嫉妬で煮詰めたミルクココア ∟悔しい。でも、美味しい。……くっそ、好き。

兄貴が登場します。  白鳥沢のエース。その七文字が、以前よりもずっと軽やかに誇らしい響きを伴い、胸の内に収まっている。スランプと云う名の長く薄暗いトンネルを抜けた先には、澄み渡るような春の空が広がっていた。今の俺は、どんなに高い壁だろうと、力で捻じ伏せられる絶対的な自信がある。  その確信の根源に、苗字名前と云う存在があることを、俺は疑いもしなかった。  週末の午後、俺は彼女の住むマンションのリビングで、柔らかなソファに深く身を沈めていた。窓から差し込む陽光が、部屋の隅に置かれた観葉植物の葉を透かし、閑やな緑色の光を投げ掛けている。隣では、名前が静かに本を読んでいた。頁を繰る微かな音だけが、満ち足りた静寂に彩りを添えている。  ふと数日前の出来事が、脳裏を鮮やかに過る。  絶望の淵で見た、あの不思議な夢。暗闇の宇宙で、唯一の道標となってくれた、白金の星。その光の先に現れた、名前の穏やかな微笑み。そして、その翌日、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた、彼女の髪。触れた指先から伝わった、絹のような感触と、心臓を直に掴まれたかのような甘い衝撃。  あれは紛れもなく奇跡だった。俺が立ち直る為に、神様が用意してくれた、二人だけの特別な贈り物。そう信じていた。 「工くん、何か飲む?」 「あ、ああ! いつものヤツ、頼む!」  俺が頼む「いつものヤツ」が、少しだけ甘めのミルクココアであることを、彼女は知っている。名前は静かに頷くと、読んでいた本に栞を挟み、キッチンへと向かった。その小さな背中を見送りながら、俺は幸福感に満たされて、大きく伸びをした。  その時だった。書斎のドアが、ぬるりと音もなく開いた。 「やあ、工くん。今日も妹の機嫌が良さそうで、兄としては何よりだ」  現れたのは、名前の兄である兄貴さん。今日の彼の胸元には『プロット、降ってこい(懇願)』と云う、鬼気迫る願いが、やけに綺麗なゴシック体でプリントされている。 「こ、こんにちは、兄貴さん!」 「うん、こんにちは。気分転換に紅茶を淹れようと思ったんだが……ああ、そうだ。工くん、悪いけど、一つ頼まれてくれないか。書斎の窓際、棚の一番下にある『古代文明の呪術体系』と云う黒い本を取ってきてほしい。今、言葉を話すサボテンに掛ける、呪いのリアリティで悩んでいてね」  サボテンに呪い。その突飛な悩みに思考が追い付かないながらも、俺の身体はバレーで鍛えた反射神経のままに、弾かれたようにソファから立ち上がっていた。 「はい! 俺が取ってきます!」  好きな子の家族に良いところを見せたい。そんな単純明快な男心だった。兄貴さんは「助かるよ」と面白そうに目を細める。その瞳の奥に、盤上の駒を進める棋士のような、怜悧な光が宿ったことに、俺は気づかない。俺はただ意気揚々と、彼の仕掛けた聖域へ足を踏み入れた。  書斎は、本の雪崩がいつ起きてもおかしくない、混沌とした創造の空間だった。言われた通り、窓際の棚に屈み込み、分厚い黒革の資料に手を伸ばす。その時、ふと視界の片隅に、床に無造作に転がる二冊の書籍が映り込んだ。  その二冊だけが、明らかに異質なオーラを放っていた。 『夢占い&深層心理コントロール術 ~彼の無意識にアクセスする方法~』 『一瞬で彼を虜にする! 髪のお手入れ&魅せ方の完全バイブル ~サロン級の艶髪はこうして作られる~』  ……ん?  俺は動きを止めた。資料を掴み掛けた指が、空中で化石のように固まる。脳が、その文字列の意味を咀嚼するのに、数秒を要した。深層心理、コントロール。サロン級の、艶髪。  ――雷鳴が、晴れた空を突如として引き裂いたかのような衝撃だった。  脳内で、あの奇跡だと思っていた出来事が、猛烈な勢いで逆再生される。  スランプの夜に見た、都合の良過ぎる救済夢。あの白金の星は、この胡散臭いコントロール術とやらの成果だったのか?  夕陽の中で、神々しいまでに輝いていた、名前の髪。あの完璧な艶と光沢は、このバイブルに書かれたスペシャルケアのお陰だったのか?  カッと、全身の血液が沸騰する。羞恥の熱が、顔面から耳、首筋までを瞬く間に侵食していく。俺はまたしても、この手のハウツー本の実験台にされていたのか! 俺の繊細なメンタルは、名前の恋愛攻略本のページの一つに過ぎなかったのか!?  恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。白鳥沢のエースたる俺のプライドが、粉々に砕け散る音がした。  だが、その羞恥の嵐の中心で、全く別の感情が、じわりと黒い染みのように広がっていくのを止められない。  待てよ。この二冊も、パンツ事件の時の本も、写真の時のも、シミラールックの時のも、全部、兄貴さんの所有物だ。つまり、名前は俺を喜ばせる為に、いつも兄貴に相談している……と、そう云うことじゃないのか?  俺と名前の特別な時間は、実は"苗字兄妹の共同作業"の結果だった?  その考えに至った瞬間、羞恥とは質の違う、もっと冷たくて、どす黒い感情が、胸の奥で鎌首を擡げた。壁時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質な音を刻んでいる。その一秒ずつが、俺のプライドを削る音のように聞こえた。  悔しい。情けない。そして、何よりも気に食わない。  俺が知らない名前を、兄貴さんは知っている。俺をどうすれば喜ばせられるか、どうすれば、俺の心を掴めるか、名前は兄に相談し、その答えを得ている。俺と名前の、二人だけの筈の物語に、いつも彼の影がチラついている。  その事実が、俺の独占欲のど真ん中に、鋭い杭を打ち込んだ。 「……なんでだよ」  零れた声は、自分でも嫌になる程に低く、拗ねていた。  俺は二冊の本を乱暴に掴むと、リビングへと戻った。いつもなら、しどろもどろになってしまう場面。だけど、今日は違う。むすりとした表情で、ソファに座る名前の前に、どさりと書籍を重ねて置いた。 「工くん? ……あ」  名前は、俺の尋常ではない雰囲気に気づき、何度か目を瞬かせた。粛とした双眸が、表紙のタイトルと、俺の不機嫌な顔とを往復する。 「名前!」 「……なあに、工くん」 「あの夢も! あの時の髪も! まさか、この本の成果だったのか!?」  俺の詰問に、名前は直ぐには答えなかった。窓の外で、風が木の葉を揺らす、さあ、と云う微かな音だけが聞こえる。やがて、彼女は少しも悪びれず、こくりと物静かに頷いた。その態度が、俺の嫉妬の炎に油を注ぐ。 「それだけじゃない! パンツの時も、写真の時も、お揃いの服の時も、全部、そうだ! 名前が、俺の為に何かしてくれるのは、めちゃくちゃ嬉しい! でも、その方法が、兄貴さんから与えられたものだと思うと……なんか、すげぇ悔しいんだよ! 俺と名前のことなのに、なんでいつも、兄貴さんが居るんだ!」  子供染みた癇癪だと分かっている。それでも、この黒い感情を吐き出さずにはいられなかった。  俺の剣幕に、名前は一瞬だけ、驚いたように目を丸くした。だが、すぐに唇の端に、ふわりと慈しむような笑みを浮かべた。俺の独占欲の正体を、全て見透かしたような表情だった。 「工くん。わたしも嫉妬していることは、知っていた?」 「……え?」  予想外の角度からの問い掛けに、俺は言葉を失う。名前は、俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、閑寂としているのに、有無を言わせぬ力強さを秘めた声で続けた。 「わたしは、工くんの全てを知っているバレーボールに、嫉妬している」  ――心臓を鷲掴みにされた。 「わたしの知らない顔で、ボールだけを見つめている工くん。練習している時間も、試合の時間も、本当は全部、わたしのものにしたい。工くんがボールに触れるみたいに、わたしにも触れてほしい。そう思うくらいには、ね」  その言葉は、どんなスパイクよりも鋭く、俺の胸のど真ん中を正確に撃ち抜いた。  俺の憤りなど、名前の深く、強烈な独占欲の前では、まるで子供の駄々だ。完敗だった。ジェラシーで爆発したのは自分だった筈が、気づけば彼女の巨大な嫉妬の炎に包まれ、俺のプライドは跡形もなく焼き尽くされていた。 「……う、わ……」  意味を成さない呻き声を上げ、俺はソファに突っ伏した。顔が熱い。耳まで、首筋まで、全身が沸騰している。  もう無理だ。敵わない。この子には、生涯敵う気がしない。  俺の全てが、名前のもんでいいから、だから、一生好きでいてくれ!  そんな俺の背中を、名前の小さな手が優しく撫でた。 「でも、工くんが嫉妬してくれたのは、少し嬉しいな。……わたしのこと、そんなに好きでいてくれてるんだね」  その囁きが、トドメの一撃だった。  俺はソファのクッションに額を埋め、羞恥と、敗北感と、どうしようもない幸福感で、只々悶絶することしかできなかった。



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