9.拒食症とカニバリズム | 錆びたアトリエの愛咬症。

 西陽が古びた鉄をじりじりと灼き、鈍い熱気を放つ焼却炉。今はもうもうと煙を吐くこともなく、忘れ去られたように佇むその傍らに、誰にも知られない秘密のアトリエのような空気が満ちていた。放課後の喧騒から切り離された、特別な時間が流れる場所。  真新しい、と言うには少し埃を被ったキャンバスは、まだ何も描かれていない純白を晒し、パレットの上で出番を待つ絵の具は、チューブの中でひんやりとした沈黙を守っている。その白い空白の前に、工くんは少し硬い仕草でパイプ椅子に腰掛け、けれど意識して背筋を伸ばしていた。着慣れた制服の襟を指先で僅かに緩めると、乾いた風が彼の首筋をそっと撫でていくのが見えた。無意識なのか、少し持て余したように両腕を膝の上に置き、その視線は遥か彼方の空、或いは焼却炉の錆びた肌に向けられている。わたしを殊更に避けるわけでもなく、かと言って真正面から見据えるわけでもない、その宙ぶらりんな無防備さが、却ってわたしの心を掻き立てた。 「……んで、どんなポーズすればいいんだ?」  少し照れたような、ぶっきら棒な口調で彼が問う。 「そうだね……自然体でいいよ。そこに座って、何も考えず、ただ、わたしを見ていてくれたら」  そう答えながら、わたしは年季の入った木製の筆立てから、毛先が少し不揃いになった筆を一本選んだ。パレットの上、窪みの一つに、濃い目に溶こうと決めた焦げ茶色の絵の具を絞り出す。チューブの口は少し乾いていて、"むにゅ"と鈍く歪な音を立てながら、硬い塊が押し出された。それだけで、この場の空気の密度が、温度が、ふっと変わるような気がした。まるで儀式の始まりのように。わたしはスポイトで水を一滴、また一滴と慎重に加え、筆の先でゆっくりと掻き混ぜていく。  ぐるぐる、と円を描くように。乾いて色のくすんでいた塊が、水を含んで粘度を増し、やがて艶やかな深みを取り戻していく。パレットの上で蘇る、この色。  ――ああ、そうだ。これが、彼の色だ。
名前って、さ」  不意に、彼が口を開いた。筆を進めるわたしの手元に、彼の声が届く。 「うん?」  顔を上げずに、相槌を打つ。 「俺のこと……食べるみたいに見てくる時、あるよな」  その言葉に、思わず筆の動きが止まった。彼の声に、非難の色はない。ただ、純粋な疑問、或いは少しの戸惑いのような響きがあった。 「……ふふ。工くん、それは"カニバリズム"って言いたいの?」  冗談めかして返すと、彼は慌てたように言葉を継いだ。 「いや、なんか、そういう変な意味じゃなくて! もっと、こう……じっと見てくるって言うか……。偶に、刺さるくらい真っ直ぐ見てくるじゃん」  わたしはゆっくりと顔を上げ、彼の目を見た。絵の具で再現しようとしている、その深い焦げ茶色の瞳。曇りなく澄んでいて、わたしの内側まで見透かしてしまいそうな程、真っ直ぐだ。 「……じゃあ、それはきっと"わたしの拒食症"だね」  静かに告げると、彼は案の定、怪訝な顔で眉を寄せた。 「……は?」  わたしは筆を置き、改めて彼に向き直る。言葉を探しながら、ゆっくりと続けた。 「わたしね、時々、自分だけでは全然足りないと感じる時があるの。どんな美味しいものを食べても、素敵な服を着ても、綺麗な景色を見ても、心のどこかがずっと空っぽで、満たされない感じがする時があって。でも、不思議なのだけれど……工くんを見ていると、その空っぽだったお腹が、内側からじんわりと温かくなって、やっと"満ちる"気がするんだ」  彼が、ぐっと息を呑む気配がした。視線が揺れ、言葉の意味を探っているのがわかる。 「……ちょ、待って、それって……それって、つまり、俺のことが……」  彼の声が、期待と不安で震えている。 「うん」  わたしは真っ直ぐに彼を見つめ返し、言い切った。 「"食べたい"くらい好き、ってこと」  わたしの言葉に含まれた、余りにも直接的で、少し歪んだ比喩に、彼はすぐには反応できなかった。けれど、夕陽に染まり始めた彼の頬が、じわりと赤みを帯びていく。そして、どこか落ち着かない様子で、そわそわと椅子の上で身動ぎした。 「それって、なんつーか……名前っぽいって言うか、怖いって言うか……でも、嫌じゃない」  ぽつりと呟かれたその言葉に、わたしは胸の奥でずっと蟠っていた、ざらざらとした何かが音もなく溶けていくのを感じた。安堵、だろうか。それとも、共犯者を得たような仄暗い喜びだろうか。  そう。わたしの"拒食症"は誰にも打ち明けられず、理解もされなかった、根源的な"満たされなさ"の現れだった。  そして、工くんという存在――彼の眼差し、佇まい、その"肉体"を通して、わたしの渇いた心が潤いを取り戻すという、不器用で、少し倒錯した欲望。  それを、わたしは漸く、彼自身に言葉にして伝えることができたのだ。
名前、描くの上手いんだな。……俺のこと、そんな風に見えてたんだ」  彼が呟いたのは、絵がまだ途中、キャンバスの半分ほどしか、彼の輪郭が立ち現れていない段階でのことだった。それでも、そこに描かれつつある彼の表情は、鏡に映る彼自身よりも、もっと生々しく、彼らしい何かを捉えているように、わたしには思えた。 「違うよ。そう見えるんじゃなくて」  わたしは筆先で、彼の顎のラインを慎重になぞりながら、囁くように言った。 「工くんが、わたしの心に、わたしの視線に、"食べられて"くれているから、こうして描けるの」 「食べられて……って、やっぱり怖いよ、それ」  そう言いながらも、彼の口元には苦笑とは違う、穏やかな笑みが浮かんでいた。揶揄でも、からかいでもない。ただ、わたしの奇妙な愛情表現を、そのまま受け止めてくれているような、安心し切った響きがそこにはあった。  筆先で、彼の肩のラインをなぞる。制服の布地の硬さの下にある、確かな骨格と筋肉の感触を想像しながら。  この感情は、決して狂気なんかじゃない。  これは――そう、"愛の摂取"。わたしが生きる為に、満たされる為に、必要な行為なのだ。
 日は更に傾き、焼却炉の影が地面に黒々と長く伸びて、わたし達の足元まで届き始めた頃。アトリエの空気も、夕暮れの匂いを深く吸い込み始めていた。 「……なあ、名前」  不意に、彼が再び真剣な声色で呼び掛けた。 「うん?」  パレットの色を混ぜる手を止め、彼を見る。 「絵が完成したら、俺、お前に"キス"してもいい?」  余りにも唐突な、そして直接的な申し出に、思わず持っていた筆を取り落としそうになった。心臓が一度、大きく跳ねて沈黙し、次の瞬間には耳元で激しく脈打ち始める。夕陽の所為だけではない熱が、頬に集まるのを感じた。 「……どうして?」  辛うじて、それだけを問い返す。 「それがさ……」  彼は少し視線を彷徨わせ、それから意を決したように、わたしを見つめ返した。 「なんか、俺も今、お前のこと、食べたいなって思ったんだ」  ふ、と彼の口元が綻んだ。少し拗ねたような、それでいて悪戯っぽい、でも瞳の奥には紛れもない真剣な光を宿して。  わたしはもう、何も言えなかった。言葉を探す代わりに、ただ、ゆっくりと頷くことしかできなかった。  ――そうだね。きっと、これがわたし達の"カニバリズム"の形なんだ。  互いの心を満たすことができるのは、互いの存在だけなのだという、甘く、そして、少し狂おしい程の飢餓感。  わたしのパレットの上では、まだ絵の具は完全には混ざり合っていない。キャンバスの上の彼も、まだ完成には程遠い。  けれど、今、この瞬間だけは、確かに感じていた。ずっと空っぽだったわたしの心に、彼という存在が温かいインクのように静かに、深く染み込んでくるのを。  焼却炉の傍らで始まった、午後の再生の儀式。  忘れられた焼け跡の上で、わたし達は言葉で、視線で、そして触れ合う寸前の息遣いで、  確かに、少しずつ、互いを"食べて"いた。


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