構図:恋人を虜にする角度で ∟"奇跡"だと思ってた写真の裏には、君の「好き」が詰まってた。

兄貴の描写が含まれます。  秋の陽光が、レースのカーテン越しにリビングへと柔らかく降り注いでいる。その光の粒子がきらきらと舞う中で、俺はソファに深く身を沈め、隣で静かに本を読む恋人の横顔を盗み見ていた。長い睫毛が落とす僅かな影、頁を繰る白く細い指先、その全てが精巧な芸術品のように見えて、心臓がとくん、と穏やかなリズムを刻む。  この何でもない、穏やかな時間が好きだ。  俺のスマートフォンの待ち受け画面は、あの日、名前が撮ってくれた一枚。夕陽に染まるカフェの窓辺で、頬杖を突いている、俺の横顔。自分でも見たことのない、どこか物憂げな表情を浮かべた、気障ったらしい俺。最初は思い出すだけで顔から火が出る程だったが、今ではすっかりお気に入りで、見る度に胸の奥が甘く疼く。 「この工くんは、わたしだけのものだね」  そう囁いた時の、彼女の夜の海を連想させる瞳の、ほんの僅かな揺らぎ。あれは紛れもなく、独占欲の色だった。俺の知らない俺の魅力を、名前が引き出し、彼女だけの宝物にしてくれた。その事実が、エースとしてのプライドとは全く別の、もっと根源的な部分を誇らしさで満たしていく。俺の恋人は本当に凄い。そのセンスも、俺を喜ばせる為の悪戯心も、全てが敵わないくらいに愛おしい。 「ねぇ、工くん」  不意に、名前が本から顔を上げた。 「読書部屋の本棚の上から三段目、右から二番目にある画集を取ってきてくれないかな。少し、参考にしたいものがあって」 「おう、任せろ!」  頼られるのが嬉しくて、俺は勢いよく立ち上がった。言われた場所は、リビングの奥、確か、名前のお兄さんである、兄貴さんの書斎の隣だった筈だ。軽快な足取りで本棚へと向かう。目的の画集に手を伸ばした、その時だった。  書斎のドアが、僅かに開いていた。  普段は固く閉ざされているか、さもなくば、兄貴さん本人が籠もっている筈の聖域。好奇心、と云うよりは、何気ない視線の移動だった。その隙間から、部屋の中が少しだけ見えた。積み上げられた資料の山、椅子に無造作に掛けられた『〆切は概念』とプリントされた黒いTシャツ、そして。  床に一冊の本が転がっていた。  最初は、また兄貴さんの奇抜な資料だろうと、気にも留めなかった。だが、そのタイトルが、俺の視界の端で強烈な自己主張を放っていた。 『一瞬でプロのカメラマンに! 奇跡の一枚を撮る構図の法則』  ……ん?  俺は動きを止めた。画集を掴み掛けた指が、空中で化石のように固まる。脳が、その文字列の意味を咀嚼するのに、数秒を要した。プロの、カメラマン。構図の、法則。  ――雷鳴が秋晴れの空を、突如として引き裂いたかのような衝撃だった。  脳内で、あの日の記憶が猛烈な勢いで逆再生される。 『じゃあ、少し遠くを見てみて。物憂げな感じで』 『その角度、凄く良い』 『ねぇ、工くん。写真、撮ってもいい?』  名前の、あの的確過ぎる指示。長年、ファインダーを覗き込んできたプロのような、淀みのないディレクション。夕陽の光が、俺の横顔を射抜いた、あの奇跡のような一瞬を逃さなかった、完璧なシャッターチャンス。  まさか。  いや、そんな筈は。  だが、ピースは嵌ってしまった。カチン、と云う冷たい音を立てて、俺の甘やかな想い出が、全く別の様相を呈し始める。あの日の、俺のアンニュイな表情は。あの日の、奇跡の一枚は。全部、全部、この胡散臭いハウツー本の成果だったと云うのか!?  カッと、全身の血液が沸騰する。羞恥の熱が、顔面から耳、首筋までを瞬く間に侵食していく。俺はまたしても、名前の掌の上で、完璧に踊らされていたのだ。恋愛指南書の次は、カメラの教本か!  恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。  だが、その羞恥の嵐の中心で、全く別の感情が、どうしようもなく芽吹いてしまうのを止められない。  俺を格好良く撮る為に。  俺の、誰も知らない魅力を引き出す為に。  名前は、こんな本まで読んで、研究してくれていた。その事実が、どうしようもなく愛おしい。彼女の健気で、少しだけ狡賢い愛情表現に、心臓がぎゅうっと締め付けられる。  これを、名前に問い質すべきか?  『あの日の写真、この本の受け売りだったのか!?』なんて。  駄目だ、絶対に駄目だ。そんなことを訊けば、彼女はきっと、あの静かな瞳で俺を見つめて、悪戯が成功した子供のように、ふわりと微笑むに違いない。 『うん。効果、あったかな?』  そう囁かれた瞬間、俺の自尊心は羞恥で爆発四散し、跡形もなく消え去るだろう。 「工くん? どうかしたの?」  リビングから、名前の涼やかな声が届く。はっとして、俺は慌てて画集を掴んだ。何事もなかったかのように平静を装い、書斎のドアから視線を逸らす。 「な、なんでもない! 今、持ってく!」  俺は深呼吸を一つして、リビングへと戻った。名前はソファに座ったまま、小首を傾げてこちらを見ている。その表情は、いつもと何ら変わらない。 「ありがとう。……あれ、工くん。顔が少し赤いよ。熱でもあるの?」 「なっ、ない! 断じてない! ちょっと、その、画集が重くて力んだだけだ!」  我ながら、意味不明な言い訳を口走る。名前は「ふぅん」と不思議そうな声を漏らしたが、それ以上は追及せず、画集を受け取ってくれた。  その日の残り時間、俺がどんな顔をして過ごしたか、正直、よく憶えていない。ただ、名前の何気ない視線が突き刺さる度に、心臓が跳ね、耳が熱くなるのを感じていた。  そして、その夜。  白鳥沢の寮、自室のベッドの上で、俺は遂に限界を迎えた。  昼間の出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。あの本のタイトル。名前の完璧なカメラワーク。俺の、計算され尽くしたであろう"奇跡の一枚"。 「うわあああああああっ!」  俺は堪らず、枕に顔を埋めて絶叫した。羞恥と、混乱と、どうしようもない愛おしさが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、胸の中で暴れ回っている。  敵わない。本当に敵わない。  名前が仕掛ける、予測不能で愛に満ちたトラップに、俺は何度だって掛かってしまうのだろう。  枕から顔を上げ、スマートフォンの待ち受け画面に目をやる。  夕陽に照らされた、知らない誰かのような俺。  でも、これは紛れもなく、俺だ。名前の"好き"と"努力"と、ほんの少しの悪戯心が詰め込まれた、世界で一番格好良い俺なのだ。  その事実を改めて噛み締めると、羞恥で爆発しそうだった筈の心臓が、今度は誇らしさで震え始めた。  俺はこのどうしようもなく愛しくて、敵わない恋人の為なら、何度だって、最高の被写体になってやろう。  俺は再び枕に顔面を埋め、今度は嬉しさと決意で悶えながら、一人、静かな夜を過ごすのだった。



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