北極星の髪
∟スランプを越えたエースが触れたのは、恋人の髪に宿る確かな光。
兄貴が登場します。
鉛のように纏わり付いていた不調が、嘘のように霧散していた。
放課後の体育館。ボールが床に叩き付けられる乾いた衝撃音も、シューズが床を擦る鋭い摩擦音も、昨日までは全てが、俺を責め立てる不協和音にしか聞こえなかったのに、今は心地良い交響曲のように鼓膜を震わせる。
「五色!」
白布さんの鋭利な声が、俺の闘争心に火を点ける。高く、もっと高く。牛島さんから受け継ぐべき、あの絶対的な高みへ。全身のバネを解放し、宙を舞う。しなやかに撓る腕が撃ち抜いたボールは、相手ブロッカーの指先を掠め、コートの隅に突き刺さった。
「っしゃあ!」
着地と同時に、腹の底から雄叫びが込み上げる。これだ。この感覚だ。身体の隅々まで力が漲り、思考が冴え渡る、この全能感。
練習後、心地良い疲労感に包まれながら、俺は一人、帰り支度をしていた。エナメルバッグのファスナーを閉め、視線を落とす。そこに揺れる、小さなガラスの球体。
名前から貰った、お守り。
『わたしが居る場所に、ちゃんと帰ってこられるように』
昨夜見た、不思議な夢が脳裏を過る。暗闇の宇宙で、唯一の道標となってくれた、あの白金の星。その先に居た、
名前の穏やかな微笑み。あれは単なる夢だったのか、それとも。
考えたところで、答えは出ない。唯一つ確かなのは、俺の心臓のど真ん中に、
苗字名前と云う、何よりも強く輝く光源が在ると云うことだ。この光がある限り、俺はもう道に迷わない。
逸る心を抑えながら、待ち合わせ場所に指定された、学校近くの小さな公園へと向かう。夕陽が街路樹の葉を燃えるような黄金色に染め上げていた。道行く人々の影が長く伸び、世界全体が穏やかで感傷的な光彩に包まれている。
公園の入り口、古びた時計台の下に、彼女は居た。
俺の足が、ぴたりと止まる。
名前はベンチに腰掛けるでもなく、ただ静かにそこに立って、沈みゆく太陽の最後の輝きを全身に浴びていた。夕暮れの風が、彼女の髪を優しく揺らす。いつもは夜の深淵を思わせるその髪が、今は光を孕み、一本一本が絹糸のように煌めいていた。それは夜色の奔流が、夕映えの魔法で金色の光彩を纏ったかのようだった。
触れたい。
唐突に、そんな衝動が胸の奥から突き上げた。あの光の束を、この手で梳いてみたい。どんな感触がするのだろう。どんな香りが、俺の心を掻き乱すのだろう。
俺は磁石に引かれる砂鉄のように、無意識に彼女へと歩み寄っていた。
「――
名前」
呼び掛けた声は、自分でも驚く程に熱を帯びていた。
彼の声は、迷いが晴れた空のように、真っ直ぐにわたしの耳に届いた。
振り返ると、そこに立っていたのは、昨日までの翳りを微塵も感じさせない、力強い光を瞳に宿した工くんだった。その姿に、心の水底に沈めていた安堵が、静かな波紋となって広がっていく。
「工くん。お疲れ様」
「ああ……。その、待たせたか?」
「ううん。今、来たところ」
わたしがそう言って微笑むと、工くんは少しだけ表情を和らげた。けれど、その視線は顔ではなく、もっと別の場所に注がれている。その熱っぽい眼差しが、わたしの髪に注がれていることに気づいた時、胸の奥に仕舞っていた小さな小箱が、ぱかりと音を立てて開いた。
今朝、リビングで兄さんと交わした会話が蘇る。
今日の兄さんの胸元には、『物語は毛先から生まれる』と云う、何やら詩的な文言がプリントされていた。
「工くんに、何かあったのかい? 最近、
名前の周りの空気が、少しだけ張り詰めているように見えたけど」
「……兄さんには、何でもお見通しだね。うん、少しだけ。でも、もう大丈夫」
「そうかい。まあ、
名前が居れば大丈夫か。彼にとって、
名前の存在は北極星のようなものだからね。どんな嵐の中でも、見失うことのない、絶対的な指標だ」
そう言って、悪戯っぽく笑った兄の科白を思い出しながら、目の前の恋人を見つめ返す。工くんはまだ、わたしの髪から視線を外さずにいた。その表情には、美しい芸術品を前にした時のような、純粋な感嘆と、欲しいものを前にした子供のような、隠し切れない欲求が混じり合っている。
「
名前の髪、……すげぇ、綺麗だな」
ぽつりと、零れるように紡がれた称賛。その余りにも素直な響きに、わたしは「そう?」と短く答えながら、工くんの次の言葉を待った。
「……触っても、いいか?」
恐る恐る、と云った様子で尋ねる彼に、わたしは声を出さず、縦に頷いた。
工くんが、一歩、近づく。バレーボールを扱う為に鍛えられた、工くんの大きな手が、ゆっくりと持ち上げられる。その少し乾いた指先が、わたしの髪に触れる、その瞬間。
世界から、音が消えた気がした。
工くんの指が、わたしの髪糸を不器用に、壊れ物を扱うかのように優しく梳く。手指に残る熱が、髪を伝って、頭皮から全身へと染み渡るようだった。シャンプーと、夕暮れの風の馨り、彼の僅かに汗ばんだ匂いが混じり合って、どうしようもなく甘美な空気が、わたし達を包み込む。
見上げれば、工くんは見たこともない程の真剣な顔で、指の間を滑り落ちる髪束を見つめていた。その横顔を、夕陽が聖痕のように照らしている。
この瞬間を、永遠にしたい。
この表情を、わたしだけのものとして、心に刻み付けたい。
「工くんの手」
わたしが囁くと、彼の肩が微かに揺れた。
「好きだよ。大きくて、温かくて。……わたしを、守ってくれる手だから」
その言葉が引き金だった。
工くんの顔面が、沸騰した薬缶だってこんな風にはならないだろうと云うくらい、一瞬で朱に染まった。彼の全身から、羞恥と歓喜が湯気のように立ち昇る。
「――っ、う、わ……!」
意味を成さない呻き声を上げると、工くんは衝動を抑え切れないと云った様子で、わたしを力強く抱き締めた。彼の胸の中から、暴走した心臓の音が、どく、どく、と直接伝わる。
「俺も、
名前の全部が好きだ……!」
絞り出すような声でそう告げると、工くんは更に強く、腕に力を込めた。その不器用で真っ直ぐな愛情表現が堪らなく愛おしくて、わたしは彼の背中にそっと両腕を回した。
スランプなんて、きっと、恋のスパイスでしかない。
工くんが弱る度、わたしは彼の唯一の光となり、工くんが立ち直る度、わたし達の絆はより強固に、深く結ばれていく。
この愛しい恋人を、わたしは絶対に手離さない。
……そして、その週末。うちを訪れた工くんが、兄さんの書斎の床に転がっていた『一瞬で彼を虜にする! 髪のお手入れ&魅せ方の完全バイブル ~サロン級の艶髪はこうして作られる~』なる本を発見し、この日の完璧な髪の状態が、またしても勉強の成果だった可能性に思い至り、ソファに突っ伏して「
名前には……絶対に敵わない……」と悶絶することになるのだけれど。それはまた、別の話だ。