
- その夜、俺は彼女の音になった -
俺、五色工が放った渾身の一言は、試合終了間際のサービスエースみたいに、静寂のコートへ突き刺さった。
「……本当に、今夜、泊まっていっても、いい?」
思い掛けない程に掠れた声だった。複音ハーモニカを膝に置いた名前は、夜の凪いだ海を思わせる双眸で、俺をじっと見つめ返す。肯定も否定もない、純粋な観測者の視線。沈黙が永遠にも感じられる数秒の間に、脳内では勝利のファンファーレと敗北のブザーが、けたたましくも交互に鳴り響いていた。
軈て、名前は黙って、こくんと小さく頷いた。
刹那、世界から全ての音が消え、代わりに内側から沸き立つ歓喜が、全身の細胞を隅々まで満たす。やった。俺は人生で最も重要な試合に勝利したのだ。
「よっし――」
ガッツポーズと共に、天を衝かんばかりに立ち上がり掛けた俺は、次の瞬間には、現実と云う名の完璧な三枚ブロックに叩き落とされた。
泊まる? どうやって?
俺は寮生だ。着替えの一枚すら持参してない。歯ブラシも、タオルも、何もかもの私物がない。抑々、寮の門限が近い。無断外泊がバレれば、寮監の雷が落ちるどころの話ではない。バレー部から叩き出される可能性だってある。
勝利の熱狂は急速に冷却され、代わりに氷のような焦りが背筋を駆け上った。顔面から、血の気が引く。さっきまでの、勇ましい次期エースの姿はどこへやら、今の俺は、初めて公式戦のコートに立った時よりも、遥かに無力で、哀れな一年坊主だった。
「……あの、さ、名前。やっぱり、今のは……」
「大丈夫だよ」
俺が情けない撤退宣言を口にするよりも早く、名前が凛とした声で遮った。彼女はいつの間にか立ち上がり、俺のスマートフォンを手に取ると、慣れた手つきで、母さんの連絡先を表示させる。
「工くんのお母様に連絡してもらうから。ご実家の急用で、どうしても帰れなくなった、って。兄さんも口裏を合わせてくれる」
「え、でも、そんな……!」
「問題ない。工くんは、ここに居ればいい」
事もなげに言い放つ横顔には、微塵の揺らぎもなかった。絶対的な肯定が、俺の胸に巣食っていた不安の靄を、いとも容易く吹き払う。そうだ。今、俺は"苗字名前"と云う名の聖域に居るのだ。俗世のルールなど、ここでは何の意味も持たないのかもしれない。
「着替えは、兄さんのを借りよう。工くんと、そんなに背丈は変わらないから」
未来の義兄から、私物を拝借する。その提案に、別種の緊張が腹底からせり上がるが、最早、俺に拒否権などなかった。名前に手を引かれるまま、リビングを後にする。これから始まる夜への期待と畏怖が、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、心臓を有り得ない速度で脈打たせていた。
案内されたバスルームは生活感と云うものが希薄で、高級ホテルのようだった。ガラス張りのシャワーブースの隣、洗面台に並ぶ来客用のアメニティ類はどれも、俺の知らないブランド品ばかりだ。名前が「タオルはこれを使って」と差し出した一枚は蕩けそうな程に柔らかく、ふわりと甘い香りがした。
「……じゃあ、借りる」
扉を閉め、一人きりになった空間で、俺は大きく息を吐いた。湯気に霞む鏡に映った顔は、茹蛸みたいに真っ赤だった。シャワーヘッドから降り注ぐ湯に身を委ね、目を鎖す。瞼の裏に浮かぶのは、先程の演奏と、俺を見つめる静かな瞳。名前の音は、まだ耳の奥で鳴り響いている。
備え付けのシャンプーを手に取ると、名前の髪と同様、蜜を含む花のような香りがした。これで頭を洗えば、俺も彼女と同じ匂いになるのだろうか。そんな風に考えただけで、身体の芯が妙に熱くなる。駄目だ、落ち着け、五色工。お前はエースだ。こんな簡単に浮き足立っていては、牛島さんを超えることなど、夢のまた夢だぞ。
十五分程で風呂を済ませ、バスタオルを羽織って脱衣所へ出た時だった。
「やあ、未来の義弟殿。風呂上がりの一杯は格別だろう?」
ぬるり、と音もなく開いた扉の隙間から、兄貴さんが上半身を覗かせた。手には冷えた麦茶の入ったグラスが握られている。彼が着ているTシャツの胸元には、大きくこう書かれていた。
『お泊り保育』
「……っ、兄貴さん!」
「うん、兄貴さんだよ。妹から、話は聞いている。さあ、風邪を引く前に、これを着るといい」
そう言って、彼が差し出したのは、畳まれたチャコールグレーのスウェットと、新品の下着だった。俺は反射的に受け取り、「ありがとうございます」と蚊の鳴くような声で礼を述べた。
「気にすることはないさ。君はもう、家族みたいなものだからね。だが、名前を泣かせたら、俺の物語の主人公にして、愛も夢も希望もないディストピアを、永遠に彷徨わせる呪いを掛けるから、そのつもりで」
にやり、と悪戯っぽく笑うと、兄貴さんは嵐のように去っていった。残された俺は、手の中の着替え一式と、自分の置かれた状況を改めて認識し、眩暈がしそうだった。この家は色々な意味で規格外過ぎる。
スウェットに袖を通してみると、驚く程、身体に馴染んだ。まるで、俺の為に誂えられたみたいだ。少しだけ香る柔軟剤に、苗字家のテリトリーに侵入している事実を突き付けられる。
俺は覚悟を決め、名前の待つ部屋へと向かった。
ノックをすると、どうぞ、と静かな許可が返る。扉を開けた先は、間接照明の柔らかな光に満たされた、彼女だけの箱庭だった。アンティークのドレッサー、窓辺で揺れるガラスのテラリウム。全てが主の清廉な魂を、そのまま具現化したかのようだ。
名前は天蓋付きのベッドの縁に腰掛け、俺を迎えた。ナイトウェアに着替えた彼女は、昼間の姿とは違う、どこか無防備な雰囲気を纏っている。
「髪、濡れたままだね。こっちに来て」
手招きされ、俺は操り人形の如く、名前の前へと進み出た。床のクッションに座るよう、促されるがままに従う。背後から、ドライヤーの低い作動音が聞こえ始めた。
温かい風と共に、名前の細い指が、俺の髪を優しく梳く。その感触は、今まで経験したことのない種類で、頭皮から全身へと、甘い痺れが広がるようだった。彼女の吐息が近く、耳元に掛かる。シャンプーの香りが混じり合い、俺の思考回路は完全にショートした。
心臓が、肋骨の檻を内側から激しく叩いている。煩い。鼓動が、名前に聞こえてしまったら、どうしよう。
俺の人生で、これ程までに、ぐうの音も出ない状況があっただろうか。