57.屑に埋れた宝石 | 完璧な世界に侵入した、一つの宝石。

兄貴が登場します。

 俺の世界は、常に目に見えない脅威に満ちている。  教室と云う閉鎖空間は、謂わば培養実験のシャーレだ。咳一つで飛散する無数のウイルス、手洗いもそこそこに教科書を捲る指先に付着した雑菌、休み時間の度に無駄に上昇する湿度と二酸化炭素濃度。それら全てが、俺の神経をヤスリ掛けのように削り、苛立たせた。全く、集団生活などと云うものは、愚鈍と不潔を煮詰めて固めたような代物だ。  だから、俺は常にマスクと云う物理的な防壁で、外界と自らを隔てている。それは、俺が俺のコンディションを正常に保つ為の、至極当然の生存戦略に過ぎない。古森は「超ッッッ絶ネガティブ」などと軽々しく口にするが、断じて違う。俺はネガティブじゃない。慎重なんだ。この世に蔓延るありとあらゆるリスクを、ただ人より正確に認識しているだけだ。 「……」  そんな菌の温床たる教室で、俺の視線は自然と、左隣の席へと吸い寄せられる。  苗字名前。  彼女だけが、この澱んだ空気の中で、異質な程に清浄な領域を保っていた。春の柔らかな陽光が窓ガラスを透過して、彼女に降り注ぐ。絹糸のような髪がきらきらと光の粒子を散らし、白いブラウスの襟元から覗く首筋は、非の打ち所がない白磁のように滑らかだ。彼女が存在する半径一メートルだけが、高圧蒸気滅菌でも施されたかのように清らかで、澄み渡っている。  俺だけの聖域。  不意に、彼女がこちらを向いた。  夜の海を溶かし込んだような、どこまでも深く、静かな瞳。その吸い込まれそうな双眸に、俺の姿が映り込んだ瞬間、腹の底で何かが燻り始める。じわりと熱を帯び、心臓が不規則なビートを刻む。思春期特有の、この馬鹿げた生理現象はいつだって、名前と云う唯一つの原因によって引き起こされるのだ。 「臣くん、今日の部活はいつもより、少し早く終わるでしょう?」 「……うん。明日の練習試合の調整だけだから」 「なら、わたしの家に寄っていかない? 兄貴兄さんが、新しい絵本のラフが出来たから、見てほしい、って」 「……」  名前の兄、苗字兄貴。職業、作家。独創的と云う言葉では生温い、奇想天外な物語を紡ぐ男だ。重度のシスコンであり、何故か、俺のことを「清潔くん」と呼んで気に入っている。彼が着用している珍妙な文字入りTシャツを思い出し、俺は僅かに眉根を寄せた。確か、この前会った時は、「〆切 is デッドライン」と書かれたものを着ていた。 「……分かった」  しかし、断る選択肢はない。名前からの誘いを、俺が拒めるワケがないのだから。  約束通り、俺はいつもより早く部活を終え、校門で名前と合流した。並んで歩き出すと、彼女の纏う清潔な花の香りが、マスク越しにでもふわりと鼻腔を擽る。それだけで、練習で火照った身体の芯が、別の種類の熱を帯びていくのが分かった。  その時だった。 「あ、苗字さん! 良かったら、この後……」  背後から聞こえたのは、クラスの男子生徒の軽薄な声。名前はよく知らない。たった今、憶える価値もなくなった。そいつはヘラヘラと下卑た笑みを浮かべ、馴れ馴れしく名前の肩に手を伸ばそうとした。  ――殺菌。  俺の脳内で、瞬時に警報が最大音量で鳴り響いた。その汚れた指で、名前に触れるな。一ミクロンたりとも。  俺がその腕を叩き落とすよりも早く、名前は蝶が舞うようにひらりと身を躱した。汚泥が跳ねるのを避けるかのように、優雅に。 「ごめんなさい。大切な先約があるので」  抑揚のない、凛として透き通る声。名前はそう言うと、俺の制服の袖を、白い指できゅっと掴んだ。 「行こう、臣くん」  俺の袖を引く名前に、男は呆然と立ち尽くしている。その滑稽な様を視界の端に捉え、俺は内心で嘲笑した。身の程を知れ。  俺は男に一瞥もくれず、名前に導かれるまま歩き出す。袖に触れた彼女の指先から、清らかな何かが流れ込んでくるようだった。俺の中に渦巻いていた不快指数と、或る種の殺意にも似た激情が、見る見るうちに浄化されていく。彼女は俺にとって、唯一の消毒液であり、抗ウイルス剤だ。 「……あんな奴に、声を掛けさせるな」  人通りの少ない裏道を選びながら、俺は不機嫌を隠さずに言った。 「仕方ないでしょう。口は誰にでも付いているから」 「不用意に近寄らせるなと言ってる」 「ふふ、臣くんは心配性だね」  名前は楽しそうに笑う。その声が、俺の苛立ちを少しずつ溶かしていく。 「心配性じゃない。慎重なんだ」 「そうだね。とても慎重な臣くんが、わたしには無防備なのが嬉しいよ」 「……っ」  不意打ちの言葉に、心臓が跳ねた。こうして、彼女は時折、俺の心の壁をいとも容易く飛び越えてくる。俺の潔癖症が、この慎重過ぎる性格が、名前の前でだけは形無しになることを、誰よりもよく知っている。  名前の住むマンションは、相変わらず要塞のように静かで、外界の喧騒とは無縁だった。管理人以外は苗字兄妹しか住んでいないと云う、常識外れの住環境。エントランスの表札が全て無記名なのも、兄である兄貴さんの「プライバシーの結界だ」と云う謎理論に因るものらしい。  リビングのドアを開けると、ソファで漫画を読んでいたが顔を上げた。名前の一つ下の弟。姉に似て整った顔立ちをしているが、口を開けば生意気なことしか言わない。 「あ、潔癖。来たのか」 「……くん。こんにちは」 「姉さん、こいつ、腹減ってんじゃないの? なんか食わせてやれば」 「臣くん、お腹は空いている?」 「いや、別に……」 「そうか。じゃあ、俺が腹減った。姉さん、なんか作って」  全く、相変わらずな弟だ。だが、俺が名前の彼氏だと知ってから、あからさまな敵意が消え、今のような小生意気な態度に軟化しただけマシか。 「やあ、清潔くん! よく来たね!」  奥の部屋から現れたのは、兄の兄貴さんだった。今日のTシャツは、胸に大きく『俺の妹が世界遺産』とプリントされている。……どうかしている。 「兄貴兄さん、絵本のラフが出来たんでしょう?」 「そうなんだよ、名前! 今回の物語はね、潔癖症のハリネズミが、世界で唯一触れるタンポポの綿毛ちゃんと、恋に落ちる話なんだ!」  そう言って、彼は得意気に、俺と名前を交互に見た。……俺達のことじゃないか。 「ハリネズミは、その繊細な心故に、いつも針を逆立てて、世界を拒絶している。だが、綿毛ちゃんの無垢な優しさに触れた時、初めて針を収めることを覚えるんだ。どうだい? 泣けるだろう?」 「……素敵なお話だね、兄さん」 「だろう!? 主人公の名前は『サクサク』だ!」 「……帰る」  俺が立ち上がろうとすると、名前が腕を掴んで制止した。 「待って、臣くん。兄の創作意欲の源は、いつだって身近な愛なの」 「……勘弁してほしい」  兄貴さんの絵本談義から解放され、俺達は名前の部屋へ移動した。名前の自室は、彼女自身を体現したような空間だ。無駄なものが一切なく、本棚には古今東西の書物が整然と並び、窓辺には丁寧に手入れされた観葉植物が置かれている。空気清浄機が静かに稼働し、微かにラベンダーの香りがした。俺の家より、よほど清潔で落ち着く。  俺はベッドの縁に腰掛けると、先程の校門での出来事を思い出して、再び眉間に皺を寄せた。 「……やっぱり、気に食わない」 「例の、彼のこと?」 「あんな屑が、お前と同じ空気を吸っていることすら不快だ」  俺の口から漏れたのは、紛れもない本心だった。ああ云う不用意で無頓着な存在が、俺は心底嫌いだ。  名前は静かに隣に座ると、俺の顔をじっと覗き込んだ。その静謐な瞳に見つめられると、俺の内のどす黒い感情が、全て見透かされているような気分になる。 「臣くんにとって、世界は屑だらけなんでしょう?」  核心を突く言葉に、俺は息を呑んだ。  ……そうだ。俺の基準に満たない、不用意で無神経な人間。無意味な会話。不衛生な環境。それら全てが、俺のコンディションを乱すノイズでしかない。そして、残念なことに、世界はそんなノイズで満ち溢れている。  名前は、俺の心を掌で転がすように続けた。 「その中で、わたしだけが宝石なら、凄く嬉しいな」  夜の海底のような瞳が、悪戯っぽく、慈しむように細められる。  ――やられた。  完全に不意を突かれた。  屑に埋れた宝石。  いや、違う。俺にとっての世界は、屑とそうでないものに、明確に区分されている。俺が定めた厳格な基準と、揺るぎない理屈で構築された、秩序ある世界。そこには一切の不純物も、曖昧な感情も入り込む余地はない筈だった。  だが、苗字名前。お前だけが、その全ての法則を超えて存在する。  俺の完璧な秩序の中で、唯一の例外であり、絶対的な中心。  俺の無菌室のような世界に咲いた、ただ一輪の花。傷一つなく、清浄な光を放ち続ける、唯一無二の宝石なんだ。  俺は衝動のままにマスクを引き下げ、床に放り投げた。そして、名前の華奢な肩を掴み、その薄桃色の唇を、貪るように塞いだ。  驚きに見開かれた瞳が、すぐに心地好さそうに細められ、白い腕が、俺の首に回される。  菌なんて、もうどうでもよかった。  彼女がくれるものなら、どんなウイルスだって、甘んじて受け入れよう。  この宝石が、俺だけのものであると云う証明になるのなら。  無数のノイズに満ちた世界で、漸く見つけた、俺だけの宝物。  誰にも触れさせない。誰にも汚させない。  この腕の中に閉じ込めて、永遠に俺だけのものにしておきたい。  唇を離すと、熱っぽい吐息が混じり合う。名前は潤んだ双眸で俺を見上げ、幸せそうに微笑んだ。 「臣くんの宝石は、ここに居るよ」  その言葉が、俺の世界の全てだった。  俺はもう一度、その輝きを確かめるように、深く、彼女に口づけた。


Back | Theme | Next