ケツが破れても恋は進化する

『ショーセツバン』のネタが含まれます。  わたしの兄、苗字兄貴は時折、とんでもない置き土産をしていく。今朝もそう。兄さんが書斎と呼んでいるマンションの一室から、リビングへふらりと現れた時、その胸元には『〆切厳守! 但し、気分による』と云う、太々しいにも程がある文字列が躍っていた。兄の独特のセンスには、最早、何も言うまいと決め込んでいるけれど、兄さんがソファに置き忘れていった一冊の本に、わたしは僅かに双眸を見開いた。 『一瞬で彼を虜にする! 悪魔的恋愛上達術』  ……何とも扇情的なタイトルだ。きっと、次の作品の資料なのだろう。兄の書く物語は、時に星の王子様が宇宙船で旅をし、時に言葉を話すサボテンが探偵を営む。だから、恋愛指南書を読んでいたとしても、何ら不思議はない。わたしは表紙を指でなぞり、ぱらり、と頁を捲った。 「ふぅん……」 『ハプニングは恋のスパイス!』『予測不能な行動で、彼の心を独り占め』『彼の弱点こそ、貴方の聖域』  喧しい程のポジティブさと、妙な自信に満ちた断言の数々。わたしと工くん――五色工くんとの関係は、恋人同士と表現されるもので、先日、お互いに初めてを経験したばかり。順風満帆、と云う四字熟語が当て嵌まるかは分からないけれど、特に問題があるわけではない。上達させる必要なんて、あるのだろうか。  だけど。  頁を繰る指が、或る一文の上で、ぴたりと止まった。 『彼の最大のピンチに、女神のように現れなさい』  女神。わたしとは、随分と縁遠い存在だ。でも、想像してみる。工くんのピンチ。試合でミスをして、沈んでいる時だろうか。それとも、課題に追われ、唸っている時? どちらの彼も見たことがあるけれど、その時のわたしは女神と云うより、静かに寄り添う置物か、或いは一緒に頭を抱える同志と云った方が近かった。 「……試してみたら、どうなるのかな」  ぽつりと零れた独り言は、静謐なリビングに吸い込まれて消えた。工くんは、とても分かり易い。褒められれば面白い程に天狗になるし、落ち込めば世界の終わりみたいな顔をする。感情の振れ幅が大きくて、大型犬のようだ。そんな彼に、この『恋愛上達術』とやらを仕掛けてみたら、一体、どんな反応をするのだろう。  想像しただけで、普段は凪いでいる心の水面に、小さな擽ったい波紋が広がった。誰も知らない、秘密の遊びを見つけてしまった子供のように。  その日の放課後、わたしは白鳥沢学園のバレー部専用体育館に居た。約束もしていないのに、足が勝手にここへ向かってしまうのは、もうすっかり習慣になっていた。  蒸し暑い程の熱気、キュキュ、と床を擦るシューズの鋭い音、ボールが叩き付けられる衝撃音。全てが混ざり合い、一つの交響曲みたいに響いている。その中で一際大きく、よく通る声で叫んでいるのが、わたしの恋人、五色工くんだ。 「牛島さん! もう一本、お願いします!」  ぴんと伸びた背筋、ボールだけを見つめる真剣な眼差し。普段の、少し空回り気味な彼とは別人のようだ。ボールを追って跳躍するしなやかな身体は、鷹を思わせる。流れ落ちる汗が、日に焼けた首筋を伝って、練習着に染みを作っていく様さえ、何故だか芸術的に見えてしまうのだから、恋と云うものは不思議なフィルターを掛けるものだ。  わたしはギャラリーの隅に腰を下ろし、ただ静かにその姿を目で追っていた。彼がスパイクを決めれば、心の中で拍手し、ブロックされれば、わたしまで悔しい気持ちになる。  その時だった。 「五色、ラスト!」  セッターである、白布先輩の鋭い声が飛ぶ。それに応えるように、工くんはこれまでで最も高く、力強く宙を舞った。全身のバネを使い切るような、美しいフォーム。彼の右腕が撓り、ボールが撃ち抜かれる。凄まじい音がして、球は相手コートの隅に突き刺さった。 「よっしゃあ!」  雄叫びを上げて着地した、その瞬間。  ビリッ、と云う、決して大きくはないけれど、やけに明瞭な音が体育館に響いた。一瞬の静寂。そして、最初にそれに気づいたのは、矢張り白布先輩だった。 「……おい、五色」 「はい! 今のスパイク、どうでしたか!」 「いや、そうじゃなくて。お前、ケツ」 「ケツ、ですか?」  きょとん、と首を傾げる工くん。その無防備な背後で、事件は起きていた。草臥れたハーフパンツのお尻の縫い目が、彼の渾身のジャンプに耐え切れなかったらしい。ぱっくりと裂けたそこから、鮮やかな青色が見え隠れしている。それは、わたしが彼の誕生日に「偶には、こう云う色もどう?」と、半ば強引にプレゼントした、面積が些か少ない下着だった。 「ぶはっ! 五色、お前、すげー派手なパンツ履いてんな!」 「マジかよ! 次期エースは下着も勝負用か!」  先輩達の容赦ない笑い声と野次が飛び交う。工くんは何が起きているのか、理解が追いつかない様子で、自分の背後に手をやり、そして、触れてしまった。布がない、と云う事実に。  工くんの顔が、沸騰した薬缶だって、こんなに赤くはならないだろう、と云うくらい、一瞬で朱に染まった。ぱっつんの前髪の下で、その鋭い瞳が激しく揺れている。普段の自信に満ちた姿は見る影もなく、羞恥と混乱で完全に固まってしまっている。  その光景を視界に収めた瞬間、わたしの脳裏に、あの本の、あの胡散臭い一文が雷のように閃いた。  ――彼の最大のピンチに、女神のように現れなさい。  わたしは着ていたカーディガンを脱ぎ、静かに席を立った。一歩、また一歩と、体育館中の視線が集まる渦の中心へと向かう。皆、わたしの意図が分からず、不思議そうな顔でこちらを見ている。  そして、羞恥の余り、石化している工くんの背後に回り込むと、ふわりとカーディガンを彼の腰に巻いてあげた。きゅ、と前で結び目を作る。 「……え」  呆然と、工くんがわたしを見下ろした。その瞳は潤んでいて、捨てられた子犬のようだ。 「……先頭文字名前……?」 「着替え、持ってくるね」  わたしはそれだけを告げると、部室の鍵を借りる為に、斉藤先生の方へと向き直った。  背後で、工くんの息を呑む音が聞こえた気がした。『悪魔的恋愛上達術』。存外、効果があるのかもしれない。わたしの唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がったことは、きっと誰も気づいていないだろう。
 地獄、と云うものが在るのなら、きっと、今、この瞬間のことだ。  体育館のど真ん中で、全方位から視線を浴びながら、破れたケツを晒している。しかも、その破れた隙間から覗いているのは、選りによって、名前がプレゼントしてくれた、あの、なんと言うか、布面積の少ない、やたらと洒落た下着だ。断じて、勝負パンツなどではない。彼女がくれたものだから、大切に、ここぞと云う時に穿こうと決めていたヤツで……いや、今日がその"ここぞ"だったのか? 違う、絶対に違う! 「おい、五色。いつまでも放心してんじゃねえ」 「早く着替えてこいよ、風邪引くぞ、ケツが」  白布さんや川西さんの声が、ぐわんぐわんと頭の中で反響する。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。白鳥沢の次期エースたる俺が、こんな、こんな間抜けな姿を……! 穴があったら入りたい。いや、この体育館の床をぶち破って、地球の核まで潜ってしまいたい。  そうやって、俺が羞恥心で爆発四散する寸前だった。  ふわり、と。シャンプーとも柔軟剤とも違う、嗅ぎ慣れた、胸の奥が甘く疼くような香りが鼻先を掠めた。そして、腰に柔らかな布が巻かれる感触。 「……え」  振り返ると、視界に入ったのは名前だった。  いつから、そこに居たのだろう。いつもみたいに感情の読めない穏やかな瞳で、俺を見上げていた。だけど、その奥に、ほんの僅かな心配の色が滲んでいるように見えたのは、きっと、俺の願望の所為ではない筈だ。  名前の落ち着き払った態度と、その優しい行動に、沸騰していた頭が一気に冷却されていく。パニックで鳴り響いていた警報が、少しずつ静かになっていく。 「……先頭文字名前…?」  か細く、情けない声が出た。 「着替え、持ってくるね」  名前はそれだけ言うと、俺の腰に巻いたカーディガンの結び目を確かめるように一度だけ触れ、くるりと背を向けた。そして、斉藤先生から鍵を受け取ると、少しも迷いのない足取りで部室へと向かっていく。  その小さな、だけど、今は誰よりも頼もしく見える背中を見送りながら、俺の心臓は羞恥とは全く別の理由で、とんでもない速さで脈打っていた。  ドクン、ドクン、と。全身に血液を送り出すポンプが暴走したみたいだ。  ああ、もう。なんだって云うんだ。  あんなに冷静に、あんなにスマートに、この地獄のような状況を収拾されてしまったら。  最初からこうなることが分かっていたかのように、騎士みたいに颯爽と現れて、俺を救い出してしまったら。  好きだ、なんて単純な言葉では足りない。  胸の奥からマグマのように湧き上がってくる、この熱い感情は一体、なんなのだろう。 「……五色、お前の彼女、すげぇな」  呆れたような、それでいて感心したような川西さんの声で、俺は我に返った。周りを確認すれば、さっきまで腹を抱えて笑っていた先輩達が、どこか生温かい、優しい眼差しで、俺と、名前が消えた方向を見ている。  ああ、本当に。  本当に敵わない。  部活が終わり、すっかり茜色に染まった空の下を、俺達は並んで歩いていた。名前が腰に巻いてくれたカーディガンは、今は彼女の肩に掛かっている。俺は、名前が持ってきてくれたジャージを履いていた。  気まずさで、中々言葉が出てこない。 「……その、名前。今日は……ごめん。みっともないところ、見せて……」  漸く絞り出した声は、自分でも悲しくなる程に小さかった。 「ううん」  名前は前を向いたまま、僅かに首を横に振った。夕陽に照らされた彼女の横顔が、精巧なガラス細工みたいに綺麗で、俺はまた心臓が跳ねるのを感じた。 「格好悪くなんてなかったよ」 「でも……! あんな、情けない……」 「寧ろ」  ぴたり、と彼女が立ち止まる。俺も釣られて足を止めると、名前はゆっくりとこちらを振り返った。静かな湖面を思わせる瞳が、俺を真っ直ぐに射抜く。 「いつもと違う工くんが見られて、少し嬉しかった」 「……え?」  「それに」と、名前は言葉を続ける。ほんの少しだけ、その白い頬が夕焼けと同じ色に染まっているように見えた。 「わたしがあげたもの、ちゃんと使ってくれていたんだね。……嬉しかった、よ」  最後の声は、囁くように小さくて。  その一言と、はにかむような表情が、俺の中に残っていた羞恥心やら気まずさやらを、木っ端微塵に吹き飛ばした。 「当たり前だろ!」  思わず体育館に響き渡るのと、同じくらいの大声が出た。通行人が何事かとこちらを振り返る。でも、そんなことはどうでもよかった。 「名前がくれたもの、全部、大事にしてる! 服も、キーホルダーも、手紙も、全部、俺の宝物だ!」 「……ふふ、うん。知ってる」  くすり、と花が綻ぶように笑った。その笑顔が見たくて、俺はいつも必死になっているのかもしれない。  俺は堪らなくなって、彼女の華奢な手をぎゅっと握った。名前は、少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに優しく握り返してくれた。繋がれた手指から、彼女の体温が伝わる。  世の中には『恋愛上達術』なんて本があるらしい。本屋でそれっぽい本を見掛けたことがある。駆け引きがどうとか、相手を焦らすのがどうとか。  でも、そんなもの、俺達の間にはきっと必要ない。  ただ、こうして隣に居て、笑ってくれるだけでいい。  名前がピンチの時は、俺が全力で守るし、俺がどうしようもなく格好悪い時は、また彼女がこうして、呆れるくらいスマートに救ってくれるんだろう。  それで、充分過ぎる。 「名前」 「なあに、工くん」 「好きだ。……世界で、一番」  俺の言葉に、名前は何も言わずに、ただ握った手にきゅっと力を込めて応えてくれた。夕焼けが、そんな俺たち二人を優しく包み込んでいる。  このどうしようもなく愛しくて、敵わない恋人を、絶対に誰にも渡さない。  俺は夕日に染まる空に向かって、静かに、でも力強くそう誓った。  ……まあ、後日、名前の部屋で『悪魔的恋愛上達術』なる本を発見し、あの日の女神のような行動が、まさかのこの本に書かれたテクニックだった可能性に思い至り、一人で顔から火が出る程に赤面することになるのだが。それはまた、別の話である。



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