ぽちゃほっぺリカバリー ∟夏バテ彼女と、俺の好物。

 夏の猛練習を終え、茹だるアスファルトの熱気から逃れるようにして、俺は恋人である、苗字名前の住むマンションへと足を運んでいた。インターホンを鳴らすと、スピーカーから聞こえたのは、いつもより幾分か細く、か弱い声だった。 「……はい、どちら様でしょう」 「俺。赤葦だけど」 「……京治くん」  声色に安堵が滲むのと、電子ロックが解錠されるブザー音はほぼ同時だった。胸騒ぎを覚えながらエントランスを抜け、エレベーターで最上階へ。重厚なドアの前に立つと、内側からカチャリと鍵が外される。ゆっくりと開く扉の隙間から現れた名前は、普段よりも僅かに輪郭が、本当に僅かだが、すっきりしているように見えた。 「名前、大丈夫? 顔色が悪いけど」 「うん……ちょっと、夏に負けているみたい」  そう返して力なく微笑む彼女は、夜の淵から掬い上げた硝子細工のように儚げで、今にも砕けてしまいそうだった。招き入れられた部屋は、クーラーが効いている筈なのに、纏わり付く熱気が残っている気がした。名前はふらりとした足取りで、リビングのソファに腰を下ろすと、背凭れに身体を預け、深く沈み込んだ。  俺は隣に静かに座り、名前の頬にそっと触れる。いつもは指を押し返すような、柔らかくも瑞々しい弾力を持つ頬が、心成しか張りを失っている。俺が愛してやまない、ぽちゃぽちゃとした可愛らしいほっぺが。 「食欲、ないの?」 「……うん。お素麺を少しだけ。でも、それも余り」  名前はこくんと頷き、長い睫を伏せた。白い首筋を流れる汗が、やけに痛々しく映る。練習後の身体は未だ熱を放っているだろうに、俺の太腿に、彼女は躊躇なく頭を乗せた。甘える仕種は嬉しいが、今は受け止めることしかできない自分にもどかしさを感じる。 「食べられそうなものはある? 俺、何か作るけど」 「うーん……冷蔵庫にあるもので、お願いできるかな」 「分かった。ちょっと見てくる」  膝の上の温もりを名残惜しく思いながらも、俺はゆっくりと立ち上がり、キッチンへ向かった。  巨大な、業務用かと見紛う程の冷蔵庫を開けると、中には見慣れない食材が整然と並んでいた。食用サボテン、青いジャム、やたらとカラフルなパプリカの瓶詰め。恐らく、名前の兄である、兄貴さんの仕業だろう。あの人は時々、新作のインスピレーションを得る為と称しては、風変わりな食材を買い込んでくる。確か、前回会った時は『〆切、それは遥か彼方の水平線』と書かれたTシャツを着ていた。彼のセンスは独創的過ぎて、俺の理解の範疇を軽々と超えていく。 「これじゃあ、病人食は作れないな……」  溜息をついた、その時。持参した保冷バッグの存在を思い出した。今朝、母さんが「名前ちゃん、夏バテしてない? 良かったら、これ、お裾分けしてあげて」と持たせてくれたタッパー。中身は小松菜の辛子和えだ。俺の好物は菜の花辛子和えだが、今は旬じゃないからと、代わりの野菜で作ってくれたもの。シャキッとした歯触りが食欲を呼び、夏バテ防止になりそうで、これも結構好きな味だった。出汁と醤油、ピリリと効かせた和辛子で和えた、シンプルな一品。  問題は、名前がこれを食べられるかどうかだ。小松菜の持つ仄かな風味と、鼻にツンと抜ける辛さ。暑さにやられて弱った胃には、少し刺激が強いかもしれない。  リビングに戻ると、俺の膝枕がなくて寂しかったのか、名前はクッションを抱き締めて蹲っていた。その姿が迷子の幼子のようで、庇護欲を掻き立てられる。 「名前」 「……京治くん」 「これ、食べられそう?」  タッパーの蓋を開けて見せると、名前は不思議そうに中を覗き込んだ。鮮やかな緑色と、ふわりと香る出汁の匂い。 「これは……小松菜、かな。意識して食べたことが、ないかもしれない」 「うん、小松菜の辛子和え。俺の好物の、菜の花辛子和えに似てるんだ。印象は結構違うけど、これも美味いよ。でも、辛子が効いてるから、無理はしなくていい」  そう説明すると、名前はむくりと身体を起こした。夜の海を想起させる静かな双眸で、俺をじっと見つめ、ふわりと微笑む。 「京治くんのお気に入りに似ているなら、わたしも好きになりたい。食べてみる」  健気な言葉に、胸の奥が締め付けられる。思春期特有の甘く苦しい疼きが、身体の芯を駆け巡った。でも、今は悟られるわけにはいかない。俺は平静を装い、「分かった。皿によそってくる」と告げ、再びキッチンへ向かった。  小松菜の水気を切り、白磁の小鉢にこんもりと盛り付ける。緑の鮮やかさが、名前の白い肌によく映えそうだ、などと考えてしまう。何でもかんでも、彼女に結び付けたがる思考回路は我ながら単純で、少しだけ恥ずかしい。 「はい、どうぞ」  ソファの前に据えられたローテーブルへ皿小鉢を置き、箸を添える。名前は初めて観る芸術品を鑑賞するかのように、興味深げに辛子和えを見つめている。そして、意を決した様子で箸を取り、小さな一房をそっと口へ運んだ。  しゃくり、と小気味良い音が響く。  次の瞬間、名前は大きく目を見開いた。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、きゅっと眉根を寄せる。矢張り、辛過ぎたか。 「……っ、」 「名前? 無理しなくていい。水を」  俺が慌てて立ち上がろうとしたのを、彼女は白い手で制した。もぐもぐと口許を動かし、こくりと嚥下する。 「……美味しい」  ぽつりと、鈴を転がすような声が呟かれた。 「え?」 「美味しい、これ。しゃんとする味がする」  最初は鼻に抜ける辛さに驚いたのだろう。だが、噛み締める内に小松菜のシャキシャキとした心地良い歯触りや、奥にある瑞々しい甘みが、出汁の優しい旨味と絡み合い、口の中いっぱいに広がったに違いない。  名前は再び箸を伸ばし、今度は先程よりも、やや多めに辛子和えを口に含んだ。小さな口中に詰め込まれた所為で、片方の頬がぷくりと膨らむ。冬籠もりの為、頬袋に木の実を溜め込むリスのような姿が、余りにも愛らしい。 「本当に美味しい……もっと食べたい」  俺は安堵と、どうしようもない程の愛しさを感じながら、名前の隣に座り直した。 「沢山あるから、ゆっくり食べな」 「うん」  小鉢の中身を夢中で減らす名前を見ているだけで、心が満たされる。俺の好物を「美味しい」と言ってくれる。只、それだけのことが、上げたトスでスパイクが決まった時とはまた違う、じんわりとした喜びに繋がるのだ。  あっと言う間に皿小鉢は空となり、名前は満足気に息をついた。心成しか、頬に血の気が戻り、通常の瑞々しい色合いを取り戻したように思える。 「ご馳走様でした。京治くんのお陰で、楽になったみたい」 「それは良かった」 「うん。だから、お礼」  名前はそう続けると、俺の腕に身体を摺り寄せ、胸に面を埋めた。上目遣いで、俺を見つめる。双眸は潤み、熱を帯びているようだった。 「京治くんの好物で、わたしのほっぺも元気になったよ。触ってみる?」  それは、殆ど誘っているのと同義だった。俺はゴクリと喉を鳴らし、誘われるままに頬へ手を伸ばす。指先に触れた肌は、先程までの張りのなさが嘘のように、ふっくらと温かい。常通りの、俺の大好きなぽちゃぽちゃした感触が、そこにはあった。 「……本当だ。回復してる」 「京治くんのお陰」  名前は心地好さそうに目を細め、俺の掌に、更に豊頬を押し付ける。無防備な仕種と、甘えた声や香りが、俺の冷静さを少しずつ、確実に削り取っていく。  もうちょっとパワーを付けたい、なんて悩みまで、今だけはどこかへ吹き飛んでしまいそうだ。この瞬間、俺が欲しているのは、バレーの為の筋力じゃない。目の前の愛しい存在を、優しく抱き締める為の包容力だ。 「名前」 「なぁに、京治くん」  俺は、名前の細い腰を引き寄せ、もう片方の腕で確りと固定する。最初は身動ぎした彼女も、直ぐに諦めたように力を抜き、俺に体重を預けた。  夏の気怠い午後。クーラーの低い唸りと、窓越しに鳴く蝉の声だけが響く静閑な部屋で、俺達はお互いの温もりを確かめ合っていた。小松菜の辛子和えがくれたのは、食欲だけではなかったらしい。名前への抑え切れない程の欲求が、腹の底から静かに湧き上がる気配を感じながら、俺は彼女の柔らかい髪に鼻を埋めた。



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