
教室の、一番隅っこ。窓際の、今は誰も使っていない埃っぽいロッカーの下に、何かがぽつんと落ちているのが見えた。
拾い上げてみると、それは小さなチューブ型の絵の具だった。ラベルの色名は掠れて読めないけれど、色は分かる。焦げ茶と深い藍色を混ぜ合わせたような、不思議な色。光の加減によっては、雨に濡れた鳥の羽根のようにも見える、複雑で、少し翳りのある色合い。持ち主を示す名前はどこにも書かれていない。なのに、わたしはそれを見つけた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、妙に懐かしい気持ちになったのだ。
――ああ、これは、工くんの色だ。
何の根拠もなく、そう直感した。あの、彼の地肌に似た、少しだけ褐色を帯びた色。炎天下の部活帰り、差し入れの麦茶を飲み干して、汗で光る額を拭う、あの姿。ぶっきら棒で、どこまでも真面目で、そして時々、信じられないくらい不器用で。
けれど、そんな彼は今――
「……わたしの顔を見てくれないんだ」
昼休み。賑やかな教室の喧騒から逃れるように窓の外を眺めながら、わたしは誰にも聞こえないくらい小さな溜息を、そっと空気に溶かした。
原因は、痛いほど分かっている。数日前、わたしがほんの少し、揶揄うような響きを込めて言ってしまった、あの不用意な一言。それがきっと、彼の真っ直ぐな心の中で、どう処理していいか分からないまま、硬い塊みたいにぐるぐると居座って、未処理のまま固まってしまっているのだ。
――『工くんが、わたしのことを好き過ぎるの、ちょっと可愛いね』
本当に、悪気なんて欠片もなかった。寧ろ、彼の視線が常にわたしを追っていること、その分かり易い熱量も、感情表現のぎこちなさも、その全部が堪らなく愛おしくて、嬉しかったのだ。だから、つい、花びらに軽く触れるくらいの気持ちで、くすくすと笑ってしまった。ただ、それだけだったのに。
今の工くんは、わたしの目を頑なに見ようとしない。話し掛ければ、短くても返事はくれる。態度が急に冷たくなったとか、そういう分かり易い変化ではない。けれど、確かに、彼とわたしの間には、目に見えない薄い壁のような、微妙な距離が出来てしまった。
……まるで、蓋を開けっ放しにして空気に触れさせてしまった、あの固まった絵の具みたいに。
パレットの上で、思ったように色が伸びてくれなくて。水で溶いてもざらついた粒子が残ってしまって、どんなに綺麗な色を隣に置いても、描くもの全てがどこかくすんで見えてしまう。わたしが軽い気持ちで放ってしまった言葉の、小さな、けれど鋭い棘が、彼の柔らかくて傷付き易い場所を、確かに刺してしまったのだと、わたしは漸く気づいた。後悔が、じわりと胸に広がっていく。
だから、決めた。今日、放課後。
わたしは、或るささやかな"作戦"を決行することにしたのだ。この固まってしまった関係性を、もう一度、鮮やかな色で描き直す為に。
「――な、なんだよ、ここ……! 誰も居ねぇじゃん……」
放課後。わたしに半ば強引に連れてこられた工くんは、人気のない旧校舎の片隅で、戸惑いの声を上げた。白鳥沢の敷地は広い。ここに、且て使われていた古びた"焼却炉"の残骸が、忘れられたようにひっそりと存在していることを知っている生徒は、もう殆ど居ないだろう。煙突はとうに撤去され、分厚い鉄の扉も錆び付いて、もう二度と開くことはない。ただ、"且て、ここに焼却炉があった"という記憶だけが、雑草に埋もれるようにして残された場所。
その、打ち捨てられた焼却炉のすぐ脇に、わたしは小さなイーゼルと真っ白なキャンバス、そして使い古した絵の具箱と、折り畳みの椅子を二脚、並べておいた。昼休みの短い時間に、美術部の友達にこっそり頼んで運び込んだ、わたしのささやかな"舞台"だ。
「工くん。お願いがあるのだけれど……モデルになってくれないかな」
「……は? モデル?」
唖然として、大きな目を更に丸くする彼の顔が、少しだけ面白くて、思わず笑みが零れそうになる。けれど、わたしは真剣な表情を崩さない。これは、わたしにとって、とても大事な試みなのだから。
「うん。わたし、今日、どうしても工くんを描きたいの」
わたしの真剣な眼差しに、彼は少し驚いたように息を呑み、そして――漸く、わたしの顔を、真っ直ぐに見た。
――久し振りに、目が合った。
その瞬間、どきり、と心臓が跳ねる。やっぱり、工くんの瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗だ。どこまでも素直で、強い光を宿していて、余計な打算や計算を一切含まない、澄み切った透明な輝きを放っている。その瞳に見つめられると、わたしの心の中まで全部見透かされてしまうような気がして、少しだけ怖くなる。
「……俺、絵とか、美術とか、全然分かんねぇけど……でも、それ、どっかで見たことある気がするな?」
彼の視線が、イーゼルの横に置いた小さな作業机、その上に転がしておいた、あの藍色混じりの絵の具のチューブに落ちる。
「……あ、これ、やっぱり、名前が拾ったヤツか」
「うん。……なんとなく、工くんが落としたのかなって、そう思ったから」
「え? 俺、美術なんて選択してないし、絵の具も持ってないけど……」
「うん、知っている。でも、この色が、なんだか凄く工くんの色だなって感じたの。だから、どうしても拾っておきたかった」
わたしの言葉に、工くんの目が戸惑うように大きく見開かれる。わたしはゆっくりと息を吸い込み、続ける。今、伝えなければならない言葉を。
「わたし、あれからずっと考えていた。どうしたら、また工くんの、あの柔らかい心に、ちゃんと触れられるかなって」
手の中の絵の具のチューブは、矢張り少し硬くなっている。力を入れても、簡単には出てこないだろう。けれど、諦めたくはない。少しずつ、丁寧に、時間を掛けて水を足して、根気よく混ぜ合わせていけば――きっとまた、本来の滑らかさと、美しい色を取り戻してくれる筈だから。
「だからね、今日のわたしは、工くんにとっての"水"になることにしたんだ」
「は、はあ……? 水……?」
訳が分からない、という顔で首を傾げる工くんに、わたしは小さく頷く。
「うん。この固まってしまった絵の具と、工くんの心を、もう一度優しく解いて、ちゃんと綺麗な色を塗っていきたいの。だって……わたし、工くんのことが、本当に好きだから」
言い切った瞬間、彼の頬を、傾き掛けた夕陽が、ふわりと照らした。
赤みを帯びた黄金色の光が、彼の少し地黒の肌の輪郭を、柔らかく、優しく縁取る。それはまるで、一枚の古い絵画の中に迷い込んだかのような、幻想的な光景だった。その光の中で、彼は少しだけ照れたように視線を彷徨わせ、そして、どこか不器用に、けれど確かに唇を開いた。
「……あのさ、俺……」
そこには、今日までの、どこかぎこちなかった彼ではなく、少し照れたような、けれど確かに、はにかむように笑っている彼の顔があった。
「名前の、あの言葉……本当は、めちゃくちゃ嬉しかったんだよ。すげー、嬉しかった。ただ……なんて返したらいいか分かんなくて、上手く言えなくて、……それで、つい照れて、……なんか、拗ねてた……。ごめん」
そう言って、彼はわたしのすぐ隣の椅子に、どさりと腰を下ろした。少しの汗の匂いと、放課後のグラウンドの土の匂いが混じった、夕暮れの気配を纏った風が、ふわりと二人の間を通り抜けていく。
「……モデル、ちゃんとやるからさ。だから……その、今度、絵が完成したら、俺にも、ちゃんと見せてくれよな」
その言葉を聞いて、わたしは、ふっと息をつくように笑った。
――うん。わたしの中で、いつの間にか固く強張っていた色も、今、少しずつ、温かい水に溶けて、解け始めたような気がした。
キャンバスはまだ真っ白だ。けれど、これからどんな色で、彼の、そしてわたし達の関係を描いていけるのか、少しだけ楽しみになっていた。