
※兄貴が登場します。
俺、五色工の脳細胞は、バレーボールと苗字名前、二つの要素によって、九割以上が占有されている。練習中は球の軌道と、相手ブロックの指先だけを追い、ひとたびコートを離れれば、名前の微笑みや声の響きが、思考の殆どを侵食する。最早、抗う術のない生理現象に近かった。
体育館の床を叩く、ボールの衝撃音。チームメイトの汗が蒸発して立ち昇る熱気。鷲匠監督の雷鳴めいた檄。それら全てが、俺の肉体を構成し、精神を鍛え上げる。だが、その喧騒の合間に、ふと記憶の断片が、泡のように浮かび上がった。
「そうだ、工くん。少し待っていて。見せたいものがあったんだ」
数日前、苗字家のリビングで聞いた、あの言葉。
結局、『身体地図』なる禁断の書物を巡る一連の騒動で、話題は雲散霧消してしまった。一体、何だったのだろう。名前が見せようとしていたものは。
思考は一度根を張ると、厄介な蔓草のように、俺の脳内をあっと言う間に覆い尽くす。
見せたいもの。その甘美な響きは、先日までの経験と結び付き、俺の想像力をあらぬ方向へと暴走させた。
(ま、まさか……! 俺が選んだ真珠色のシルクとは別に、名前が元々愛でていた、あの雪の結晶のようなレース……。或いは、俺の知らない、もっと……もっと布面積の少ない、何かが……!?)
考えただけで、全身の血液が沸騰し、顔面に集まるのが分かった。マズい。練習中にこんな邪念を抱いていたら、牛島さんを超えるエースへの道が遠退く。俺はぶんぶんと首を振り、乱れ飛ぶ妄想をスパイクで叩き潰すように、目の前のボールに意識を再集中させた。
だが、一回でも点火した導火線の火は、そう簡単には消えてくれない。
その日の放課後、俺の足は吸い寄せられるように、苗字家のマンションへと向かっていた。確かめずにはいられない。胸に巣食った巨大なクエスチョンマークを解消しなければ、今夜は眠れそうになかった。
招き入れられたリビングは、いつものように静かで、穏やかな空気が流れている。名前が淹れてくれたダージリンの香りは、俺のざわつく神経を僅かに宥めてくれた。ソファに並んで腰を下ろし、他愛もない会話を交わす。練習のこと、授業のこと。だけど、俺の意識は本題を切り出すタイミングばかり窺っていた。
「……あの、さ、名前」
「うん?」
手許の文庫本から視線を上げた双眸が、俺を静かに捉える。夜の湖を思わせる眸に見つめられると、用意していた言葉が咽喉の奥に張り付き、中々出てこない。
「この間……その、クローゼットに……俺に、見せたいものがあるって、言ってたけど」
「ああ、そんなこともあったね」
名前は事もなげに頷くと、ぱたんと本を閉じた。忘れていた用事をふと思い出したかのような、あっさりとした反応だ。俺との温度差が、一人で勝手に舞い上がっていた心を、無性に掻き乱す。
「あれは、結局、何だったんだ?」
意を決して尋ねると、名前は少しだけ考える素振りを見せた後、ふふ、と悪戯っぽく微笑んだ。
「気になる?」
「き、気になるに決まってるだろ!」
食い気味に返す俺の剣幕に、名前はくすくすと肩を揺らした。
「大したものじゃないよ。でも、工くんがそんなに言うなら」
そう言って、名前はソファから優雅に立ち上がった。俺の心臓が、試合の最終セット、デュースの場面よりも激しく脈打つ。彼女は迷いのない足取りで自室へと向かい、数分後、一つの箱を抱えて戻ってきた。
水色の、丸い帽子の箱。
見覚えのあるそれに、俺はゴクリと固唾を呑んだ。先日、『身体地図』が飛び出す原因となった、曰く付きの箱だ。
名前は、俺の隣に再び腰を下ろし、ローテーブルの上で、ゆっくりと丸箱の蓋を開けた。俺の脳内では、過去最大級の妄想が、華々しいファンファーレと共に打ち上がっていた。レースか、シルクか、サテンか。純白か、漆黒か、それとも夜明けの空の色か。思考は相手チームのサインを読み解くよりも、遥かに困難を極めていた。
軈て、蓋が完全に持ち上げられる。
薄い緩衝材に包まれ、鎮座していたのは――。
「……え?」
金属の光沢を放つ、小さな楽器だった。
長方形のフォルムに、幾つもの穴が整然と並んでいる。俺の乏しい知識で判断する限り、ハーモニカ、と呼ばれるものに違いなかった。
俺の頭の中で、壮麗なオーケストラを奏でていた妄想の回路が、チリ、と音を立てて焼き切れた。熱い。顔面が、耳が、首筋まで、燃えるように熱い。自分の欲望だけで、名前を見ていた羞恥心が、時差を伴い、全身を駆け巡った。
「……ハーモニカ?」
「うん。正確には、複音ハーモニカ、って云うんだ」
名前は宝物を扱うように、楽器をそっと両手で包み込んだ。
「どうして、これを?」
俺の問いに、名前は僅かに視線を落とす。横顔には、俺の知らない、どこか遠い過去を懐かしむ色が浮かんでいた。
「幼い頃、わたしは身体が弱くて、外で遊ぶことが、余りできなかったんだ。そんなわたしを見兼ねて、父が教えてくれたのが、これだった。小さな息でも、綺麗な音が出るから、と。一人で部屋に居ても、寂しくないように、って」
その返答は、俺が今まで知らなかった、苗字名前の輪郭をなぞるみたいだった。誰よりも美しく、何にも縛られていないように見えて、実際は小さな箱庭の中で、ずっと独りで生きてきたのかもしれない。
「工くんがバレーに打ち込む音を聞いて、わたしも何かを奏でたくなった。体育館に響くシューズの音も、ボールが弾ける音も、工くんが叫ぶ声も、全部が、わたしにとっては音楽みたいだから。それに応える、わたしの音を届けたい、と思って」
それは、俺が想像していたような、官能的な誘惑ではなかった。もっと深く、純粋で、どうしようもなく切実な愛情表現だった。胸の奥が、感傷的に締め付けられる。
名前はハーモニカを唇に当て、そっと息を吹き込んだ。
流れ出したのは、どこか郷愁を誘う、温かくも切ないメロディだった。一つの音を出すと、僅かにズレたもう一つの音が重なり、美しい揺らぎを生み出す。トレモロの響きが、体育館の喧騒に慣れた耳には、酷く新鮮に聴こえ、心に沁みた。
まるで、名前自身のようだった。静かで、儚げで、でも、確かな芯の強さを感じさせる音色。彼女が孤独に過ごした時間の長さと、その中で育まれた感性の豊かさを、雄弁に物語っていた。
軈て、短い曲が終わる。残響が室内の静寂に溶けていった。
「……凄く、綺麗だった」
心の底から湧き上がった言葉を、そのまま口にした。下心なんて一欠片もない、純粋な感動だった。俺の感想に、名前は嬉しそうに目を細める。
「良かった。今度は、工くんの好きな曲を練習してみようかな」
「俺の好きな曲……?」
不意な提案に戸惑っていると、ぬるり、とリビングの扉が音もなく開いた。
「やあ、未来の義弟殿。愛のセレナーデは、心に響いたかな?」
そこに立っていたのは、名前の兄、兄貴さんだった。今日のTシャツには、胸元に大きく『人生は即興演奏』と書かれている。
「俺も、今の演奏に触発されて、新作の構想が湧いてきたよ。『箱庭のハーモニカと、コートの王子様』……うん、これは売れる」
「兄貴兄さん。人の気も知らないで」
僅かに頬を膨らませて窘める名前と、からからと笑う兄貴さん。その光景を眺めながら、俺は手の中に在る紅茶の熱を確かめた。
名前が見せたかったものは、俺の浅はかな妄想を遥かに超えた、温かくて、掛け替えのない宝物だった。
「なあ、名前」
「うん?」
「俺の好きな曲、考えてみたんだけど」
俺は悪戯っぽく笑い、こう続けた。
「今度、俺だけの応援歌、作ってくれないか」
冗談めかした提案に、名前はきょとんと双眸を瞬かせた。そして、直ぐに意図を察したのか、くすくすと息を鳴らして笑った。
「ふふ、考えておくね。世界で一番格好良い、エースの為の曲を」
その返事が、どんなファインプレーよりも、俺の心を昂らせた。
俺達の地図には、また一つ、新しい航路が記された。それは二人だけが知る、甘くて優しいセレナーデの調べだった。