宝箱レター
∟宝箱には、破れたハーフパンツと恋の奇跡が詰まってる。
兄貴が登場します。
春の終わりを告げる湿気を孕んだ雨が、窓ガラスを静かに叩いていた。部屋の中は、雨粒に濡れた若葉の青い香りと、微かに馨るアールグレイの匂いで満たされている。ソファに深く身を沈めたわたしの隣で、工くんが穏やかな寝息を立てていた。部活帰りの疲労と、この部屋の静謐な空気が、彼を心地良い眠りの淵へと誘ったらしい。
その無防備な寝顔を、わたしはただ黙って見つめていた。ぱっつんの前髪が額に張り付き、普段は強い光を宿す双眸が、今は固く閉じられている。規則正しく上下する胸の動きだけが、工くんがここに在ると云う確かな証だった。
ジェラシーの一件以来、わたし達の関係は少しだけ形を変えた気がする。工くんは二人きりになると、以前よりもずっと素直に甘えてくれるようになった。まるで、わたしが自分のものだと確かめるように。その分かり易さが、堪らなく愛おしい。
視線が、ローテーブルの横に無造作に置かれた、工くんのエナメルバッグへと滑る。そこに付けられた、小さなガラス玉のキーホルダー。わたしが贈った、ささやかなお守り。
『
名前がくれたもの、全部、大事にしてる! 服も、キーホルダーも、手紙も、全部、俺の宝物だ!』
いつだったか、彼が夕陽の中で叫んだ言葉が、耳の奥で鮮やかに蘇る。工くんは、わたしからの贈り物を、鍵付きの缶に仕舞い込んでいるらしい。その缶を、彼は「宝箱」と呼んでいた。その中には、わたしが過去に渡した、一枚の手紙も眠っている筈だ。
ふと、あの日の記憶が脳裏を過る。
あれは、わたし達がまだ恋人同士ではなかった頃。季節の変わり目に拗らせた風邪で、学校を休んだ日のこと。お見舞いに来てくれた彼に、わたしは半ば衝動的に、それを手渡した。誰かに宛てて手紙を書くなんて、生まれて初めての経験だった。幼い頃は病弱で、友達と云う存在が居なかったわたしにとって、それは未知の領域への震えるような第一歩だった。
どんな言葉を紡いだのか、熱に浮かされた頭で綴った所為で、今ではもう朧気だ。ただ、普段のわたしからは想像もつかないような、拙くて、剥き出しの気持ちを並べ立てた記憶だけがある。その手紙を、工くんはずっと大切にしてくれている。その事実が、わたしの心の水底に、静かで温かい光を灯す。
そっと手を伸ばす。眠る彼の額に掛かった髪を、指先で優しく分けた。僅かに身じろいだ彼の唇から、ん、と甘い吐息が漏れる。このどうしようもなく愛しい存在が、わたしの恋人なのだと云う実感が、胸の奥に潜む独占欲を、静かに満たしていく。
「……工くんの宝箱、見てみたいな」
ぽつりと零れた独り言は雨音に掻き消されて、誰の耳にも届かない筈だった。
微睡みの水面から意識が浮上する、その瞬間。嗅ぎ慣れた、胸の奥が甘く疼くような香りが鼻先を掠めた。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、視界いっぱいに、
名前の顔があった。夜の深淵を想起させるその双眸が、心配そうに俺を覗き込んでいる。
「……
名前?」
「うん。寝言を言っていたけれど、大丈夫?」
「ああ……
名前の夢を見てた」
照れもせず、思ったままを口にすると、彼女は僅かに目を丸くしてから、「そう」と静かに微笑んだ。その表情に、心臓が馬鹿みたいに跳ね上がる。俺は慌てて身を起こし、ソファに座り直した。
「悪い、寝てた」
「ううん。疲れているんだね。……ねぇ、工くん」
名前が、ふと思い出したように口を開いた。
「工くんの宝箱、見てみたいな」
「……え?」
その言葉を受け、俺の脳裏に、寮室のクローゼットの奥に隠した、鍵付きの古い菓子缶が浮かんだ。中には、
名前から貰ったものなどが、聖遺物のように大切に仕舞われている。破れたハーフパンツの残骸から、お揃いで買った服のタグまで。そして、何よりも。
――俺達の原点とも云える、あの一通の手紙。
鮮やかに蘇るのは、まだ肌寒い季節の変わり目、あの日のことだ。
付き合う直前、熱を出して寝込んだ
名前を見舞った日。彼女は弱々しくも芯の通った瞳で、俺に封筒を差し出した。便箋には、普段の彼女からは想像もつかない程に真っ直ぐで、不器用な熱っぽい文言が綴られていた。
『五色くんと、五色くんのバレーボールが好きです』
『五色くんの隣に、わたしも居ていいでしょうか』
バレー部のエースとしてではなく、"五色工"と云う、ただの一個人の心を真正面から肯定してくれた、初めての言葉。あの手紙を握り締めた夜、俺は
名前への想いが恋だと確信し、告白を決意したのだ。あれは、俺と
名前だけの、誰にも汚させない聖域だった。
「い、いつか、な。見せてやる」
照れ臭くて、そう答えた、その時だった。書斎のドアが、ぬるりと音もなく開いた。
「やあ、二人とも。良い雰囲気のところ、済まないね」
現れたのは、
名前の兄である
兄貴さん。今日の彼の胸元には、やけに達筆な明朝体で『恋文は最強の呪文』と云う、意味深な文字列が刻まれている。
「そう云えば、工くん。
名前から貰った初めての手紙は、まだ大事に持ってくれているのかな? あれは傑作だった。俺が少しだけ、手伝ったんだ」
――雷鳴が頭蓋の内側で轟いた。
兄貴さんは悪びれる様子もなく、先を続ける。
「『一瞬で相手の心臓を射抜く! 恋文の書き方必勝講座』と云う本を参考にしてね。特に『弱っている姿で庇護欲を掻き立て、不意打ちのストレートな言葉で追撃する』と云う章は、
名前も熱心に読んでいたよ。あの弱々しい姿も、最高の演出だっただろう?」
カッと、全身の血液が沸騰する。羞恥の熱が、顔面から耳、首筋までを瞬く間に侵食していく。
またか! またしても、このパターンか! 俺の、俺と
名前だけの、あの感動的な原点が! その胡散臭いハウツー本の成果で、しかも、
苗字兄妹の共同作業だったと云うのか!?
悔しい。情けない。そして、何よりも気に食わない。俺の聖域が、土足で踏み荒らされたような気分だった。
俺が羞恥と絶望で爆発四散する寸前、隣に座っていた
名前が、静かに立ち上がった。次いで、ソファに座ったまま固まっている俺の前に、ゆっくりと屈み込む。膝の上に、彼女の白く小さな手が、そっと重ねられた。
見上げることができない。どんな顔で、
名前を見ればいいのか分からない。そんな俺の耳に、雨音よりも鮮明な、彼女の囁きが届いた。
「――こっちにおいで」
その、たった七文字が。
どんなハウツー本よりも、どんな兄の入れ知恵よりも、確かに強く、俺の心臓を撃ち抜いた。
理屈じゃない。これは手紙を書いた彼女自身の、偽らざる本音だ。俺を求めている、
苗字名前の、本当の声だ。
羞恥も、プライドも、何もかもがどうでもよくなった。
俺は堪らなくなって、目の前の華奢な肢体を、壊してしまいそうな程の力で思い切り抱き締めた。
「……なんだよ、それ。反則だろ」
絞り出した声は、情けなく震えていた。
腕の中で、
名前がくすりと笑う気配がした。そして、俺の肩口に頬を寄せながら、トドメを刺すように、こう囁いた。
「うん。でもね、工くん。兄さんの知恵を借りたとしても、あの手紙に込めた気持ちは、全部、わたしの本心だよ」
その言葉に、俺の中で燻っていた最後のプライドの欠片が、音もなく溶けて消えた。ただ腕の中の温もりが、どうしようもなく愛しいと云う事実だけが、全身を駆け巡る。俺は、その本心に突き動かされるように、
名前の小さな身体を、更に強く包み込んだ。
後日、寮の自室で、俺は宝箱から例の手紙を取り出した。
そこに並んだ不器用な文字の連なりは、例え誰かの入れ知恵があったのだとしても、紛れもなく、
名前の"好き"がぎっしりと詰まっていた。
脳裏に蘇る、最強の呪文。
『こっちにおいで』
その破壊力を思い出し、一人で顔から火を噴きながら、俺は堪らず枕に頬を埋めた。この甘美な呪縛から、一生、解き放たれたいとは思わなかった。