
エース、戦場を間違える。
約束の日、俺、五色工の心臓は、試合開始のホイッスルを待つ時よりも、遥かにけたたましい鼓動を刻んでいた。
待ち合わせ場所の駅前広場。噴水の飛沫が初夏の陽光を浴び、虹色の粒子を撒き散らしている。その光のカーテンの向こうに、名前の姿を見つけた瞬間、俺の世界から、全ての雑音が消え失せた。
風に揺れる柔らかな髪。今日は白いワンピース姿で、その清廉な佇まいは、都会の喧騒の中に舞い降りた、一輪の野百合のようだった。名前がこちらに気づき、小さく手を振る。そんな僅かな所作だけで、俺の足は勝手に地面を蹴っていた。
「名前! 待たせたか!?」
「ううん、わたしも、今来たところ。それにしても、工くん、少し汗を掻いてるね。ここまで走ってきたの?」
「おう! 名前とのデートに、遅刻なんて有り得ないからな!」
胸を張って言い切ると、名前はふふ、と息を漏らして笑った。その微笑みが、どんなファインプレーよりも、俺の心を昂らせる。
「ありがとう。じゃあ、行こうか」
礼を述べ、ごく自然に差し出された彼女の左手。その指は白魚のように細く、少しだけ冷たい。俺は自分の、ボールの感触ばかりが染み付いた無骨な手で、名前を壊さないよう、そっと握り返した。繋がれた手指から伝わる温もりが、俺の決意を鈍らせ、同時に奮い立たせる。
今日の目的地は、駅に直結したファッションビル。その一角に、今回の聖戦の地――基、目的の店がある。エレベーターの階数表示が上がるにつれ、俺の緊張は最高到達点へと駆け上がっていく。
目当てのフロアに降り立った瞬間、俺は完全に異世界へ転生したのだと悟った。
ふわりと鼻腔を擽る、甘く、どこか蠱惑的な香り。視界を埋め尽くすのは、淡いパステルカラーから、夜の闇を溶かし込んだような深い色合いまで、ありとあらゆる色彩の洪水。レース、シルク、サテン。柔い素材で形作られた、布と呼ぶには余りにも面積の少ないそれらが、無数の照明を浴び、静かに自己を主張している。
ここは男子禁制の聖域。バレーコートと云う名の戦場であれば、誰が相手だろうと怯むことはないが、この空間での俺は、只の無力な一年坊主だ。周囲から突き刺さる(ように感じる)女性客達の視線が、俺の全身を蜂の巣にしていく。
(だ、駄目だ……! 完全にアウェイだ……! 四方八方、敵だらけじゃないか……!)
脳内で緊急タイムアウトが要求される。鷲匠監督の雷鳴めいた檄が、今程恋しいと思ったことはない。
「工くん、どうしたの? 顔が赤いよ」
隣で、名前が不思議そうに小首を傾げた。彼女だけは、この異世界でも全く動じていない。自宅の庭を散策するかのように、優雅な足取りで商品を見て回っている。そのマイペースさが、今は只々眩しかった。
「い、いや、何でもない! このフロア、ちょっと暑いよな!」
「そう? わたしは丁度良いけれど」
そう言って、名前は一つのハンガーを手に取った。それは朝霧をそのまま固めたような、儚い水色の生地で出来ていた。繊細な花の刺繍が、氷の結晶みたいに施されている。
「ねぇ、工くんは、どれが似合うと思う?」
来た。
試合の最終局面、こちらのサーブで回ってきた、絶対に落とせない一本。
名前の静かな湖面を思わせる双眸が、俺を真っ直ぐに射抜いている。その眸に試されている気がして、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
俺の脳内では、第二次緊急対策会議が強制的に招集されていた。議題は勿論、『苗字名前に最も似合う下着の選定、及び、彼氏としての最適解の提示について』。
本能の赴くままに、己の欲望を解放すべきか? いや、それは駄目だ。それでは、只の獣だ。紳士であれ、五色工。
では、無難な選択肢は? 白か? ピンクか? いや、それではエースを目指す男として、余りに日和見主義が過ぎる。
どうする。どうすれば、この完璧な三枚ブロックを打ち抜ける……?
「……これ、かな」
思考の渦に沈み掛けていた俺の口から、自分でも意図しない言葉が零れた。俺が指差していたのは、名前が手にしていた水色のそれとは、対極にあるような一着だった。
それは真珠を想起させ、深く艶やかな光沢を放つ、アイボリーホワイト。華美な装飾はないが、上質なシルクが身体のラインを美しく見せるであろうことは、素人の俺にも分かった。何より、その生地は、名前が好む儚いレースとは違い、確りとした厚みと、全てを包み込む優しさを感じさせた。
「……これ?」
名前は意外そうに目を瞬かせた。彼女の嗜好とは、明らかに異なる系統だったからだろう。
「あ、いや、その……」
俺は慌てて、言葉を継いだ。ここでしくじれば、万事休すだ。
「名前は、脆くて、儚いものが好きだって言ってた。でも、俺は……お前が消えたり、壊れたりするのは、絶対に嫌だ」
俺はハンガーから下着をそっと外し、両手で掲げ持った。
「こいつは、名前が好きなレースみたいに、すぐには解れたりしない。簡単には、破れたりしない。……俺が、お前を守るって云う、誓いみたいなもんだ。だから……だから、こう云うのが、いい」
言い切った瞬間、顔面にぶわりと熱が集まるのを感じた。何を話しているんだ、俺は。ランジェリー一枚に、誓いだの、守るだの。恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたい。いや、今直ぐ、ブラジルまで飛んでいきたい。
静寂が、マリアナ海溝よりも深く、俺達の間に横たわった。
終わった。俺の選手生命も、彼氏生命も、ここで終わったんだ。
俯いて、床の模様を数え始めた俺の耳に、くすり、と鈴が鳴るような笑い声が届いた。
「……ふふ、ふふふっ」
恐る恐る顔を上げると、名前が両手で口許を覆い、肩を震わせていた。その瞳は潤んでいて、雨上がりの紫陽花同様、きらきらと輝いていた。
「……ごめん。余りにも、工くんらしいから」
名前はそう謝ると、俺の手から、アイボリーホワイトの下着を受け取った。そして、最初に手にしていた水色のそれと、二つ並べて、愛おしそうに見つめた。
「……そうだね。どっちも、わたしだね」
「え?」
「脆くて、儚いものが好きなわたしと、工くんに守ってほしいわたし。どっちも、本当のわたし。だから、二つ共、貰っていくね」
そう続けて悪戯っぽく微笑む彼女は、俺が知るどんな女神よりも、遥かに魅力的だった。
会計を済ませ、店を出る。先程までの喧騒が嘘のように、フロアは静まり返っていた。俺はまだ、夢の中に居る気分だった。
「……なあ、名前」
「うん?」
「今日、俺の中で、何かが死んだ気がする」
俺の唐突な呟きに、名前は足を止め、不思議そうにこちらを見上げた。
「死んだのは、何だったの?」
「……羞恥心、とか……理性、とか……まあ、色々だ」
そう答えると、名前はまた楽しそうに笑った。
「じゃあ、新しく生まれたものは、何だったのかな」
新しく生まれたもの。
俺は繋いだ手指に、きゅっと力を込めた。名前の指先が、それに応えて優しく絡み付く。
「……覚悟、かな」
名前を、彼女の世界の全てを、この手で守り抜くと云う覚悟。
エースになる事と同じくらい、絶対に譲れない、俺の新しい目標。
「そう」
名前は満足そうに頷くと、俺の腕に頭を預けた。甘い髪の香りが、俺の決意を揺さぶる。
「じゃあ、工くん。その覚悟、今夜、見せてくれるよね?」
耳元で囁かれたその言葉は、どんな魔法よりも強力な呪文となって、俺の全身を駆け巡った。
死んだのは、俺の理性だけではなかったらしい。
今、この瞬間、俺の自制心と云う名の何かにも、明確に死亡宣告が下された。
俺は、名前を強く引き寄せた。
この時が永遠に続けばいいと、心の底から願いながら。