スローモーション・イルミネーション
∟光の中で手を繋ぎ、二人の"再生速度"を擦り合わせる、冬の恋の記録。
十二月の声を聞き、街は俄かに色めき立つ。吐く息の白さが、夜の闇に吸い込まれては消える頃、私と京治くんは、来週の金曜日にイルミネーションを見に行く約束を交わした。冬の澄んだ空気は、光を一層美しく見せるから好きだと、そう言ったのは、私だったか、彼だったか。
約束の日、私は少し早めに待ち合わせ場所に着いていた。週末の駅前は、行き交う人々でごった返している。寒さで悴む指先に、ほう、と白い息を吹き掛けながら、ショーウィンドウに映る自分の姿を、何とはなしに眺めた。マフラーの奥、少しだけ緊張している自分が可笑しくて、小さく笑みが零れる。
「
名前」
不意に鼓膜を揺らす、低く落ち着いた声。振り返ると、息を切らすでもなく、でも、急いで来てくれたことが分かる、僅かな肩の上下と共に、京治くんが立っていた。黒いコートに、梟谷カラーを思わせるマフラーを巻いて。その姿は、雑踏の中でも一際目を引いた。
「京治くん。待ってないよ、私も、今来たとこ」
「そう。ならいいけど」
そう言って、私の隣にごく自然に並び、歩き出す。行き先は、駅から少し歩いたところにある、有名なイルミネーションスポットだ。無数の煌めきが織り成す幻想的な景色は、まるで物語の世界に迷い込んだかのようだった。
「わぁ……」
思わず、吐息のような感嘆が漏れる。青と白を基調とした光彩の川が、足元からどこまでも続いている。頭上には、星屑を鏤めたようなシャンデリアが瞬いていた。隣を歩く京治くんを見上げると、彼は眩しそうに目を細めながら、光の洪水よりも、それに見入る私の顔をじっと見ていた。その視線に気づいて心臓が跳ねるのを、私は悟られないように努めた。
人の波に押され、京治くんとの距離が開いてしまう。その瞬間、すっと伸びた大きな手が、私の手指を捕らえた。驚いて手の主を辿ると、「はぐれる」と短く告げられる。繋がれた手から伝わる、彼の体温。冷え切っていた指先が、じんわりと温められていく。彼の大きな掌で、私の手はすっぽりと包まれてしまった。日記に、この感触をどう書き記そうか。そんなことを考えてしまうのは、私の癖だ。
光のトンネルを抜け、落ち着いた場所にあるカフェで休憩することにした。ホットココアを両手で包み込むと、強張っていた身体から、漸く力が抜けていく。
「凄い人だったね」
「うん。でも、綺麗だった」
私の言葉に、京治くんは「そうだね」と静かに相槌を打つ。そして、少しの間を置いてから、思いがけない話題を口にした。
「最近、映画とかを二倍速で観るのが流行ってるらしい」
「二倍速?」
「うん。時間がないから、効率良く内容だけ把握したいんだって」
私はちょっと考えてから、首を傾げた。
「効率的かもしれないけれど……情緒がないね」
俳優の息遣いや、沈黙の間に込められた感情、ゆっくりと移り変わる情景。それらを全て置き去りにしてしまうのは、物語を味わう上で、とても勿体ないことのように思えた。
「俺もそう思う。でも、一度試してみるのも面白いかもしれない」
「試すの?」
「うん。今度、俺の家でやってみない?」
悪戯っぽく笑う彼の表情に、私は少しだけ面食らった。けれど、京治くんの家で、多分、二人きりで。その響きは、冬の寒さを忘れさせるくらい、私の心を温かくした。
「……うん。試してみたい、かな」
そう答えるのが、精一杯だった。

目の前で、
名前がこくりと頷く。その仕草一つで、こんなに胸が騒がしくなるのだから、我ながら単純だと思う。イルミネーションの光が、彼女の白い頬を淡く照らしていた。その光景は、どんな名画よりも、俺の心を捉えて離さない。
(木兎さん相手でも、ここまで表情を読もうとはしないのに)
コートのポケットの中で、無意識に拳を握り締める。
名前の些細な表情の変化、言葉の選び方、その全てが気になって仕方がない。セッターとして培った観察眼は、コートの外では余り役に立たないどころか、寧ろ、俺を混乱させるだけだった。
人の多さを言い訳に、彼女の手を握った時、
名前が少しだけ目を見開いたのを、俺は見逃さなかった。繋いだ手の小ささと、その温かさ。このまま離したくないと、強く思った。
カフェでの会話も、全ては計算の上だった、と言えば格好が付くのかもしれない。だけど、実際のところは、ただ彼女の反応が見たかっただけだ。二倍速鑑賞なんて云う突拍子もない提案に、
名前がどんな顔をするのか。そして、あわよくば、自分のテリトリーに彼女を招き入れる口実が欲しかった。
(合理的、とか言いつつ、結局は、
名前と二人きりになる為の口実。俺も大概だな)
内心で自嘲しながらも、口許が弛むのを止められない。
名前との約束を取り付けた週末、俺は少しだけ浮かれていた。
そして、当日。俺の部屋のローテーブルには、
名前が作ってきてくれたと云う、独創的な焼き菓子が並んでいた。ほうじ茶とホワイトチョコのクッキー。口に含むと、香ばしいお茶の香りと優しい甘さが広がる。
「美味しい」
「良かった」
そう言ってはにかむ
名前に、また心臓が掴まれる。俺達はクッションを並べて座り、ノートパソコンで映画を再生した。選んだのは、最近話題のアクション映画だ。
「じゃあ、いくよ」
俺は再生速度を2.0倍に設定し、再生ボタンを押した。途端に、画面の中の登場人物達が早口で捲し立て、目まぐるしく動き出す。BGMは甲高く歪み、シリアスなシーンも、どこか滑稽に見えた。
「……っ、ふふ」
隣から、堪え切れないと云った様子の笑い声が聞こえる。見れば、
名前が肩を震わせて笑っていた。釣られて、俺も吹き出してしまう。
「駄目。全然、頭に入ってこない」
「本当。何が何だか分からないね」
腹を抱えて笑い合う。結局、二倍速での鑑賞は開始五分で中止となった。
「やっぱり、これはないね」
「うん。全くだ」
笑いながら涙を拭う
名前の、その潤んだ瞳に吸い寄せられるように、俺は彼女の頬に手を伸ばした。少しだけ驚いたように揺れる、
名前の双眸。
「
名前」
名前を呼ぶと、彼女は黙って、俺を見つめ返す。その無防備な表情に、もう我慢は効かなかった。
ノートパソコンの画面から漏れる光が、部屋をぼんやりと照らしている。俺はゆっくりと顔を寄せ、
名前の唇に自分のそれを重ねた。柔らかくて、甘い。さっき食べた、クッキーの味がした。
(イルミネーションの光よりも、早回しの映画よりも、今、目の前に居る、
名前の唇の感触の方が、ずっと、俺の心を掻き乱す)
二倍速なんかじゃなくて、
名前との時間は一瞬一瞬をスローモーションで味わいたい。そんな独占欲が、胸の奥から込み上げる。
どちらからともなく唇が離れると、部屋にはスクリーンから流れる等速のBGMだけが響いていた。
「……結局、最初から観ることになるね」
「……そうだね」
どちらからともなく笑い合い、俺達は寄り添って、再び画面に向き直った。映画のストーリーなんて、正直、もうどうでもよかった。ただ、この温かい時間が、少しでも長く続けばいい。そう、心から願っていた。