夕映えコーデ ~着せて、撮って、惚れて~
∟恋人を着せ替える午後、写真一枚で心臓が暴走した。
兄貴が登場します。
あの日の体育館での一幕は、わたしと工くんの間に些細ながらも確かな変化を齎した。工くんは以前にも増して、わたしを宝物の如く扱うようになったし、わたしはわたしで、彼の羞恥に染まった顔を思い出す度、胸の奥に灯る仄暗い愉悦を自覚するようになったのだ。
『悪魔的恋愛上達術』。兄さんの置き土産は、わたしの日常に予測不能なスパイスを振り掛けたらしい。
そんな、或る日の午後。リビングのソファで微睡んでいたわたしは、書斎からぬるりと現れた兄、
苗字兄貴の気配に、そっと目蓋を持ち上げた。今日の兄さんの胸元には『人生、ネタが尽きたら終了』と云う、作家生命を賭けたかのような、鬼気迫る覚悟がプリントされている。
「やあ、
名前。良い午睡だったかい?」
「
兄貴兄さん。うん、もう少しで、夢の淵に辿り着けそうだった」
「それは残念。邪魔をしてしまったね。お詫びに、今、考えている新作のプロットを聞いてくれないか。今回の主人公は、喋るマンドラゴラなんだが」
「また、随分と奇矯なものを。……ねぇ、兄さん」
わたしはソファから身を起こし、ローテーブルに置かれたままの、あの扇情的な指南書を指で突いた。
「この本、もう使わない?」
「ああ、それかい? 構わないよ。資料としては、少しエンタメに寄り過ぎていたからね。どうだい、
名前。何か収穫はあったかな?」
悪戯っぽく細められた兄の瞳に、わたしは小さく頷いてみせる。収穫は、あった。それも飛び切りの。
工くんが叫んだ言葉が、耳の奥で鮮やかに蘇る。
――
名前がくれたもの、全部、大事にしてる! 服も、キーホルダーも、手紙も、全部、俺の宝物だ!
あの言葉に嘘はないと、理解している。けれど、わたしが何でもない日に贈った、少しだけ背伸びしたデザインの服を、工くんが実際に纏っている姿を、わたしはまだ一度も目にしたことがなかった。
「……試してみたいことが、一つ」
ぱらり、とページを捲る。そこに書かれていたのは、こうだ。
『彼の秘めたる魅力を、貴方の手で解き放ちなさい』
秘めたる魅力。普段、ジャージや制服、或いはスポーティーなものか、優等生のような私服姿しか知らない彼の、まだ誰も見たことのない貌。それを引き出せるのが、わたしだけなのだとしたら。
想像しただけで、心の水底から沸々と独占欲が湧き上がる。これはきっと、とても楽しい遊びになる。
週末、わたしは工くんを、お洒落なカフェが点在するエリアへと誘い出すつもりだった。待ち合わせ場所に現れた彼は、矢張り、いつもの動き易そうなパーカー姿だ。その健康的な出で立ちも嫌いではないけれど、今日だけは、少しだけ我儘を許してほしい。
「工くん。わたしの家に寄っていかない?」
「え? ああ、うん、いいけど……どうかしたのか?」
「今日、着てほしい服があるんだ」
わたしのお願いに、工くんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、動きを止めた。その表情が可笑しくて、思わず口許が弛む。
「……わたしが、工くんに着てほしい服」
重ねて囁くと、彼の頬がじわりと赤く染まり、やがて「わ、分かった!
名前が選んでくれた服なら、なんだって着る!」と、決意を固めた兵士のような表情で、力強く頷いた。そう云う、素直で真面目なところが、本当に愛おしい。
マンションの一室で、わたしが差し出した紙袋を、工くんはどこか緊張した面持ちで受け取った。中に入っているのは、燻んだミントグリーンのオーバーサイズシャツと、彼の長い脚を際立たせるであろう、黒のパンツ。普段の彼なら、まず手に取らないであろう組み合わせだ。
ややあって、着替えを終えた彼が部屋から出てきた時、わたしは僅かに息を呑んだ。
ぱっつんの前髪と、凛々しい眉。その男の子らしい意匠はそのままに、ゆったりとしたシャツの柔らかな生地が、工くんの引き締まった身体のラインを、奇跡的な程の艶やかさで魅せている。いつもは快活さが先に立つ彼が、雰囲気のあるファッションモデルのように、どこかアンニュイな空気を纏っていた。
「……す、凄く、似合っているよ」
「そ、そうか……? なんか、落ち着かないな……」
照れ臭そうに、首の後ろを掻く工くん。その仕草さえ、常とは違って見えるから不思議だ。わたしはバッグからスマートフォンを取り出し、彼に向けた。
「ねぇ、工くん。写真、撮ってもいい?」
「しゃ、写真!?」
「うん。記念にね」
カフェのテラス席、煉瓦造りの壁、公園の木漏れ日が降り注ぐベンチ。わたしは行く先々で、夢中でシャッターを切った。最初は全身を強張らせていた工くんも、わたしが「格好良いよ」「その角度、凄く良い」と褒めそやす内に、次第に緊張が解けていったらしい。
「こ、今度は、どんなポーズがいいんだ!?」
「じゃあ、少し遠くを見てみて。物憂げな感じで」
「ものう、げ……? こうか!?」
ぎこちないながらも、わたしのリクエストに応えようと懸命な彼が可愛らしくて、愛おしくて堪らない。
そして、夕陽が町を茜色に染め始めた頃。カフェの窓辺に頬杖を突いた彼の横顔に、橙色の光彩が射し込んだ、その瞬間。
ふ、と彼の瞳から力が抜け、普段の自信に満ちた光とは違う、どこか儚げで、憂いを帯びた色が宿った。わたしは、その一瞬を見逃さなかった。カシャ、と云う小さな電子音と共に、工くんのその相好を永遠に切り取る。
心臓が、とくん、と大きく鳴った。
これは、わたしの知らない工くんだ。この貌はきっと、わたしだけが知っていればいい。
言いようのない高揚感と独占欲が、わたしの中で渦を巻いていた。

地獄のパンツ事件から数日。俺は、
名前に誘われるがまま、彼女のマンションに来ていた。
そして、今、俺は人生で一度も着たことがないような、やたらと洒落た服に身を包み、街中で写真まで撮られている。
恥ずかしい。正直、めちゃくちゃ恥ずかしい。こんなモデルみたいな服、学校の誰かに見られたら、明日からどんな顔で通えばいいんだ。
だが、しかし。
ファインダー代わりのスマートフォンを覗き込む
名前が、本当に、心底楽しそうに微笑んでいるのだ。
彼女が「格好良い」と褒める度に、心臓が馬鹿みたいに跳ね上がる。
名前が喜んでくれるのなら、なんだってできる気がした。エースとしてのプライドとは、また別の何かが、胸の奥で燃え上がっている。
「……もう、勘弁してくれ……」
すっかり日の暮れた帰り道。俺は着慣れない服の感触にそわそわしながら、力なく呟いた。
「ふふ、ごめんね。でも、本当に素敵だったから」
隣を歩く
名前が、くすりと笑う。彼女は撮ったばかりの写真を確認しているようだった。俺は気になって、その小さな画面を覗き込む。
「うわ……俺、こんな顔するのか……」
そこに写っていたのは、自分でも想像したことのない、知らない誰かのような、俺だった。特に、夕陽の中で撮られた横顔の一コマは、なんだか気取っていて、見ているだけで顔から火が出そうだ。
「この写真が、一番好き」
名前は、その気障な面差しの輪郭を指でなぞりながら、囁くように言った。
「この工くんは、わたしだけのものだね」
その言葉と、愛おしそうに画像を眺める彼女の、夜の海のように静かな瞳。
ドクン、と心臓が大きく脈打った。羞恥心も何もかも、全部吹き飛んで、ただ目の前の彼女が、どうしようもなく愛しいと想う気持ちだけが、全身を駆け巡る。
「……当たり前だろ」
俺は堪らなくなって、
名前の華奢な手を掴んだ。驚いたようにこちらを見上げた彼女の手指を、ぎゅっと強く握り締める。
「俺は、全部、
名前のものだ」
我ながら、とんでもなく臭い台詞を吐いている自覚はあった。でも、そうとしか言えなかった。
俺の言葉に、
名前は一瞬だけ目を丸くしてから、今まで見た中で一番美しい、花が綻ぶような笑顔を見せた。
「……うん。知ってる」
その笑顔だけで、もう充分だった。この服も、今日と云う一日も、全部がまた一つ、俺の宝物になった。
「なあ、
名前」
「なあに、工くん」
「また、服、選んでくれよな。……その、今度はお揃いのヤツとか、どうだ……?」
恐る恐る提案すると、
名前は少し考えてから、「うん。飛び切りのを、見つけておくね」と、悪戯っぽく微笑んだ。その返事に、俺は天にも昇る心地だった。
このどうしようもなく可愛くて、ミステリアスで、時々、小悪魔みたいなことを仕掛けてくる恋人を、絶対に誰にも渡さない。
俺は夕闇に染まる空の下で、そう固く誓った。
……まあ、後日。
名前の兄である
兄貴さんの部屋の前を通り掛かった際、床に『一瞬でプロのカメラマンに! 奇跡の一枚を撮る構図の法則』なんてタイトルの本が転がっているのを目撃し、あの日の完璧なシャッターチャンスが、まさかの予習の成果だった可能性に思い至って、寮の自室で一人、枕に顔を埋めて悶えることになるのだが。それはまた、別の話である。