"虜"のレシピ ∟胡散臭い恋愛本を開いたら、俺はもう、好きの沼の底に居た。

兄貴の描写が含まれます。  秋風が、夏の残り香を攫っていく。そんな季節の変わり目の放課後、俺は当たり前のように、名前の部屋のソファに沈み込んでいた。部活で火照った身体に、彼女の部屋の静謐な空気が心地良く染み渡る。隣に座る名前は、ただ黙々と本を読んでいる。それだけの、何の変哲もない時間。だけど、この穏やかさこそが、今の俺にとっては何よりの宝物だった。  ふと、数週間前の体育館での出来事が脳裏を過る。あの地獄のような羞恥の坩堝。沸騰した薬缶みたいに真っ赤になった俺の顔と、先輩達の容赦ない笑い声。その絶望の淵から、俺を救い上げてくれたのは、紛れもなく彼女だった。ギャラリーから静かに歩み寄り、俺の腰にふわりとカーディガンを巻いてくれた、あの姿。物語の一場面を切り取ったかのように完璧で、神々しくさえあった。  ――彼の最大のピンチに、女神のように現れなさい。  あの時、脳裏に閃いたのは、どこかで見聞きしたような、陳腐なフレーズだった。でも、名前はそれを本当にやってのけたのだ。あの冷静な判断力と、優雅な立ち振る舞い。思い出すだけで、心臓の奥がじわりと熱くなる。俺の恋人は本当に凄い。敵わない。 「工くん、何か飲む? ココアがあるけれど」 「あ、ああ! 貰う!」  思考の海から引き揚げられ、俺は勢いよく返事をした。名前は静かに頷くと、本に栞を挟んで立ち上がり、キッチンへと向かう。ぱたん、とリビングのドアが閉まる音を聞きながら、俺は手持ち無沙汰に部屋の中を見渡した。  名前のパーソナルな空間は、彼女自身を映したかのように静謐で、豊かな彩りに満ちている。窓辺には丁寧に手入れされた観葉植物が並び、本棚にはジャンルも雑多な書籍がぎっしりと詰まっている。その整然とした混沌に、彼女の掴みどころのない魅力の源泉を垣間見る気がした。  視線が、ベッドサイドに置かれた小さなテーブルの上で、ぴたりと止まった。  何冊か無造作に積まれた本の、一番上。その一冊だけが、明らかに異質なオーラを放っていた。 『一瞬で彼を虜にする! 悪魔的恋愛上達術』  ……なんだ、これは。  ピンクと黒を基調とした、やけに扇情的なデザイン。俺は吸い寄せられるように立ち上がり、その本を手に取った。ずしり、と軽い筈の紙の束が、妙な重みを持って掌に収まる。恐る恐る、表紙を捲った。 『ハプニングは恋のスパイス!』 『予測不能な行動で、彼の心を独り占め』 『彼の弱点こそ、貴方の聖域』  目に飛び込んでくるのは、喧しい程にポジティブで、胡散臭い程に自信に満ちた言葉の羅列。少女漫画の吹き出しを煮詰めて固めたような、そんな文章。名前の趣味とは、どう考えても結び付かない。きっと、あの作家のお兄さんの資料だろう。そう自分に言い聞かせながら、無意識にページを繰る指が、或る一文の上で化石のように固まった。 『彼の最大のピンチに、女神のように現れなさい』  ――雷鳴が、頭蓋の内側で轟いた。  体育館の床。裂けたハーフパンツ。羞恥に染まる、俺の顔。そして、カーディガンを手に、静かに歩み寄る名前の姿。全てのピースが、パチン、パチンと音を立てて嵌っていく。あの完璧なタイミングも、落ち着き払った態度も、女神のような救済劇も、まさか、全部。  ――この本の、テクニックだったのか?  カッと、全身の血液が沸騰し、顔面に集中するのを感じた。溶鉱炉にでも放り込まれたかのような熱さが、耳まで、首筋までをも侵食していく。  恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。俺は、この恋愛指南書とやらのシナリオ通りに、まんまと"虜"にされてしまったと云うのか。  だが、その羞恥の嵐の奥底で、全く別の感情が、むくむくと鎌首を擡げる。  俺の為に、名前はこんな本を読んでいた。俺のピンチを予測し、どうすれば救えるか、どうすれば、俺の心を掴めるか、策を練っていた。その事実がどうしようもなく、胸の奥を擽る。ミステリアスな彼女の、秘密の遊び。その共犯者に、俺は知らず知らずの内になっていた。  その事実に気づいた瞬間、羞恥心はどこかへ消え失せ、代わりにどうしようもない愛おしさが、マグマのように込み上げた。  俺が本を片手に、一人で百面相を繰り広げていると、背後でドアが開く気配がした。 「お待たせ、工くん。……あ」  振り返ると、マグカップを二つ持った名前が、小首を傾げてこちらを見ていた。その静かな双眸が、俺の手にある本を捉え、僅かに見開かれる。 「その本、気になった?」 「先頭文字名前、これは……その、なんだ、これは……!」  しどろもどろになる俺に、名前は少しも悪びれる様子なく、ふわりと微笑んだ。まるで、悪戯が成功した子供のような表情だ。 「兄さんの置き土産。面白そうだったから、少し読んでみただけ」 「じゃ、じゃあ! あの時の、体育館での一件は……!」 「あの時?」  恍けるようでいて、全てを見透かした瞳。俺は、もう駄目だった。名前の掌の上で、完全に踊らされている。 「この、"女神のように現れなさい"ってヤツだったのか!?」  俺が本のページを指差して叫ぶと、名前はこくりと頷き、追い討ちを掛けるように、こう囁いた。 「効果、あったかな?」  その一言が、俺の理性の最後の砦を、木っ端微塵に粉砕した。 「あ、あったに決まってるだろ! 滅茶苦茶、格好良かった! 女神かと思った! いや、女神だった!」  自分でも、何を言っているのか分からない。必死に言葉を紡ぐ俺を見て、名前は遂に堪え切れなくなったように、くすくすと鈴が鳴るような笑い声を立てた。その笑顔が、秋の午後の柔らかな光を浴びて、きらきらと輝いている。  ああ、もう。本当に敵わない。  俺は堪らなくなって、持っていた本をテーブルに放り出し、彼女の華奢な身体を思い切り抱き締めた。驚いたように、名前の身体がびくりと跳ねる。 「待って、工くん、ココアが……」 「知るか! 名前、お前、ほんと……!」  言葉が続かない。好きだ、とか、愛しい、とか、そんな有り触れた言葉では、この胸の内で暴れ回る感情を表すには、余りにも足りなかった。  刺激がないように見えて、実は彼女が仕掛けた、予測不能なトラップに満ちている日常。駆け引きなんて、必要ない。ただ、彼女が俺を想ってくれる、その事実だけで、俺は何度だって、名前に恋をする。 「……名前には、敵わない」  腕の中で、名前がくすりと笑う気配がした。 「うん。知ってる」  そして、俺の胸に頬を寄せながら、囁くようにこう続けた。 「世界で一番格好良くて、世界で一番可愛い、わたしのエースだからね。虜にするくらい、簡単だよ」  その言葉に、俺はまたしても顔から火を噴きながら、このどうしようもなく愛しくて、敵わない恋人を、更に強く抱き締めることしかできなかった。  『悪魔的恋愛上達術』。その胡散臭い本の表紙が、テーブルの上で勝利を告げるかのように、鈍い光を放っていた。



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