下がり。リビングのソファで来るべき日の為の構想を練っていると、書斎から兄さんがひょっこりと顔を出した。今日の兄さんの胸元には『〆切は概念、睡眠は義務』と云う、作家としての矜持と、生物としての本能が激しく鬩ぎ合った末の、苦渋の結論が刻まれている。
「やあ、
名前。何やら、楽しげな顔をしているね。次のデートの計画かい?」
「
兄貴兄さん。うん。工くんと、お揃いの服を買いに行こうと思って」
「お揃い、か。良いじゃないか。恋人達の特権だね。ペアルックと云うのは、二人の関係性を可視化する、最も分かり易い記号だからね」
兄さんはそう言うと、キッチンから持ってきたらしいマグカップを片手に、わたしの向かいに腰を下ろした。
「だが、
名前。ただ同じものを着るだけでは、芸がない。記号は時に、人を思考停止に陥らせる。重要なのは、その記号の裏に、どれだけの物語を込められるかだ。二人にしか分からない色、共有した記憶の形、互いの瞳に映る理想の姿……。そう云ったものを織り交ぜてこそ、単なるペアルックは、世界で一つだけのドレスコードへと昇華するんだ」
兄さんの言葉は、時に突飛な物語の断片に聞こえるけれど、その根底にはいつも、物事の本質を突く鋭さが潜んでいる。わたしは静かに頷き、頭の中に散らばっていたイメージの欠片が、一つの明確な形を結び始めるのを感じていた。
工くんを、わたしだけの色で染め上げる。
それは、工くんがエースとして放つ鮮烈な輝きとは違う、わたしだけが知っている、彼の柔らかな部分を包み込む為の衣。彼を、わたしの聖域に閉じ込める為の、甘美な呪い。
約束の日。待ち合わせ場所に現れた工くんは、矢張り、いつもの動き易さを重視したパーカー姿だった。その快活な出で立ちも好きだけれど、今日も、わたしの我儘に付き合ってもらう。
「行こうか、工くん」
「お、おう! どんな店に行くんだ? スポーツ用品店か?」
「ううん。今日は、少し違う場所」
わたしが彼を連れてきたのは、古びたビルをリノベーションした、隠れ家のようなセレクトショップが点在する一角だった。ショーウィンドウに飾られた、ミニマルで洗練された衣服の数々に、工くんは明らかに気圧されている。
「
先頭文字、
名前……。俺、こう云う店、入ったことないんだけど……」
「大丈夫。わたしが居るよ」
わたしは彼の大きな手を引き、躊躇うことなく一軒の店の重いドアを開けた。店内に漂う、ウッドチップと革の混じった香りが、非日常への入り口を告げている。
工くんが想像していた"お揃い"はきっと、同じロゴが入ったTシャツか何かだったのだろう。でも、わたしが求めているのは、もっと曖昧でいて、強固な繋がり。一見しただけでは分からないけれど、知る人が見れば、二人が一つの世界に属していることが一目で理解できるような、そんな仕掛け。
わたしは店内を巡り、工くんの為の一枚と、わたしの為の一枚を、パズルのピースを嵌めるように選んでいく。彼には、秋の終わりの曇り空と草原を思わせる、燻んだセージグリーンのローゲージニット。わたしには、そのニットの色を差し色として織り込んだ、ブラウン基調のタータンチェックのプリーツスカート。
「工くん、これを試してみて」
「こ、これか……? なんか、大人っぽいな……」
戸惑いながらも、工くんは素直に試着室へと向かう。わたしはその間に、彼の長い脚を更に美しく見せるであろうチャコールグレーのパンツと、クラシカルな革靴を選び出した。
ややあって、カーテンの向こうから現れた彼の姿に、わたしは小さく息を呑んだ。
普段の快活な少年らしさは影を潜め、柔らかなニットの質感が、工くんの引き締まった身体のラインを、驚く程の優美さで艶やかに見せている。ぱっつんの前髪の下、強い眼差しとのアンバランスさが堪らなく魅力的だ。
わたしは彼の前に立ち、その瞳をじっと見つめた。工くんのスモーキークォーツのような双眸の中に、小さなわたしが映り込んでいる。そこには戸惑いと、ほんの少しの期待と、わたしへの絶対的な信頼が浮かぶ。
「うん。とてもいい」
わたしは完成した芸術作品を前にした鑑定家のように、絶対的な確信を込めて静かに告げた。
「工くんは、わたしが選んだものが、世界で一番似合うね」
名前に言われるがまま、俺は生まれて初めて足を踏み入れるようなお洒落な空間で、着慣れない服を次々と試着していた。
鏡に映る自分の姿は、まるで知らない誰かのようだ。こんな、雑誌のモデルが着るような服、本当に、俺に似合っているのか? 気恥ずかしさで、全身がむず痒い。
だけど。
試着室から出る度、
名前が「似合う」と、静かな湖面のような瞳で、嘘偽りのない本心を告げてくれる。その一言が魔法の呪文のように、俺の中に渦巻く羞恥心や戸惑いを、誇らしさへと塗り替えていくのだ。彼女が「良い」と言うのなら、それはもう世界で一番格好良い服に違いなかった。
購入した服にその場で着替え、俺達は再び街を歩き始めた。最初は背中を丸めて、誰にも見られないようにと願っていたけど、ふとガラス張りのショーウィンドウに映る自分達の姿を見て、心臓が大きく跳ねた。
セージグリーンのニットを着た俺と、同じ色合いのチェック柄のスカートを穿いた
名前。並んで歩くその姿が、一つの物語を共有しているように見えた。気恥ずかしさよりも、彼女と同じ世界に属しているのだと云う甘やかな高揚感が勝っていく。
公園のベンチに腰掛け、隣に座る
名前の顔を、俺はそっと覗き込んだ。
「なあ、
名前」
「なあに、工くん」
彼女がこちらを向く。夕暮れ前の柔らかな光が、
名前の輪郭を淡く縁取り、夜の海を連想させる瞳を、蜂蜜のような色に透かしていた。
その瞳の奥に、俺は見つけてしまった。
いつもの掴みどころのない静けさとは違う、きらきらと熱を帯びた光。それは自分の思い描いた通りに作品を完成させた創作者の喜びにも似ていて、同時に、お気に入りの玩具を手に入れた子供のような、無垢で強烈な独占欲の色をしていた。
名前の双眸に映る俺は、彼女の"好き"で完璧にコーディネートされた、彼女だけの所有物。
その事実に気づいてしまった瞬間、心臓が制御不能な暴走を始めた。ドクン、ドクンと、全身に血液を送り出すポンプが、羞恥と歓喜で限界まで回されている。
「……俺、この服、すげぇ好きだ」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚く程の熱を帯びていた。
俺の言葉に、
名前はふわりと花が綻ぶように微笑んだ。薄桃色の唇が、トドメの一撃を紡ぎ出す。
「うん。わたしも、この服を着た工くんが、一番好きだよ」
ああ、もう。駄目だ。
このどうしようもなく愛しい恋人に、一生、敵う気がしない。
俺は堪らなくなって、
名前の華奢な手をぎゅっと握り締めた。驚いたように目を見開いた彼女が、すぐに優しく握り返してくれる。その温かさが、俺の全身に染み渡る。
この繋がりを、幸福を、絶対に誰にも渡さない。
夕陽が街を茜色に染め上げる中、俺は繋いだ手指の温もりを感じながら、そう強く誓った。
……まあ、後日。
苗字家を訪れた際、ローテーブルの上に『初心者でも絶対失敗しない! 恋人と始めるシミラールック入門 ~"匂わせ"から"完全一致"まで~』なんてタイトルの本が無造作に置かれているのを発見し、あの日の完璧なコーディネートの裏に、またしても彼女の周到な予習があったことを知り、寮の自室のベッドで一人、天を仰ぐことになるのだが。それはまた、別の話である。