
- 完璧じゃない君を、音にする -
※兄貴が登場します。
わたし、苗字名前の指先は、純白の五線譜上で迷子になっていた。
工くんの応援歌。世界で一番格好良い、エースの為の曲。そう安請け合いしたものの、いざピアノの前に座ってみれば、一つの音符すら書き記すことができない。鍵盤は沈黙を守り、わたしの無力さを静かに告発しているようだった。
体育館のフロアを焦がす、シューズの摩擦音。相手コートにボールが突き刺さる、炸裂音にも似た衝撃。勝利を確信し、天を衝くように突き上げられた拳。工くんを構成する音と情景は、どれもが暴力的で、鮮烈で、わたしの小さな箱庭には、存在しない種類の熱を孕んでいた。どうすれば、繊細なハーモニカの音色に変換できるのだろう。彼の苛烈なまでの輝きを、この手で掬い取れるのだろうか。
インスピレーションとは、天啓のように降ってくるものではない。自ら泥の中に分け入り、手探りで探し出す砂金みたいなものだ。わたしは意を決し、白鳥沢学園の体育館へと、密かに足を運ぶことにした。
二階のギャラリー、最も奥まった場所からコートを見下ろす。そこは、わたしの知らない工くんの世界だった。チームメイトと交わす荒削りな言葉、鷲匠監督から飛ぶ雷鳴めいた檄、ボールだけを見つめる、飢えた獣のような眼差し。お家のソファで他愛ない話をする時の、少しだけ気の抜けた表情とは、まるで別人だった。
練習試合が始まり、工くんのスパイクが炸裂する。しなやかな肢体が弓形に撓り、蓄えられた全てのエネルギーが、一点に集中して解き放たれる。一連の動作は、一つの完成された芸術作品のように美しかった。けれど、それだけではない。セッターの白布さんから厳しい一言を投げ掛けられ、悔しそうに唇を噛む横顔。僅かにレシーブを乱し、床に突っ伏して呻く姿。わたしが見たのは、完璧な次期エースではなく、藻掻き、足掻き、それでも前へ進もうとする、一人の未熟な少年の姿だった。
強いだけじゃない。脆くて、不器用で、どうしようもなく直向き。
発見は、わたしの心を揺さぶった。けれど、同時に更なる混乱の渦へと突き落とす。工くんの持つ光と影、両方を織り込んだメロディとは、一体、どんな形をしているのだろう。思考は煮詰まり、出口のない迷宮を彷徨う。
数日が過ぎた。五線譜は未だ雪原のように白いままだった。
気分転換にマンションの庭へ出ると、熟れ過ぎた無花果が、枝からぽたりと落下するのが見えた。地面に叩き付けられた果実は柔い果皮を破り、濃紫色の果肉を無残に晒している。甘く、腐敗し掛けた匂いが湿った土の香りと混じり合い、鼻腔を擽った。
熟れて、落ちて、ぐちゃり。
その光景が、脳髄に焼き付いて離れない。完璧な円を保っていた実が、自身の重みに耐え切れず、原型を留めない程に崩れ落ちる様。それは決して美しいものではない。けれど、目を逸らせない位に生々しく、官能的だった。
――これだ。
雷に打たれたような衝撃が、全身を駆け巡った。わたしが探していたのは、これだったのだ。勝利の甘美な果汁だけではない。敗北し、泥に塗れ、無様に砕け散る瞬間のどうしようもない衝動。それこそが、五色工と云う人間の、最も根源的な輝きに繋がっている。
わたしは防音室へ駆け戻ると、憑かれたようにピアノに向かった。指が鍵盤の上を滑る。今まで沈黙していた五線譜が、堰を切ったみたいに音符で埋め尽くされていく。力強い長調と、胸を掻き毟る短調が目まぐるしく入れ替わる旋律。工くんの心、そのものだった。
だけど、曲の最も重要な部分、魂を吹き込むべきクライマックスで、わたしの手はぴたりと止まった。工くんの全てを受け入れ、肯定する、絶対的な音が足りない。彼の渇きを癒し、翼を与える、最後のピースが見つからなかった。
「やあ、我が愛しの芸術家よ。創作の苦しみに、身を焦がしているようだね」
ぬるり、と背後に現れたのは、兄の兄貴だった。今日のTシャツには、胸元に大きく『スランプは只の休憩時間』と書かれている。
「物語の主人公が壁を乗り越える時、本当に必要なものは何かな? 派手な奇跡や、ご都合主義の力じゃない。たった一つ、決して譲れない想いだよ。名前にとっての、工くんの『譲れない想い』は何だい?」
兄さんの言葉が、わたしの心に深く突き刺さった。工くんの譲れない想い。
牛島さんを超えるエースになると云う、燃えるような渇望。そして――。
『俺の人生のエースは、お前だけだ』
あの夜、わたしの耳元で囁かれた、不器用だけれど、何よりも誠実な誓い。
そうだ。工くんの世界は、バレーボールだけでは完結しない。わたしが居て、初めて完成する。二つの欲求が重なり合った時、彼の魂は最も強く輝くのだ。
見つけた。最後の音を。
わたしは、兄さんに礼を述べるのも忘れ、五線譜に結びの旋律を刻み込んだ。
俺、五色工は、人生で最も厳粛な審判の時を待っていた。
名前に招かれた苗字家のリビングは、いつもより空気が張り詰めているように感じられる。ローテーブルを挟んで向かいに座る彼女の手には、銀色に光る複音ハーモニカが握られていた。
「聴いてくれる? 工くんの為だけの曲」
慎重に頷くのが精一杯だった。心臓が、全国大会の決勝戦、マッチポイントの場面よりも激しく脈打っている。
名前が、そっと楽器を唇に当てる。深く息を吸い込む気配の後、最初の音が静寂を切り裂いて放たれた。
どこか心許なく、彷徨うようなメロディだった。レシーブを弾かれ、コートに独り取り残された時の心細さ。自分の未熟さを突き付けられた時の、胸を抉る悔しさ。俺の弱さが見透かされているみたいだった。
だが、曲調は徐々に熱を帯びていく。スパイクを打つ為に跳躍する瞬間の、全身の血が沸騰するような高揚感。ボールが手の平に吸い付く感触。相手のブロックを打ち抜いた瞬間の、脳髄が痺れる快感。俺の全てが音色になっていた。
そして、クライマックス。
一度、全部の音がぴたりと止む。永遠にも思える静寂の後、奏でられたのは、今までのどのフレーズとも違う、驚く程にシンプルで、温かいメロディだった。俺が、名前に「好きだ」と告げた刹那の、自身の心音そのものだった。
バレーへの渇望と、名前への恋情。二つの想いが溶け合い、一つの強大なうねりとなって、俺の魂を根こそぎ揺さぶる。曲は夜明けの光のような、希望に満ちた輝かしい音色で、高らかに終わりを告げた。
演奏を結んだ名前が、静かに視線を上げる。俺は言葉を失い、只、呆然と彼女を見つめていた。涙が頬を伝う感覚もなかった。
「……なんで、分かるんだよ」
掠れた声で、やっとそれだけを絞り出す。俺の心の奥底、誰にも晒したことのない柔い部分まで、この曲は容赦なく暴き立てていた。
気づけば、俺は彼女の華奢な身体を、壊れ物を扱うようでいて、力強く抱き締めていた。名前の甘くて清潔な香りが、鼻腔を満たす。
「お前の音、全部……俺の中に、在った」
「当たり前だよ」
腕の中で、名前が誇らしげに微笑んだ。
「わたしは、工くんの、世界で一番のファンだから」
その宣言が、最後の引金だった。
俺の内側で、堪えに堪えていた感情が、熟し切った果実のように弾けた。ぐちゃり、と音を潰して、理性の皮が破れる。もう、言葉は要らなかった。只、目の前の愛おしい存在を、俺の全てで欲していた。
「名前」
俺は彼女の耳元で、祈るように囁いた。
「……今夜、泊まっていっても、いい?」
名前は黙って、俺の背中に腕を回し、そっと力を込めた。それが、全ての答えだった。
俺達の地図に記された新しいセレナーデは、まだ始まったばかりの、甘く激しい夜への序曲だった。
