
※兄貴と弟の描写が含まれます。
俺、五色工の人生における主導権は、今、この瞬間、苗字名前によって、完全に掌握されていた。
「じゃあ、工くん。その覚悟、今夜、見せてくれるよね?」
耳元で囁かれた悪魔的な甘言は、俺の脳髄を直接揺さぶり、思考回路を焼き切る最終兵器に他ならなかった。羞恥心と理性と自制心、その三つを失った俺の心に残されたのは、唯一つ。目の前の恋人を、世界で一番幸せにするのだと云う、燃え盛るような本能だけだった。
マンションまでの帰り道、俺の意識は半分以上、幽体離脱していたに違いない。繋いだ手の、陶器を思わせる滑らかな感触。直ぐ隣で揺れる、柔らかな髪から漂う甘い香り。それら全てが、俺の現実感を曖昧にする。夕暮れの町並みは、印象派の絵画のように色彩の輪郭を欠き、俺の世界には、名前だけが存在していた。
「工くん、足許に気を付けて」
階段の一段目を踏み外しそうになった俺を、名前がくすりと笑いながら支える。その声ですら、今の俺には天上の音楽のように響いた。駄目だ。完全に浮き足立っている。これでは試合前のルーティンも何もあったものではない。
慣れた手つきで鍵を開け、招き入れられた家は、ひっそりと静まり返っていた。どうやら、今日は兄貴さんも弟も不在らしい。その事実が、俺の心臓を鷲掴みにし、あり得ない速度で脈打たせる。静寂が、これから始まるであろう甘美な時間を雄弁に予告していた。
「何か飲む? 温かい紅茶でも淹れようか」
「あ、ああ! 頼む!」
ソファに深く身を沈めたものの、少しも落ち着かなかった。クッションを抱き締めたり、意味もなく立ち上がっては窓の外を眺めたり、巣作りを始めたばかりの鳥のように、挙動不審な動きを繰り返す。キッチンから聞こえる、ティーセットの触れ合う軽やかな音だけが、この異常な状況下において、唯一の現実だった。
「お待たせ。アールグレイだよ」
差し出されたソーサーを受け取る手は、きっと震えていたに違いない。名前は、俺の向かいに腰を下ろすと、自分のティーカップに口を付けた。その優雅な所作と、俺の狼狽振りの対比が、何だか無性に恥ずかしかった。
「……あの、さ、名前」
「うん?」
「今日、買った、その……ぁれは……」
言葉にした途端、声が裏返った。駄目だ、話題の選び方が下手過ぎる。試合の最終セット、マッチポイントでサーブミスをするような、致命的な失態だった。
しかし、名前はそんな俺の醜態を気にも留めない様子で、不思議そうに小首を傾げた。
「うん、あれがどうかした?」
「い、いや! 何でもない!」
俺は慌てて、紅茶を呷った。熱い液体が咽喉を焼き、僅かに理性が呼び戻される。落ち着け、五色工。お前は白鳥沢の次期エースだ。こんなことで動揺していては、牛島さんを超えることなど、夢のまた夢だ。
「わたし、少し汗を掻いてしまったから、シャワーを浴びてくるね。工くんは、自由にしていて」
そう言い残し、名前はリビングを出ていった。残されたのは、ベルガモットの香りと、俺の暴れ狂う心臓だけだった。
手探り、と云う単語が頭を過る。そうだ。今の俺は、暗闇の中を手探りで進んでいるようなものだ。どこにゴールが在るのか、抑々、この先に何が待ち受けているのか、全く見当が付かない。只、微かに馨る甘い匂いに誘われるまま、一歩ずつ、慎重に足を踏み出している。
数十分が、数時間にも感じられた。俺がソファの上で、完全に化石と成り掛けた、その時だった。
カチャリ、と静かな音を立て、リビングの扉が開いた。そこに立っていたのは、湯上がりの熱で頬を仄かに上気させ、白いバスローブを纏う名前だった。濡れた髪から滴る雫が、彼女の細い首筋を伝い、鎖骨の窪みで小さな光の粒となる。その光景はどんな芸術品よりも官能的で、俺に呼吸を忘れさせた。
「工くん」
粛として、俺の名前を呼ぶ。その声が合図だった。
名前は背を向けると、迷いのない足取りでリビングを出ていく。俺は引力に導かれるように立ち上がり、後を追った。廊下の先、自室のドアの前で、名前が振り返る。
「覚悟は、できた?」
その双眸は試すようであり、誘うようでもあった。俺は無言で頷き、彼女の元へと歩み寄った。
名前の部屋は、間接照明の柔らかな光だけが灯る、幻想的な空間だった。窓の外では、外灯が星屑のように瞬いている。中央に置かれたベッドの上には、見覚えのある紙袋が、供物の如く鎮座していた。
ゴクリ、と喉が鳴る。最終決戦の舞台は整った。
「工くんに選んでほしいんだ」
名前は紙袋から二つの包みを取り出して並べ、交互に指差した。
「今日のわたしには、どっちが似合うと思う?」
来た。究極の二択。
一つは、名前が愛してやまない、雪の結晶のように脆く儚いレース。もう一つは、俺が誓いを込めて選んだ、真珠の光沢を放つシルク。
これは罠だ。どちらを選んでも、何かが違う気がする。AクイックとCクイック、相手セッターがどちらにトスを上げるか、選択を迫られている時に似た息苦しさ。下手にブロックしようと跳べば、見事に裏を掻かれる。
俺は目を閉じ、思考を巡らせた。名前の意図はどこにある? 俺の欲望を試しているのか? それとも、俺の覚悟の純度を測っているのか?
手探りで進んだ先に在ったのは、巧妙に仕掛けられたネズミ捕りだった。だが、この罠から逃げると云う選択肢は、俺にはない。なら、真正面から踏み抜いてやるまでだ。
俺は、ゆっくりと瞼を開いた。
「……どっちも、名前に似合う。世界で一番、お前に似合うと思う」
先ず、揺るぎない事実を告げる。名前の瞳が、僅かに揺らめいた。
「でも」
俺は迷わず、アイボリーホワイトのシルクが入った包みを手に取った。
「今夜は、こっちがいい。俺が、名前を守りたいから。名前がどこにも消えてしまわないように、この腕で、ずっと包んでいたいから」
それは計算も駆け引きもない、俺の心のど真ん中から放たれた、渾身のストレートだった。
数秒の沈黙の後、名前の唇から、ふ、と小さな吐息が漏れた。堪え切れない、と云う響きを伴っていた。
「……ふふ、ふふふっ。正解、だよ」
名前は幸せそうに目を細めると、俺の胸にそっと頬を埋めた。
「でもね、本当は、工くんがどちらを選んでも、わたしは嬉しかったんだ。只、わたしの為に真剣に悩んでくれる、工くんの顔が見たかっただけ」
やっぱり、罠だった。俺はこの愛らしい小悪魔の掌の上で、見事に踊らされていたのだ。でも、不思議と悔しい気持ちはなかった。寧ろ、罠に嵌められたことさえ、堪らなく愛おしい。
「……お前、ほんと、性格悪いな」
「ふふ、褒め言葉として、受け取っておくね」
顔を上げた名前が、悪戯っぽく微笑む。もう躊躇いはなかった。俺は、彼女の華奢な身体を抱き寄せ、深い口づけを交わした。
「覚悟、見せてやるよ。名前が、もういいって言うまで、絶対に離さない」
名前は満足そうに頷き、俺の宣言に応えるよう、首に腕を回した。
手探りで見つけたのは、甘くて、抗うことのできない、愛と云う名の罠だった。
俺は喜んで、その虜になることを選んだ。この夜が永遠に明けないでほしいと、心の底から願いながら。