10.アイの輪切り

※この作品には、
倒錯的な愛情表現やグロテスクな描写が含まれます。
苦手な方はご注意ください。

表層だけじゃ足りない。
君の心も、瞳も、感情も、全部を分解して、
一つずつ確かめていく。

 絵が完成したのは、あの焼却炉の傍らでの約束から一週間後の、秋色が深まり始めた午後だった。  且てイーゼルを立てた焼却炉の傍はもう使わず、今日の舞台は、校舎裏の更に奥まった場所にある、忘れ去られた備品倉庫の影。錆びた蝶番が軋む音を立てそうな灰色のブリキの外壁には、生命力の強い蔦が緑の葉脈をびっしりと這わせ、半分開け放たれたまま打ち捨てられたような扉が、時折吹く風を受けて鈍く揺れている。秘密の儀式に相応しい、ひっそりとした聖域のようだった。  陽光はまだ力を持っていたけれど、真上からではなく、西からの斜光が地面を淡い黄金色に染め上げていた。倉庫の影との境界線がくっきりと引かれ、その光の中では、空気中に漂う微細な埃までもがきらきらと輝き、光そのものが粒子になったかのように舞っていた。わたしはその光のカーテンを背に、工くんの前に立つ。腕の中には白い布で覆われた、完成したキャンバスをしっかりと抱えていた。布越しに伝わる、僅かな凹凸。わたしの心臓の音が、やけに大きく聞こえた。 「……見せるね、工くん」  わたしの声は、自分でも驚くほど静かに響いた。 「お、おう……! えっと、なんか……めちゃくちゃ緊張するな……」  彼は妙に背筋を伸ばし、視線を泳がせたかと思うと、何故か制服の第二ボタン辺りに手を伸ばし掛け、はっと気づいたように慌ててその手を下ろした。差し出される覚悟を決める前の、一瞬の躊躇いみたいに見えた。  わたしは思わず微笑んで、小さく首を横に振る。 「そんなに構えなくていいよ。ただ、見てくれれば。工くんが、どう感じるか、知りたいだけだから」  工くんが、こくりと喉を鳴らし、一つ深い呼吸をした。わたしも無意識の内に、それに合わせて息を整える。指先が少し冷たい。  そして、わたしはゆっくりと祈るような気持ちで、キャンバスを覆う布を滑らせた。
 そこに現れたのは――  紛れもなく、工くんだった。  けれど、彼の顔は――果実が熟れ切って断面を晒すかのように、幾重にも輪切りにされていた。  いや、それは決して物理的な血や肉を想起させるような、グロテスクで残酷な描写ではない。寧ろ、驚くほど静謐で、透明感すらあった。けれど、見る者の心の奥底をぞくりと撫でるような、剥き出しの精神的な断面図が、そこには克明に描き出されていたのだ。  光に翳したスライスオレンジのように、或いは年輪を重ねた樹木の断面のように、彼の内面を構成するであろう感情の輪郭が、透明な層となって重なり合い、静かに、しかし揺るぎない確かさをもって、キャンバスの上に存在していた。  視線の中心にあるもの。彼の瞳。それは真正面からこちらを見つめ返し、射抜くように真っ直ぐだった。その深い色の奥底には、ただの優しさだけではない、もっと複雑な光が揺らめいていた。疑念も、苛立ちも、はにかみも、戸惑いも――彼の中で渦巻くであろう全ての感情が混ざり合い、濾過されることなく、内側から透けて見えるような、危うい程の色彩を放っていた。  輪切りにされた"eye(目)"が、わたしを見つめ返している。  輪切りにされた"愛(アイ)"、或いは"わたし(I)"が、静かにわたし自身を指差していた。
「………………」  沈黙が、重く、けれど心地よく、二人の間に降りた。工くんはただ言葉を失ったように、黙って目の前の絵を見つめていた。大きく見開かれた瞳は、けれど恐怖に歪むのではなく、ただ純粋な驚きと、何かを探るような真剣さを湛えている。眉間に皺は寄っていない。怖がっているわけでも、ましてや笑っているわけでもない。その静かな表情の下で、押し寄せる感情と、それを表現する為の適切な言葉を、必死に手繰り寄せようとしているのが、痛いほど伝わってきた。 「…………俺の顔、スライスされてる……?」  長い沈黙の末に漸く絞り出された一言が、それだった。余りにも率直で、少し間の抜けた響きに、わたしは笑いそうになるのをぐっと堪えた。でも、その問いは核心を突いていた。わたしはゆっくりと頷いた。 「うん。だって、工くんは、いつもわたしの心の中で、こうやって分解されているから」 「……分解?」  怪訝そうな声に、わたしは続ける。 「そう。何度も、何度も。飽きることなく。工くんの顔の輪郭、目の色、声の響き、指の形、髪の匂い……一つひとつをバラバラにして、それぞれをじっと見つめて、それでもまだ足りなくて……もっともっと近づきたくて、その奥の奥まで覗き込みたくて、君の全部を知りたくて堪らなくなるんだよ。だから、輪切りなの」  工くんは絵から視線を外さないまま、自分自身に言い聞かせるように、静かに呟いた。 「……じゃあこれ、"俺を食べる"って、名前が言ってたのは、そういう意味だったんだな」 「うん」  わたしは彼の隣に寄り添うように立ち、自分の描いた絵をもう一度見つめた。 「表層だけじゃなくて、その内側まで、骨の髄まで。ちゃんと何度も噛み締めて、じっくりと味わって、時間を掛けて咀嚼して、そうして初めて、わたしの一部になってくれる気がするの。……わたしにとって、"愛する"というのは、多分、そういうことなんだと思う」  次の瞬間、工くんがぽつりと、殆ど吐息のような声で呟いた。 「……すげぇ、恥ずかしい。けど……なんか、ちょっと泣きそうだ」  その声は微かに震えていた。わたしは彼の横顔を盗み見る。夕陽に照らされた彼の頬は、少し赤らんでいるように見えた。そして、わたしは自分の描いた絵――"輪切りの工くん"――に視線を戻す。絵の中の彼は、矢張りどこまでも優しい目をしていた。心の奥底をそのまま引き摺り出して晒したような、痛々しい程に真摯な眼差しで、静かにこちらを見ていた。 「工くん」 「ん?」  彼の声は、まだ少し掠れていた。 「食べられるの、怖い?」  わたしの問いに、彼はほんの少しの間、逡巡するように間を置いた。それから、ゆっくりと顔をこちらに向け、真っ直ぐな、覚悟を決めたような目でわたしを見た。 「……正直、怖い。けど……名前になら、喰われてもいいって思う」  その言葉は、重く、けれど確かな響きを持って、備品倉庫のひんやりとした壁に、そして蔦の絡まる薄暗い影の中に、深く深く染み込んでいった。まるで、二人の間に交わされた、永遠の契約のように。
 わたしの腕の中のキャンバスは、もう真っ白な空白ではない。工くんの色で、彼の存在で満たされている。  けれど、これは決して"完成"ではなかった。  これは、今、この瞬間も変化し続ける、"生きている途中"の記録なのだ。  わたしはこれからも、彼の輪郭を、その内面を、飽くことなく何度も何度も描き直していくのだろう。  その目の奥に潜む光を。  その愛の、決して単純ではない核の部分を。  そして、彼の全てを余すことなく自分の中に取り込み、わたし自身の一部とする為に。  それが――わたしにとっての、『アイの輪切り』。  わたし達だけの、愛の形なのだ。


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