ロイヤルブルーのドレスコード
∟名前が選んだ色を、俺は穿く。
Past Story.
八月二十二日。空には未だ夏の気配が色濃く残り、蝉時雨が地上に降り注ぐ、そんな日。わたしの恋人、五色工くんの誕生日だった。
「どうしようかな」
リビングのローテーブルに頬杖を突き、わたしは静かな思案に暮れていた。工くんの誕生日プレゼント。カレイの煮付けは、今夜の食卓に並べるとして、形に残る贈り物をどうするか、それが問題だった。スポーツ用品は、彼の拘りが強過ぎて手を出し辛いし、アクセサリーの類は、部活動の邪魔になるだろう。
思考の海を漂っていると、兄さんが書斎からのそりと姿を現した。今日のTシャツの胸元には『人生はネタ探し』と云う、兄の生き様を体現したかのような言葉がプリントされている。
「
名前、どうしたんだい。そんな難しい顔をして」
「
兄貴兄さん。工くんへの贈り物に悩んでいるの」
「ああ、彼の誕生日か。うぅん、そうだな……」
兄さんは顎に手を遣り、暫し考え込む素振りを見せた後、にやりと口の端を上げた。
「男と云うのは、見えない所にこそ拘る生き物なんだ。誰にも見せない、自分だけの、或いは特別な相手にしか見せない領域。そこにこそ、贈り物の価値が生まれる」
そう言って、兄さんは自らのTシャツの裾を僅かに捲り、派手な柄のボクサーパンツをちらりと見せ付けた。行動の意図は全く理解できないけれど、兄の言葉は不思議と、わたしの心にすとんと落ちた。
特別な相手にしか、見せない領域。
工くんとの関係は、もうその領域に踏み込むことを許されたものだ。なら、わたしが贈るべき品物は、自ずと決まってくる。
わたしは立ち上がり、兄さんに「ありがとう。行ってくるね」とだけ告げた。背後で「お、何か閃いたのかな?」と云う声が聞こえたけれど、振り返らずに玄関へと歩みを進める。わたしの心は、既に一つの明確な目標へ向かって、静かな熱を帯びていた。
目指した先の百貨店は、夏の終わりのセールで賑わいを見せていた。わたしは人の波を避けるようにして、軽やかにエスカレーターを上り、紳士服のフロアへと足を踏み入れる。その一角に、煌びやかな照明に照らされた、メンズアンダーウェアのコーナーが在った。
色とりどりの布地が整然と、自己主張するように並んでいる。わたしは少しも臆することなく、棚の一つを吟味し始めた。工くんの肌は、ちょっと日に焼けた感じで健康的だから、きっと鮮やかな色が映えるだろう。黒やグレーの無難なものではなく、工くんの眼差しの強さを思わせながらも、普段の彼が絶対に選ばなさそうな、そんな色味。
手に取ったのは、目が覚めるようなロイヤルブルーの一枚だった。滑らかな生地が指先に心地良く、そのカッティングは、工くんの引き締まった肉体の線を美しく見せるに違いなかった。何より、布面積の少なさが、わたしの趣味と完全に一致していた。
これを身に着けた彼を想像する。恐らくは面白い程に狼狽えて、顔を真っ赤にするだろう。けれど、そんな姿を見られるのは、世界で一人、わたしだけ。揺るぎない事実が、胸の奥に潜む独占欲を甘く満たしていく。
「贈り物、ですか?」
横から掛けられた女性店員の声に、わたしは「はい」と短く頷いた。
「彼氏さんに、とてもお似合いになると思いますよ」
にこやかにラッピングを勧める店員に、わたしは「お願いします」と告げた。小さな箱に収められていく青い布地を見つめながら、今夜の彼の反応を想い描けば、唇の両端が自然と持ち上がる現象を止められなかった。
夕暮れ時。マンションのチャイムが鳴り、わたしは扉を開けた。そこに立っていたのは、少し緊張した面持ちの工くんだった。
「……お邪魔します」
「いらっしゃい、工くん」
部屋に招き入れると、彼は食卓に並んだ料理へ焦点を定め、ぱっと顔を輝かせた。
「すげぇ……! カレイの煮付けだ!」
「工くんの好物だからね」
子供のように喜ぶ姿は、見ていて飽きない。二人きりの夕餉は穏やかで、満ち足りた時間が流れていった。デザートのケーキを食べ終えた頃、わたしは例の小さな箱を、工くんの前にそっと差し出した。
「誕生日、おめでとう」
途端に、工くんの表情が引き締まる。両手で恭しく小箱を受け取ると、真剣な眼差しが、わたしとプレゼントとを何度か往復した。
「あ、開けても、いい?」
「うん。その為に用意した」
ごくり、と彼の喉が鳴る。わたしはテーブルに手を置き、一部始終をじっと見つめていた。工くんの指がリボンを解き、ゆっくりと蓋が開けられる。
そして、工くんの動きが、ぴたりと止まった。

箱の中身を視界に捉えた瞬間、俺の脳は全ての機能を停止させた。
なんだ、これは。
鮮烈な、青。晴れ空の色をもっと深く濃くしたような、吸い込まれそうな青色。それは紛れもなく、下着、だった。しかも、俺が普段穿いているボクサータイプとは、明らかに一線を画す、その、何と云うか、非常に布の面積が心許ない、洒落た形状のブリーフ。
カッと、全身の血液が、顔面に集中するのが分かった。試合で重要な局面を任された時の緊張とも、先生に叱られた時の気まずさとも異なる、未知の熱量が心身を駆け巡る。耳まで真っ赤になっているに違いない。
「……
先頭文字、
名前、これは……その……」
声が裏返る。言葉が続かない。一体、どう云う心境で、これを選んだのだろう。俺を揶揄っているのか? いや、
名前はそんなことをする人間じゃない。だとしたら、何故……?
混乱の極みに居る俺を、
名前は静かな湖面のような双眸で見つめていた。彼女がそっと身を乗り出すと、涼やかな声音が、俺の耳に届く。
「偶には、こう云う色もどう?」
悪戯が成功した子供のように、
名前の唇が僅かに綻んだ。その表情に、俺の心臓が大きく跳ねる。白い頬が橙色の照明を受け、ほんのりと薔薇色に染まっている。
「それに」
名前は言葉を続ける。声は囁きのように甘く、俺の鼓膜を優しく震わせた。
「ここは、わたししか見られない場所だから。わたしの好きなものを選んだの」
――ドクン。
その一言が、雷の如く、俺の全身を貫いた。
羞恥心も、混乱も、何もかもが吹き飛んで、胸の奥からマグマのような熱い感情がせり上がる。
わたししか、見られない場所。
わたしの、好きなもの。
それは、つまり。このとんでもなく気恥ずかしい贈り物は、
名前の独占欲の表れだと云うことか。俺の誰にも見せない部分を、自分の好きな色で染めてしまいたいと云う、可愛らしくて、どうしようもなく強烈な、彼女からのメッセージ。
「……っ、当たり前だろ!」
気づけば、俺は叫んでいた。
「お、俺の、そんなとこ、見るの、
名前だけだ!」
しどろもどろになりながらも、必死に言葉を紡ぐ。そんな俺を見て、
名前は「ふふ」と鈴が鳴るように笑った。笑顔が夕暮れの光の中で宝石みたいに煌めいて、俺はもうどうにかなってしまいそうだった。
「ありがとう、
名前。……凄く、嬉しい」
漸く絞り出した本心に、彼女は満足そうに頷いた。
「うん。工くんが喜んでくれて、わたしも嬉しいよ」
俺は堪らなくなって、テーブル越しに身を乗り出し、彼女の華奢な手を掴んだ。驚いたように、少しだけ目を見開いた
名前だったが、直ぐにその指が、俺の手指に絡み、優しく握り返してくれた。
駆け引きなんて、必要ない。
こうして、
名前の、俺だけに見せる表情や、俺だけにくれる言葉、俺だけに向けられる想いが在る。それだけで、俺は世界で一番の幸せ者だと思える。
このどうしようもなく愛しい恋人、
名前から贈られた青い宝物は、絶対に、特別な日にだけ穿こう。彼女が、俺を最高に格好良いエースだと信じてくれる、その時の為に。
俺は繋いだ手に力を込め、夕陽に染まる顔貌へ向かい、静かにそう誓った。今年の誕生日の記憶は、きっと一生、俺の胸で熱を放ち続けるだろう。