49.誤魔化し続けた報復

Past Episode.

- 茹蛸の恋と、学殖のスープ -

 わたし、苗字名前の魂の奥底には、誰にも見せたことのない、小さな箱庭が存在する。そこでは、わたしが愛でる脆くて儚いもの達が、硝子細工のテラリウムの中で、静かに息衝いていた。工くんと云う、太陽みたいに眩しい存在が現れるまで、その箱庭の静寂が破られることなど、想像すらしなかった。  工くんと恋仲になってから、わたしの庭には、少しずつ変化が訪れた。彼の声、彼の匂い、彼がバレーボールに打ち込む姿。一つひとつが、今まで知らなかった鮮やかな色彩を、わたしの世界に持ち込んでくる。触れ合う指先から伝わる熱だけで、心の湖面が漣を立て、口づけを交わせば、波紋が身体の芯まで届くようになった。  好き。感情は日に日に純度を増し、わたしの全てを侵食する。同時に未知の領域への扉が、眼前で静かに軋む音も聞こえ始めていた。キスよりも先に在る、もっと深く濃密な繋がり。それは、わたしの花園には存在しない、全く新しい植物の種子だった。育て方も、咲く花の形も分からない。無知のままでは、きっとこの美しい種を枯らしてしまう。漠然とした怖れが、わたしを行動へと駆り立てた。  誤魔化し続けてきたのだ。自分の身体のこと、男女の違いのこと。病弱だった過去を言い訳に、そう云う話題から、ずっと目を逸らしてきた。でも、工くんを前にして、もう逃げることは許されない。彼を、わたし自身を傷付けない為に、知らなくてはならない時が来た。  決意を固めたわたしは、誰にも気づかれないよう、ひっそりと一冊の専門書を注文した。数日後、兄さんの目を盗んで受け取った小包はずしりと重く、禁断の果実みたいだった。  自室を施錠し、深呼吸を一つ。アンティークの机に置いた包みを、震える指で解く。現れたのは『幸福な二人の為の身体地図』と云う、学術書めいたタイトルのハードカバーだった。表紙の、アダムとイヴを思わせる抽象画が、妙に意味深長に映る。わたしは読み易いよう、帯を外した。  最初の数頁には、人体の構造や、ホルモンの働きに関する解説が並んでいた。退屈な程に真面目だ。わたしは些か安堵し、知識欲を満たすように文字を追う。紙を捲る手が止まったのは、物語が核心へと差し掛かる頃合だった。 『――愛撫とは、言葉を介さない、最も原始的で、最も誠実な対話である』  その一文を皮切りに、本の内容は一変した。カラー印刷の、生々しいと云うよりは、寧ろ解剖図に近い精緻な挿絵。男女の身体の敏感な箇所、所謂性感帯と呼ばれる場所が、一つずつ丁寧に図解されている。そこから先は、学術的な好奇心だけでは読み進められなかった。  指が、唇が、舌が、どのように肌の上を旅するのか。どうすれば、相手に快感を与え、受け取ることができるのか。知識の洪水が、わたしの思考を呑み込んでいく。解説文に登場する"彼"の姿が、いつの間にか、工くんに置き換わっていた。彼の、ボールを叩き潰す力強い掌が、もし、わたしの膚に触れたなら。試合中に叫ぶ、熱度の高い声が、わたしの耳元で囁かれたなら。  想像しただけで、身体中の血液が沸騰し、顔面に集中するのが分かった。心臓が肋骨の檻を内側から激しく叩く。わたしは本を閉じることもできず、只、熱に浮かされるまま、次の頁へと指を滑らせた。  そして、出逢ってしまったのだ。避妊具、と云う単語に。  そこには、小さなラテックス製品の正しい装着方法が、連続写真付きで、これ以上ない程、懇切丁寧に解説されていた。 『――これは互いの未来を守る為の、最も重要な愛情表現の一つです』  説明を読んだ時、わたしの中で、何かがすとんと腑に落ちた。性交は、欲望を満たす為だけの行為ではない。お互いを深く慈しみ、尊重し、未来を共に歩む為の神聖な儀式なのだ。工くんとの間に、いつか訪れるであろうその瞬間の為に、わたしはこれを学ばなくてはならない。彼に全てを委ねるだけではなく、わたしも、工くんを守る恋人で在りたい。  わたしが紙面の挿絵――逞しい男性器に薄いゴムが被せられていく過程――を食い入るように見つめていた、刹那。 「やあ、我が愛しの探求者よ。随分と熱心じゃないか。愛の深淵でも覗いているのかな?」  ノックの音もなく、ぬるりと扉を開けて現れたのは、兄の兄貴だった。今日のTシャツには、胸元に大きく『恋はするものではなく、落ちるものだ』と書かれている。片手には、自室の鍵が握られていた。酷い。 「っ、兄貴兄さん……!」  わたしは悲鳴に近い声を上げ、反射的に本を背後へ隠した。けれど、時既に遅し。兄さんの目は、全てを見通す鷹の如く、天板に残された帯を捉えていた。 「ほう、『幸福な二人の為の身体地図』か。素晴らしいタイトルだ。次に書く小説の参考にしようかな。『絶望的な二人の為の精神迷宮』……うん、売れる気がする」  兄さんは面白そうに眦を下げると、一人掛けのソファに腰を据えた。そして、悪魔のような囁き声で語る。 「知識を得るのは良いことだ。だけどね、名前。実践なき学殖は、塩の入っていないスープと同じだよ。味気ないだろう?」 「そ、そんなこと……!」 「まあ、焦ることはないさ。未来の義弟殿は、見るからに健全な肉体と精神の持ち主だからね。きっと、君の歩幅に合わせて、素晴らしい旅へと連れ出してくれる」  揶揄われている。完全に。わたしの顔面は、きっと熟れた林檎よりも赤いに違いない。羞恥で死んでしまいそうだった。誤魔化し続けたことへの、苛烈な報復。  そこへ追い打ちを掛けるように、もう一人の闖入者が出現した。 「何、騒いでんだよ。兄貴、また名前を揶揄って……」  室内に踏み入った弟のは、わたしの様子を見るなり、ぴたりと動きを止めた。 「……うわ、何、その顔。茹蛸みたい。さては、五色のことでも考えて、変な妄想でもしてたんだろ」 「ち、違う!」  の、余りに的確な指摘に、反論は蚊の鳴くようなか細さになった。兄と弟、二方向からの集中砲火。最早、わたしの精神は限界だった。 「まあ、いいじゃないか、。姉さんの成長を、温かく見守ってやろう」 「はぁ……。まあ、変な男に騙されるよりは、自分で勉強する方がマシか。義兄さん、苦労するだろうな……」  呆れたように溜息をつき、二人は嵐の如く出掛けていった。  一人残された部屋で、わたしは机に突っ伏した。熱の引かない頬を、冷たい木の表面に押し付ける。心臓は未だ羞恥心で痛んだけれど、不思議と後悔はなかった。  もう一度、本を開く。先程とは違う澄んだ気持ちで、文字と挿絵を追った。  これは、わたしの覚悟の証。本当の意味で、工くんと一つになる為の、大切なお守りなのだ。  窓の外はいつしか、夕暮れの色に染まっていた。今頃、練習を終えた工くんが、寮への道を歩いているかもしれない。  わたしはそっと窓硝子を開け、茜色の空を見上げた。  待っていてね、工くん。  工くんの箱庭に立ち入る為、念入りな準備をしておくから。  工くんが、わたしを選んでくれたこと、決して後悔させないように。  手の中にある『身体地図』は、もう禁断の果実ではなかった。二人で歩む未来を照らす、頼もしい道標のように、静かな光を放っていた。  その時だった。  ピンポーン、と軽やかな電子音が、清閑なマンションに響き渡った。心臓が驚きで大きく跳ねる。こんな時間に誰だろう。兄さんか、が、忘れ物でも取りに戻ったのかな。  わたしはモニターを覗き込み、呼気を押し殺した。  カメラに映っていたのは、正しく、今し方まで想いを馳せていた相手――五色工くん、その人だった。練習着姿の彼は、額の汗をタオルで拭いながら、少しだけ息を切らしている。液晶越しの双眸は、わたしと逢える喜びに満ち、きらきらと輝いていた。  一瞬にして、思考が凍り付く。  まだ、顔の熱が引いていない。心臓も落ち着きを取り戻せていない。何より、机上では禁断の書物が開かれたまま、異質な存在を主張している。 「わ、わわ……!」  意味のない音を発しながら、わたしは人生で最も素早い動きを発揮したかもしれない。本を引っ手繰るように掴むと、ウォークインクローゼットの扉を開け、積み上げられた帽子の箱の、一番奥へと捩じ込んだ。これでいい。完璧な隠蔽工作だ。  ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら、数回、深呼吸を繰り返す。大丈夫。わたしは、苗字名前。いつもの、わたし。  平静を装い、玄関のドアを開けた。 「工くん。来てくれたんだね」 「名前! ただいま! 練習が早く終わったから、顔が見たくなって!」  太陽みたいな笑顔で寄ってくる彼に、胸がきゅっと締め付けられる。けれど、工くんはわたしの顔を見るなり、不思議そうに眉を顰めた。 「どうした? 顔、赤いぞ。熱でもあるのか?」  工くんが心配そうに、わたしの額に自分のそれをこつんと当てる。不意打ちの接近に、鎮めたばかりの熱が、再びぶわりと蘇った。 「な、何でもないよ。ちょっと、部屋が暑かっただけ」 「そうか? ならいいけど……」  納得のいかない表情をしつつも、工くんはリビングのソファへと腰を下ろした。わたしは麦茶を淹れる為にキッチンへ向かう。背中に、彼の熱心な練習報告が降り注いだ。 「今日のクロス、今までで一番キレがあったんだ! 牛島さんにも、『悪くない』って言ってもらえて!」  相槌を打ちながらも、わたしの関心は会話より、工くんの肉体へと吸い寄せられていた。Tシャツ越しにも分かる、引き締まった肩の筋肉。ボールを叩き、トスを要求する、骨張って大きな手。先刻まで見ていた挿絵の、逞しい身体の線が、目の前の彼と重なって、どうしようもなく動揺する。 「……名前? 聞いてる?」 「え? あ、うん、聞いてるよ。良かったね、工くん」  危ない。意識が飛んでいた。  麦茶の入ったグラスを差し出すと、工くんは一気に呷り、ふう、と満足気な息を吐いた。そして、不意に真剣な眼差しで、わたしを見つめた。 「なあ、名前。俺達、付き合って、結構経つよな」  どくん、と心臓が大きく脈打つ。  まさか。まさか、工くんも。 「俺、名前のこと、もっと知りたいって思うんだ。バレーしてる時以外は、ずっと、名前のこと考えてる。……その、キスより先の事とか、想像したり……しないかな?」  真っ直ぐな気持ちが、わたしの胸を貫いた。それは苦痛を伴うものではなく、絡まった心の糸を解きほぐすような、温かい衝撃だった。工くんの、一寸だけ赤くなった耳が、どれ程の勇気を要したかを物語っている。  兄と弟に揶揄われた時の、焼け付く羞恥が嘘みたいに消えていく。工くんの誠実さが、積もる不安を春の雪のように溶かしてくれたのだ。  本で得た知識をひけらかす、野暮なことはしなかった。只、心の底から湧き上がる愛おしさを込めて、静かに微笑んだ。 「……わたしも、だよ。工くんのこと、もっと知りたい」  わたしの返事に、工くんの顔色が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。純粋な喜びに、また胸が熱くなる。  わたしの身体地図は、もう暫くは真っ白なまま。  でも、この地図に二人だけの航路を記し、完成させていくのは専門書じゃない。  目の前に居る、世界で一番大切な、工くんなんだ。  誤魔化し続けた報復は、思いがけず、工くんの想いを知る甘い切っ掛けになった。  お互いの間に流れる、少しだけ切なくて、期待に満ちた沈黙。  新しい物語の、始まりの合図だった。


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