洗濯ミスは恋のスパイス ∟条件は、俺のうっかり。

 その日の朝、俺は絶望の淵に立っていた。  白鳥沢学園の寮の一室。窓から差し込む朝日が、床に落ちた埃をきらきらと照らし出す、いつもと何ら変わらない筈の光景。しかし、俺を取り巻く状況は、昨日までとはまるで違っていた。 「……ない」  何度確認しても、結果は同じだった。衣類を仕舞う簡素なチェストの引き出しは、がらんどうの口を開けて、俺を嘲笑っている。あるべきものが、ない。日々の激しい練習で汗を吸い、俺の大事なところを支える、そう、下着が一枚も残っていないのだ。  そう云えば、昨日の早朝、ランニング後。着替えの際に、使い古した一枚のゴムが伸び切り、生地も薄くなっていることに気が付いた。レシーブ練習で、床に滑り込んだ時にでも擦れたのだろう。白鳥沢の次期エースたるもの、みすぼらしい下着は相応しくない。そして、今となっては都合の悪いことに、昨日は燃えるゴミの収集日だった。俺はそれを他のゴミと一緒に纏め、もう未練はないとばかりにゴミ捨て場へ放り込んだのだ。つまり、あれが物理的に最後のストックだった。  まさか、と嫌な予感が背筋を駆け上る。慌てて部屋の隅に置かれた洗濯カゴを引っ繰り返すが、そこも空っぽだ。ならば、どこへ。思考を巡らせ、昨夜の己の行動を必死に再生する。そうだ、俺は確かに手持ちの数枚を全て抱えて、一階のランドリールームへ向かった。洗剤を入れ、スイッチを押し、洗濯機がごうごうと唸り始めたのを確認した筈だ。  ――そこまでだった。  満足感と共に自室へ戻り、予習と復習を済ませ、ベッドに倒れ込んだ。肝心な工程が、すっぽりと抜け落ちている。洗濯物を乾燥機に移す、或いは部屋に持ち帰り干すと云う、文明人として、最低限の義務が。  血の気が引くのを感じながら、ランドリールームへ駆け下りれば、案の定、俺の練習着やTシャツ、数枚の下着が湿った塊となって、洗濯槽の底で悲しげに眠っていた。生乾きの、何とも言えない匂いが鼻を突く。今から乾燥機に掛けても、朝の練習には到底間に合わない。しかも、臭い。  どうする。脳が警鐘を乱れ打つ。ノーパンで一日を過ごす? 論外だ。スパイカーにとって、下半身の安定は生命線。そんな心許ない状態で、キレのあるスパイクが打てるものか。では、誰かに借りる? 脳裏に鋭い眼光の牛島さんや白布さんの顔が浮かび、即座に霧散した。白鳥沢の次期エースたる俺が、「パンツ、貸してください」などと、口が裂けても言えるワケがない!  万策尽きた。俺は自室に戻り、床にへたり込む。その時だった。視界の片隅で、クローゼットの棚に置かれた小さな箱が、「ここに居るぞ」と主張するかのように朝日を反射して、静かに光った。  ごくり、と喉が鳴る。  名前から贈られた、誕生日プレゼント。  俺は吸い寄せられるように立ち上がり、その小箱を手に取った。震える指で蓋を開けると、そこには鮮烈なロイヤルブルーが横たわっている。滑らかな生地、洗練されたカッティング、そして、どう考えても普段使いには勇気が要る、その布面積。 『ここは、わたししか見られない場所だから。わたしの好きなものを選んだの』  あの夜の、名前の甘い囁きが脳内で再生される。そうだ、これは、そう云うものだ。俺が白鳥沢のエースとして、いや、日本一のスパイカーとして頂に立つ、その"ここぞ"と云う瞬間の為に、大切に保管しておくと誓った、俺と彼女だけの秘密の旗印。  今日が、その"ここぞ"なのか?  違う、絶対に違う! 今日はただの、俺が洗濯物を干し忘れただけの、間抜けな一日の始まりだ!  しかし、選択肢は、ない。俺は天を仰ぎ、ぐっと奥歯を噛み締めた。そして、覚悟を決めて、その青い宝物を手に取った。ひんやりとした生地の感触が、やけに生々しい。鏡に映った自分の姿は、見慣れている筈なのに、他人のように見えた。ちょっと日に焼けた肌と、その鮮やかな青の対比が、どうしようもなく落ち着かない。 「……誰にも、見られなければいい」  そう。誰にもバレなければ、問題ない。ズボンが破れるなんて、そんな漫画みたいなハプニング、起こる筈がない。俺は自分にそう強く言い聞かせ、いつもより、少しだけぎこちない足取りで、部屋を後にした。この時の俺は、まだ知らなかった。放課後、体育館のど真ん中で、俺のその淡い確信が、ビリッ、と云う小気味良い音と共に、木っ端微塵に砕け散ることを。
 あの体育館での一件から、数日が過ぎた。週末の午後、わたしと工くんは、仙台の市街地から少し離れた、緑豊かな公園を並んで歩いていた。木漏れ日がレース模様のように地面で揺れ、遠くから子供達の燥ぐ声が微かに聞こえる。穏やかで、何の変哲もない、デートの時間。 「……なあ、名前」 「なあに、工くん」  隣を歩く彼が、少し気まずそうに口を開いた。あの日の出来事をまだ引き摺っているのか、その横顔には僅かな翳りが落ちている。 「あの、さ。この前は……本当に、助かった。ありがとう」 「ううん。気にしていないよ」  わたしがそう答えると、工くんは安堵したように息を吐いた。その、すぐに感情が顔に出てしまう素直さが、わたしは好きだ。わたしはふと、ずっと心の隅にあった小さな疑問を、口に出してみることにした。 「そう云えば、工くん」 「ん?」 「あの日、どうして、あの下着を穿いていたの? 嬉しかったけれど、何か、特別な日だったのかな、って」  わたしの質問に、工くんの身体がびくりと跳ねた。視線が宙を彷徨い、彼の耳が見る間に、熟した林檎のように赤く染まっていく。その反応だけで、何か面白い事情があったのだと直感した。 「い、いや、それは、その……」  暫く口籠もっていたけれど、観念したのだろう。工くんはぽつり、ぽつりと、あの朝に起きた、悲劇の全貌を語り始めた。洗濯の失敗、空っぽの引き出し、他に選択肢がなかった、と云う、余りにも情けない結末。  一通り話し終えた彼は、「……格好悪いよな」と項垂れ、地面を見つめている。大型犬がしょんぼりと耳を垂れさせているようで、思わず笑みが零れそうになるのを、何とか堪えた。 「そうだったんだ。大変だったね」  わたしは平静を装って、相槌を打った。けれど、心の中では、普段は凪いでいる水面に、小さな石が投げ込まれたかのように、楽しげな波紋が広がっていた。  工くんの、どうしようもないうっかり。  その偶然が引き起こした、絶体絶命のピンチ。  その最大の窮地に、わたしは『悪魔的恋愛上達術』の教え通り、女神のように現れることができた。  まるで、誰かが仕組んだ舞台のよう。工くんの失敗が、わたしをヒロインにする為の、最高の演出だったみたいだ。彼の弱くて、情けなくて、誰にも見せたくないであろう部分を、わたしだけが知っている。その事実が、胸の奥に隠していた秘密の小箱を開けて、中からキラキラしたキャンディを取り出した時のような、甘くて、少しだけ意地悪な喜びを湧き上がらせる。  これが、少女気分と云うものなのだろうか。  恋をして、工くんの全てを知りたいと願い、彼の特別な存在でありたいと望む、この浮き足立つような高揚感。普段のわたしからは、些か遠い場所にある、無邪気で残酷な感情。  わたしは立ち止まり、俯いている彼の表情を覗き込んだ。驚いて顔を上げた工くんの潤んだ瞳が、わたしを映す。 「ねぇ、工くん」 「な、なんだよ」 「また洗濯、忘れてしまえばいいのに」  わたしの悪戯っぽい囁きに、彼は「えぇっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。その狼狽した様子が可笑しくて、愛しくて、わたしは遂に、くすりと笑ってしまった。 「そ、そんなこと、あるワケないだろ! もう二度と失敗しない!」 「ふふ、そうかな」  慌てて弁解する彼の手を、わたしはそっと握った。驚いたようにこちらを見る彼に、わたしは遊び心を隠して、ただ静かに微笑み返す。  あの胡散臭い恋愛指南書なんて、本当は必要ないのかもしれない。  だって、わたし達の間には、こんなにも予測不能で、どうしようもなく愛おしいハプニングが満ちているのだから。  わたしは繋いだ手に、きゅっと力を込めた。来年の誕生日は、どんな色で、工くんの秘密の場所を染めてあげようか。そんなことを考えながら、茜色に染まり始める空を見上げた。わたしの心の水面は、暫くの間、幸せな波紋で揺れ続けていた。



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