
※兄貴の登場、
性的な事柄を連想させる表現が含まれます。
俺、五色工の細胞の一つひとつが、数日前に経験した熱の記憶を、未だ鮮明に保持していた。
あれは幻だったんじゃないか。甘美で、どこか現実離れした一夜の夢。そう疑念を抱く度に、隣で静かにページを捲る彼女の横顔が、紛れもない真実であったと、俺に告げる。
練習を終えた足で、苗字家のマンションへ向かう放課後は、最早、俺の生活に組み込まれた神聖なルーティンと化していた。座り慣れたリビングのソファは、寮の自室にあるベッドより、遥かに身体に馴染む。名前が淹れてくれたアッサムティーの芳醇な香りは、体育館で染み付いた汗と湿布の匂いを綺麗に洗い流してくれた。
「……今日の練習試合、相手校のセッターが厄介でさ。ツーアタックが巧みで、何本かやられた」
「ふぅん。それで、工くんはどうしたの?」
俺の報告に耳を傾けながらも、名前は手許から視線を上げず、相槌だけを打つ。僅かな関心の示し方だけど、俺の口は滑らかに動き出すから不思議だ。
「途中から、ブロックのタイミングをコンマ数秒、早めたんだ。そしたら、面白いようにシャットアウトできた。鷲匠監督にも『偶には頭を使うじゃねぇか』って褒められたぞ!」
「凄いね。あの厳しい鷲匠監督に褒められるなんて」
ぱたん、と小気味良い音を立て、本が閉じられる。漸くこちらに注がれた眼差しは、夜の凪いだ海を思わせ、吸い込まれそうな心地になる。あの夜を経てから、俺達の間に流れる空気は、以前よりもずっと密度を増し、穏やかな甘さを帯びるようになった。触れ合わなくても、互いの存在を確かめ合える、そんな親密さだ。
「そうだ、工くん。少し待っていて。見せたいものがあったんだ」
唐突に告げると、名前はソファから立ち上がり、自室の方へと向かった。見せたいもの。その言葉の響きに、心臓が鷲掴みにされたかの如く跳ね上がる。先日の、真珠色のシルクが脳裏を過り、顔面にじわりと熱が集まった。
(ま、まさか、今日も……!?)
期待と羞恥が入り混じった感情の奔流が、俺の思考を掻き乱す。落ち着け、五色工。お前は次期エースだ。ポーカーフェイスを保て。そう自分に言い聞かせていると、名前がドアから、ひょっこりと顔を覗かせた。
「ごめん、手を貸してくれる? 一番上の棚に仕舞った箱、踏台が壊れていて、どうしても届かなくて」
「おう、任せろ!」
俺は待ってましたとばかりに起立し、名前の後に続いた。彼女の部屋は、いつ訪れても清浄な空気が満ち、アンティークの調度品が静かに息衝いている。名前が扉を開けた先は、単なる収納ではなく、人が余裕で入れる程の奥行きを持つウォークインクローゼットだった。中へ足を踏み入れると、衣服に染み付いた清潔な香りが、ふわりと鼻腔を擽る。両側の壁には、システム化された棚とハンガーパイプが設えられ、奥には装飾的な姿見が置かれており、小さなブティックのような空間が広がっていた。
「あれだよ。あの、水色の帽子の箱」
名前が指差したのは、天井に届きそうな程の、高い棚板の上だった。成程。これは、名前の身長では厳しいだろう。俺は「楽勝だ」と胸を張り、腕を伸ばした。指先が帽子箱の縁に掛かる。だが、思ったよりも奥に押し込まれているらしく、引き出すのに少し手間取った。
「ん……っ!」
爪先立ちになり、ぐっと力を込め、丸い箱をこちらへ引き寄せた、その瞬間だった。
バランスを崩した丸箱が傾ぎ、隣に積まれていた別の箱を押し出した。スローモーションのように、一つの角張った物体が宙を舞い、重力に従って落下する。鈍い音を立てて床に落ちたそれは、俺達の足許でぱらぱらと紙を散らした。
俺の視線は、開かれた状態のページへ釘付けになった。紙面に描かれていたのは――カラー印刷の、生々しいと云うよりは解剖図に近い、男女の身体の精緻な挿絵だった。
「う、わわ……!」
意味のない音が、喉から絞り出される。全身の血液が沸騰し、顔面に集中するのが分かった。なんだ、これは。何故、こんなものが、名前の部屋から出てくるんだ? しかも、彼女の持ち物であることは明らかだ。俺の知らない一面に触れ、禁断の果実を目の当たりにしたような衝撃が、脳髄を直接揺さぶった。
「あ、それ……」
俺が人生最大級の混乱に陥っているのを尻目に、名前は落ち着き払った声で言った。
「少し前に、買ったんだ」
名前は屈み込むと、何でもないように本を拾い上げ、ぱたんと閉じた。その拍子に、俺の目に飛び込んだのは、学術書めいた、妙に意味深長なタイトルだった。
『幸福な二人の為の身体地図』
アダムとイヴを思わせる、抽象画の表紙。先程の挿絵と、目の前の情報が一つに繋がった時、俺の思考は、完璧な三枚ブロックに叩き落されたかのように、完全に停止した。
名前の横顔には、羞恥の色など微塵もなく、昔のアルバムでも眺めるかのような、穏やかな表情が浮かんでいた。その泰然自若とした態度が、俺の焦燥を余計に煽る。
「な、なんで、名前がこんなものを……!?」
「こんなもの、とは?」
「だ、だって、これは……その、所謂、え、えっちな本、だろ!?」
声が情けなく裏返った。名前はきょとんと双眸を瞬かせ、不思議そうに小首を傾げた。
「これは学術書だよ。人体の構造と機能について、とても分かり易く解説してある。わたしは、工くんのことをもっと知りたかったから、勉強しただけ」
勉強。その一言が雷鳴のように、俺の頭に轟いた。
そうか。名前は、俺の為に。俺との未来の為に、この本で知識を得ようとしていたのだ。あの夜、俺が驚く程に手慣れていた避妊具の装着方法も、学術書で学んだものだったのか。
俺が、己の欲望だけで突っ走っていた間、名前は一人、未知の世界を理解しようと、地道な努力を重ねていた。その健気さと、俺自身の配慮のなさに、胸が締め付けられる思いだった。羞恥と、申し訳なさと、どうしようもない愛おしさが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺の中で渦を巻く。
「……馬鹿だな、俺」
気づけば、俺は床に両膝を突き、項垂れていた。体育館のフロアに額を擦り付けたくなる、強烈な自己嫌悪。エース失格だ。いや、彼氏失格だ。
「工くん?」
「俺が……俺が、もっと確りしていれば、名前にこんな……こんな、一人で勉強させるような、不安な思いはさせなかったのに……!」
そうだ。俺がもっと頼り甲斐のある男なら。俺に、名前の全てを受け止め、導いてやれるだけの器量があれば。
「俺が地を這ってでも、名前の全てを理解しなきゃいけなかったんだ……!」
俺は呻くように叫び、フローリングの床に額を押し付けた。冷たい木の感触が、火照った頭を僅かに冷やす。そうだ、決めた。牛島さんを超えるエースになる為、血反吐を吐くような練習を重ねてきたじゃないか。なら、名前を世界で一番幸せにする為に、どんな努力だってしてみせる。
「見てろよ、名前……! 俺は地を這い、泥水を啜ってでも、お前の心を隅々まで理解して、生涯、名前を幸せにし続けるエースになってやる……!」
固い決意表明の後、顔を上げる。そこには、くすくすと肩を震わせる名前の姿が在った。瞳は潤み、面白くて堪らない、と云う感情がありありと浮かんでいる。
「……な、何が可笑しいんだよ!」
「ごめん。余りにも、工くんらしいから」
名前は謝ると、俺の眼前にしゃがみ込み、本の特定のページを開いてみせた。
「じゃあ、先ずは九十二頁の復習から、お願いしようかな」
俺の視線が、名前の細い指が示す先へと吸い寄せられる。そこに載っていたのは『愛を深める為の体位 四十選』と云う衝撃的な見出しと、それを図解する、これ以上なく懇切丁寧な連続挿絵だった。
「これは……!」
「わたし達、まだ試したことのない体位が、沢山あるんだ。工くんの覚悟、もう一度、見せてくれるよね?」
悪戯っぽく微笑む彼女は、俺が知るどんな女神よりも遥かに魅力的で、遥かに手強かった。
俺の顔面から、音を立てて血の気が引いていく。いや、違う。逆だ。全ての血液が、再び顔へと集中する。
地を這い進んだ先で見つけたのは、甘くて抗うことのできない、愛と云う名の新たな戦場だった。
「やあ、我が愛しの求道者達。随分と熱心じゃないか。愛の頂は、まだまだ高いと見える」
不意に聞こえた呑気な声の方を振り返ると、いつの間にか、部屋のドアが半開きになっており、兄貴さんがぬるりと上半身を覗かせていた。今日のTシャツには、胸元に大きく『継続は力なり』と書かれている。
「……兄貴兄さん。ノック、と云う文化を知っているかな」
「勿論さ。だが、未来の義弟殿の、燃え盛るような決意表明を聞いてしまったら、顔を出さずにはいられないだろう? いやあ、素晴らしい。俺も新作の構想が湧いてきたよ。『地を這うエースと、天上の女神』……うん、これは売れる」
からからと笑う兄貴さんに、名前は深々と溜息をついた。
俺はもう、何も言えなかった。只、手の中に在る『身体地図』が、二人で歩む未来を照らす頼もしい道標ではなく、これから始まる苛烈な試練を予告する、挑戦状のように映っていた。
それでもいい。
俺はもう一度、目の前の愛らしい小悪魔を見つめ、不敵に笑い返してやった。
「……望むところだ」
この戦い、絶対に負けるわけにはいかない。
エースのプライドに懸けて。