50.誤魔化すための

兄貴の登場、
性的な事柄を連想させる表現が含まれます。

 俺、五色工の眼前には、人生最大の難敵が、静かに口を開けて待ち構えていた。  それは全国の猛者達が集うコートでもなければ、鷲匠監督の雷鳴めいた檄でもない。ウォークインクローゼットの床に転がった、一冊のハードカバー。『幸福な二人の為の身体地図』と云う、大仰な書物だった。 「じゃあ、先ずは九十二頁の復習から、お願いしようかな」  俺の決意表明を軽やかに受け流し、名前が悪戯っぽく微笑む。彼女の指が示す頁には『愛を深める為の体位 四十選』と云う、脳髄を直接揺さぶる見出しが鎮座していた。地を這い進んだ先で見つけたのは、甘美で抗いようのない、新たな戦場への招待状だったのだ。  兄貴さんが嵐のように去った後、クローゼットの中には、何とも言えない静けさが漂っていた。衣類の防虫剤が放つ清潔な香りと、俺の心臓が刻むけたたましいビート。それだけが、空間の構成要素だった。 「……場所を変えようか」  沈黙を破ったのは、名前だった。彼女は落ち着き払った様子で本を受け取ると、俺に片手を差し伸べた。白く細い指が、地獄の底から救い出してくれる、蜘蛛の糸に見えた。俺は縋るように手を取り、床から立ち上がる。  寝室のソファに二人並んで腰を下ろす。名前が淹れ直してくれたカモミールティーの柔らかな湯気が、俺達の前に立ち昇っては消える。窓の外では、既に夜の帳が降り、室内の間接照明が、彼女の横顔に淡い陰影を落としていた。肩が触れ合う程の距離。学術書のページを捲る、白皙の指先から目が離せない。 「じゃあ、始めよう。勉強会を」  その言葉を合図に、俺は腹を括った。そうだ、これは勉強会なんだ。学術的探求なんだ。そう自己暗示を掛けなければ、羞恥心で心臓が爆発四散してしまう。  開かれた、九十二頁。そこに描かれた精緻な挿絵と詩的な見出しが、俺の視界に飛び込んだ。 「『竪琴を奏でる詩人』……」  呆然と呟くと、名前が隣で淡々と解説文を読み上げる。 「――パートナーの体重を効率的に支え、深い結合を促す姿勢。背筋とハムストリングスの柔軟性が求められる、と書いてあるね」  俺の脳内では、瞬時に情報がバレーボール用語へと変換された。 (これは、レシーブの基本姿勢に近いな……。重心を低く保ち、体幹で相手のパワーを受け止める……いや、違う! 全然違うだろ、俺の馬鹿!)  胸中での激しい自己ツッコミも虚しく、名前は冷静な分析を加える。 「工くんは体幹が強いから、これは安定しそうだね」 「……そ、そうか……な?」  肯定でも否定でもない、曖昧な返事しかできない俺の羞恥心メーターは、早くも危険水域に達していた。  ページが捲られる。次に現れたのは、更にアクロバティックな図解だった。 「『天に架かる虹の橋』……」 「これは、ブリッジじゃないか! バレー部の補強トレーニングでやるヤツだ!」  思わず叫んだ俺に、名前はくすりと笑みを漏らした。 「ふふ、そうかも。でも、目的は少し違うみたいだよ」  名前の言う通りだった。解説文には、俺が知るトレーニングとは似ても似つかぬ、官能的な言葉が並んでいる。挿絵の男女が、俺と名前の姿へ勝手に変換されてしまう。駄目だ、思考がショートする。  俺は羞恥心を誤魔化す為、腕を組み、学術書を読み解く研究者のように、敢えて真剣な表情を作った。 「ふむ、この体幹の使い方は、非常に合理的だ。エネルギーの伝達効率を考えた、無駄のないフォームと言える……」 「工くん」 「な、何だよ」 「顔、熟れたトマトみたいに真っ赤だよ」  無慈悲な指摘は、俺が築き上げた虚構の壁を粉々に打ち砕いた。名前を理解する為に始めた本読みが、俺の恥を白日の下に晒していく。これは何かの拷問だろうか。  幾つかの体勢を"研究"し、俺の精神が摩耗し切った、その時だった。名前がふと指を止め、俺の袖をくいと引いた。 「ねぇ、工くん。これを見て」  名前が指し示したのは、『寄り添う双樹』と名付けられた体位だった。今までに目を通したものとは違い、只、静かに横向きで抱き合う、非常に穏やかで、親密な姿勢を描いていた。 「これなら、お互いの顔を見ながらできるみたい」  その言葉に、俺の心臓が大きく脈打った。それは単なる技術的な解説ではなかった。名前の"もっと深く繋がりたい"と云う、切実な願いが込められているように聞こえたのだ。 「……試して、みたいかも」  吐息と共に囁かれた誘惑が、最後の引金だった。"勉強"の名を冠した薄いヴェールが剥がれ落ち、俺達の間にどうしようもなく生々しい熱が滲み出す。俺はゴクリと唾を呑み込み、決意を詰めて頷こうとした。  その瞬間だった。 「やあ、知の探求者達。議論が白熱しているようだね」  ぬるり、と音もなく部屋の扉が開き、兄貴さんが上半身を覗かせた。手にはお盆が握られ、湯気の霞むマグカップが二つ、行儀良く並んでいる。そして、今日のTシャツの胸元には、大きくこう書かれていた。 『百聞は一体験に如かず』  ……この人は、悪魔か何かなのだろうか。 「ココアを淹れてきたよ。糖分は脳の働きを活発にするからね」  そう言った兄貴さんは、俺達の手許、開かれた『身体地図』を事もなげに覗き込んだ。 「ほう、『寄り添う双樹』か。素晴らしいチョイスだ。これは互いの心音を聞きながら愛を確かめ合う、非常に詩的な体位だと聞く。だが、見た目以上に体軸の安定が重要で、下手に動くと、バランスを崩して腰を痛め兼ねない。先ずは体幹トレーニングから始めるべきだね」  兄貴さん、何でそんなに詳しいんだ。流れるような解説に、俺は完全に思考を凍結させた。隣では、名前が「ありがとう、兄貴兄さん」と礼を述べ、平然とマグカップを受け取っている。この兄妹、肝の据わり方が尋常じゃない。  兄貴さんが満足気に去った後。室内にはココアの甘い香りと、筆舌に尽くし難い気まずさだけが残された。俺達の間に生まれ掛けていた親密な雰囲気は、たった一枚のブロックに叩き落とされ、跡形もなく消え去っていた。  俺はがっくりと項垂れる。すると、俺の肩に、名前が優しく頭を預けた。 「……邪魔されちゃったね」 「……ああ」  「でも」と、名前は顔を上げて続ける。 「わたしは楽しかったよ。工くんとこうして、一つの本を一緒に読むの」  名前の双眸に、揶揄いの色は微塵もなかった。ただ純粋な、宝石のような喜びがきらきらと輝いている。その表情を見た瞬間、俺の中で絡まっていた羞恥心やら気まずさやらが、すっと解けるのを感じた。  俺は手許の『身体地図』を、ぱたんと小気味良い音を立てて閉じた。 「もう、これはいい」 「え?」  きょとんとする名前の手指を、俺は両手で包み込むように握った。 「こんな本に頼らなくても、俺は、名前を知りたい。全部。俺が知らないお前も、名前が知らない俺も、これから二人で見つけていきたいんだ」  誤魔化すのは、もう終わりだ。 「俺達の地図は、自分達で描こう。誰にも邪魔されない、二人だけの場所で」  俺の言葉に、名前は夜の海に似た瞳を見開いた。そして、次の瞬間には、春の陽光を浴びて綻ぶ蕾みたいに、ふわりと微笑んだ。 「……うん。待ってる」  その返事が、新しい旅の、船出の合図だった。  名前を理解する為の本読みは終わったが、俺達の甘くて、少しだけ滑稽な探求は、まだ始まったばかりなのだ。


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