感情制御装置は壊れている ∟夢と現実の狭間で、理屈では測れない"愛の言葉"を探す、赤葦京治の一夜。

 夢は、いつも唐突に始まる。  それが現実味を帯びていればいる程、覚醒との境界線は曖昧になる。だけど、今夜の夢は、冒頭から論理のネジが緩み切っていた。先ず、梟谷学園の体育館、あの汗と熱気の染み付いた床一面に、パステルカラーからヴィヴィッドな色彩まで、無数の付箋が几帳面に、モザイク画の如く並べられていた時点で、理性がけたたましく警鐘を鳴らしていた。ラベルには一枚ずつ、異なるフォントで『警告』『理解不能領域』『思考停止推奨』などと書かれているように見えた。 『"冷静な人間しか立ち入れない秘密図書館"――ここから先は、論理が通じません』  そう印字されたプラスチック製のカードキーを、こちらを冷めた目で見つめる俺自身が無言で手渡してくる。これはもう夢の中の俺が、現実の俺に「諦めろ」と宣告しているに等しい。冷静な人間しか立ち入れない秘密図書館、とは名ばかりの、混沌そのものだった。体育館の隅、普段はボール籠が置かれている場所に、ぽっかりと口を開けた黒い渦。一歩、足を踏み込んだ瞬間、俺は確かに何か決定的な境界線を越えたのだと感じた。  無音の回廊。自分の足音だけがやけに大きく反響し、静寂を切り裂く。粛然とした、と言うよりは、息が詰まるような空気が肌を刺す。巨大なメトロノームが心臓の鼓動を模倣するかのように"コツ、コツ"と規則正しく、どこか不吉なリズムを刻んでいた。その音は見えない緊張の糸を少しずつ、確実に巻き上げていく。やがて辿り着いた広間の中央、祭壇めいた台座に『感情制御装置』とプレートが掲げられた機械が鎮座していた。その傍らには、何故か主将である木兎さんのデフォルメされたぬいぐるみが、寸分違わぬ間隔で五体、行儀良く並べられている。何の呪術だ。  気づけば、俺の手には一冊の古びた本があった。表紙には金文字で、こう箔押しされている。 『論理で愛を語る赤葦京治の沈黙100選』  ……タイトルが酷過ぎる。一体、誰が編集したんだ。  呆然と立ち尽くしつつも、半ば自棄になって、その本をぬいぐるみに差し出そうとした瞬間、舞台の幕が上がるように、唐突に人間の木兎さんが堂々と姿を現した。その手には、メガホンが握られている。 「冷静沈黙系彼氏の赤葦が居るって聞いたんだけど! 遂に感情を言語化するってホントか!?」  はい、夢確定。もう疑う余地もない。  「これは夢だ、京治。落ち着け」と無意味な自己制御を試みるが、木兎さんはそんな俺の葛藤などお構いなしに、がしっと肩を掴んで力任せに揺さぶってきた。 「言葉を超えた愛を、どう伝えるの!? なあ、赤葦。お前、ちゃんと好きって言えてるか!? 肝心なとこで黙って誤魔化してないか!?」  その言葉は、妙に核心を突いていた。 「……言えていますよ。充分に、伝わるように」  と、夢の中の俺がやや掠れた声で答えたところで、視界がぐにゃりと歪み、急速に白んでいく。  そして、最後に鮮明に浮かび上がったのは、あの子の顔――苗字名前。  感情の深さを窺い知れない、夜の海のような瞳。触れれば溶けてしまいそうな程に白い、白磁の肌。殆ど表情を変えることのない彼女は、けれど、ふとした指先の動き一つ、微かな瞬きの一つで、俺の心の水面を揺らすのだ。  言葉なんて、きっと最初から通じるものではなかった。俺は彼女の前で、常に冷静さを装い、理路整然と振る舞っているつもりで、その実、いつも彼女の描く不可視の波に翻弄されていた。恋と云う名の甘美で危険な深淵に落ちる寸前のまま、ただ漂っている。  そして、夢はそこで唐突に幕を閉じた。  目覚めた時、俺は自室のベッドの上で、浅く息を吐いていた。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。今日の天気は快晴。窓の外には、いつもと変わらない都市の喧騒が、遠い波のように広がっている。  携帯端末を手に取ると、名前からのメッセージが一通、着信を知らせていた。 『京治くん。今夜、図書館に行こう。秘密の方』  ……なんだ、これは。まるで、さっきまで見ていた夢の続きを促されているような。  既読を付けると、間髪入れずに二通目が届いた。 『冷静じゃないと入れないらしいから、気を付けてね』  俺は思わず、乾いた苦笑を漏らした。矢張り、俺は彼女に翻弄されている。そして、それが不快ではない自分にも気づいていた。  夜。指定されたのは都内某所、蔦の絡まる、古びた石造りの洋館だった。街灯の頼りない光が、そのシルエットをぼんやりと浮かび上がらせている。入口の重厚な木製の扉の前に立つと、待ち構えていたかのように、すぐに中から名前が現れた。手にはアンティーク調の燭台を掲げ、揺れる炎が彼女の白い顔を幻想的に照らしている。 「ようこそ、恋の深淵へ」  囁くような声で、彼女はそう言った。今夜の名前は、白いブラウスに、黒いフレアスカートと云う出で立ちだった。透けるような肌に、柔らかな髪が静かに揺れている。その姿は、古い絵画から抜け出してきたかのようだ。 「また変なテーマ?」  俺が尋ねると、名前は小さく頷いた。 「うん。わたし、夢を見たの。京治くんが図書館の中で、沢山の言葉に囲まれて、沈黙している夢」 「……奇遇だね。俺も、酷似した夢を見たよ。梟谷の体育館だったけど」 「じゃあ、続きをしよう」  名前はそう言って、悪戯っぽく微笑むと、俺の手を取った。細く、けれど、確かな力で握られる。  この手に握り緊められる度、俺が懸命に築き上げた理性の壁は音を立てて崩れていく。冷静さを保とうとすればする程、指先から伝わる微かな温もり一つ、ふとした瞬間に香るラベンダーの匂い一つで、意識の焦点が乱される。感情制御装置があるなら、今こそ本気で欲しい。  俺は黙ったまま、名前の後ろを付いて歩く。燭台の灯りが、彼女の細い首筋に掛かる後れ毛を金色に染め、白い項を艶めかしく照らし出す。一歩進む毎に現実から遠ざかり、深海にゆっくりと潜っていくような錯覚に陥る。光の届かない静謐な場所で、言葉の代わりに、ただ互いの鼓動だけを交わすような、そんな濃密な時間。 「ねえ、京治くん」  不意に彼女が立ち止まり、振り向いた。揺れる炎が、名前の深い色の瞳に小さな輝きを灯す。 「論理で愛を語るって、どう思う?」  その問いは、夢の中の木兎さんの声と重なった。 「……無理だと思う。少なくとも、俺には。愛は言葉よりもずっと深い、沈黙の中にこそ在るものだから」  俺は、そう答えるのが精一杯だった。それは本心であり、同時に、言葉にできないもどかしさの裏返しでもあった。 「でもね、わたしはそれを聞きたいの」  名前は一歩近づいて、俺の目を見据えた。 「何を?」 「京治くんの、冷静じゃない言葉。京治くんの心の奥底の、本当の音を」
 ここからは、わたし――苗字名前の視点で。  赤葦京治と云う人は、わたしの手を取る時、まるで冬の湖面のように静かで、氷のように冷たく見えることがある。けれど、その奥底には、触れたら火傷してしまいそうな程の熱を隠していることを、わたしは知っている。  彼の沈黙の中には、きっと沢山の声にならない気持ちが、押し花のように大切に仕舞われている。けれど、それをストレートな言葉で伝えるのは、京治くんにとって、とても難しいことなのだと、彼自身も、わたしも、薄々感じていた。彼はいつだって、自分の感情を正確に分析し、最適な表現を選ぼうとして、結局は沈黙と云う名のヴェールで覆ってしまうから。  だから、わたしは今夜、京治くんをこの場所に呼んだ。  ただ、彼ともっと深く向き合いたくて。彼の心の、一番深い場所に触れてみたくて。  わたしが一歩踏み出すと、彼も躊躇いがちに、けれど、確かに付いてきてくれた。あの、いつも冷静沈着な赤葦京治が。それだけで、胸の奥が小さく、温かく震えるのを感じた。 「ねえ、京治くん」 「なに?」  彼の返事はいつも通り、静かで落ち着いている。でも、その声の微かな揺らぎを、わたしは聞き逃さない。 「わたし、京治くんのことが好き」  沈黙。  いつもの、赤葦京治の沈黙。でも、今日は何かが違う。彼の纏う空気が、張り詰めているようで、どこか柔らかい。  やがて、京治くんの手が、わたしの頬にそっと触れた。少しだけ冷たい指先が、すぐに熱を帯びてくるのが分かる。彼の瞳が真っ直ぐに、射抜くようにわたしを見つめている。その深い色の瞳の奥に、今まで見たことのないような、強い光が揺らめいていた。 「俺も、名前が好きだよ。……多分、誰よりも」  京治くんの唇から紡がれた科白は、決して流暢ではなかったけれど、どんな美しい詩よりも、わたしの心に深く、強く響いた。  「多分」と云う、彼らしい少しの不確かさが、逆にその言葉の真実みを増しているように感じられた。  深淵の底で、漸く見つけたもの。それは重苦しい沈黙なんかじゃなかった。  それは声にならない想いが溢れて溶け合った、わたし達だけの、愛の音だった。その音はきっとこれからも、二人の間で静かに響き続けるのだろう。



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