44.見ず知らずの

What If Story.

 俺は聖域に足を踏み入れる巡礼者のように、ぎこちなく一歩、寝室の中へと進んだ。  名前はそんな俺を気にするでもなく、机の上に置かれている一冊のノートを手に取った。革張りの、古びた洋書のような装丁だ。小さな背中を見つめながら、俺の脳内では、再び『苗字名前が見せたいもの大予想選手権』がスタジアム満員御礼の勢いで開催されていた。  まさかとは思うが、あの革張りのノート……あれは、俺への想いを綴った恋文の束、所謂、ポエム集と云うヤツではないだろうか。いや、しかし、物静かな名前が、そんな気恥ずかしい真似を……? でも、時折、とんでもない行動に出る彼女ならやり兼ねない。俺の思考は、他のあらゆる可能性を薙ぎ払い、一点へと急速に収束していく。心臓は期待で破裂寸前だった。  名前は革張りのノートを胸に抱き、少しだけ躊躇うように俯いた。その仕種が、俺の期待値を否応なく引き上げる。 「あのね、工くん」 「お、おう」 「……これを、見てほしくて」  名前が差し出したノートを受け取る。ずしりとした重み。表紙には、金色の箔押しで、謎の紋様が描かれていたが、俺にはそれが何なのか、皆目見当もつかない。  俺はゴクリと固唾を呑み、ゆっくりとページを捲った。  そこに綴られていたのは――。  流麗な、しかし、どこか幼さの残る筆跡で書かれた、詩の数々だった。  俺の思考は、完璧な三枚ブロックに真正面から叩き落されたみたいに、完全に停止した。 「ぽ、ポエム……?」 「うん。……恥ずかしいけれど、工くんにだけは読んでほしかったんだ」  そう言って、名前は頬を淡く染める。その表情は、今まで見たどんな彼女よりも愛らしく、俺の心臓を鷲掴みにした。  俺は震える指でページを捲り、紙面に綴られた言葉の海へと沈んでいった。 『君の打つスパイクは流星  コートを切り裂き  わたしの心を貫く』 『汗の匂い ボールの音  君を構成する全てが  わたしの世界の讃美歌になる』 『ぱっつんの前髪が揺れる度  アホ毛がぴょこんと跳ねる度  わたしの恋は また一つ深くなる』  駄目だ。これは駄目だ。  余りにも真っ直ぐで、純粋で、気恥ずかしい程に熱烈な詞の羅列。俺の脳内で、華々しく打ち上がっていた妄想の数々は、この純然たる愛情表現の前では、途端に陳腐で、俗っぽく思えた。  熱い。顔が、耳が、首筋まで、燃えるように熱い。  だが、先程までの欲望の熱とは違う。もっと心の芯から温められる、幸福な熱だった。 「先頭文字名前……お前、こんな……!」 「……変かな?」  不安そうに揺れる瞳が、俺を捉える。  変なわけがあるか。こんなにも嬉しいことがあるか。 「変なわけないだろ! めちゃくちゃ……滅茶苦茶、嬉しい!」  気づけば、俺は彼女の華奢な身体を、片腕で力強く抱き締めていた。ノートが、俺達の間で、僅かに軋む。 「俺、こんな風に思われてたなんて、知らなかった……」 「言葉にしないと、伝わらないこともあるから、だから、書いてみたんだ。工くんがバレーに打ち込んでいる姿を見る度、溢れてくる気持ちを、どうにか形にしたくて」  名前は、俺の胸元に頬を埋めながら、ぽつりぽつりと語った。 「工くんの世界の中心は、あの体育館で、あのボールだって、さっきは言ったけれど……。本当は分かってる。わたしは、その世界を外から眺めているだけじゃない。工くんのプレーの一つひとつが、わたしの心に直接響いて、世界を豊かにしてくれているんだって」  彼女の言葉は、どんな応援よりも、俺の力になった。  俺は、只、自分の為だけにボールを追い駆けていたわけじゃなかった。俺のプレーが、名前の世界を彩っていた。その事実が誇らしくて、胸が張り裂けそうだった。 「……なぁ、名前」 「うん?」 「このポエム、俺が知らない奴の事とか、書いてたりしないよな?」 「え?」  俺が真剣な表情で訊ねると、名前はきょとんと目を瞬かせた。 「見ず知らずの、どっかのエースとか、そう云う奴の……」 「ふふっ」  俺の馬鹿げた心配に、名前は堪え切れないと云った風に吹き出した。 「そんなわけないよ。このノートに書いてあるのは、全部、工くんのことだけ。わたしの世界で一番格好良い、未来のエースのこと」  その言葉と笑顔に、俺の心は完全にノックアウトされた。  名前の頬に片手を添え、ゆっくりと顔を近づける。 「……じゃあ、俺からもお返し」 「え?」  俺は彼女の柔らかな唇に、そっと自分の唇を重ねた。感謝と、愛おしさと、ほんの少しの独占欲を込めた、今までで一番深いキスだった。  長い口づけの後、漸く口唇を離すと、名前は頬を桜色に染め、俺を潤んだ双眸で見上げていた。 「……わたしのポエムより、ずっと情熱的だね」 「当たり前だろ。俺は、お前のエースだからな」  得意気に胸を張る俺を見て、名前は幸せそうに微笑んだ。 「やあ、未来の義弟殿。どうやら、新たな詩集が完成したようだね」  不意に聞こえた呑気な声の方を振り返ると、いつの間にか、部屋のドアが半開きになっており、兄貴さんがひょっこりと上半身を覗かせていた。着替えたらしいTシャツには、胸元に大きく『推しが尊い』と書かれている。 「っ、兄貴さん!? い、いつからそこに……!」 「『ぽ、ポエム……?』の辺りからかな。いやあ、感動したよ。俺も、新作の構想が湧いてきた。『アホ毛の騎士と、姫君の恋文』……うん、これは傑作の予感がする」 「兄貴兄さん、入る時はノックをして、といつも言っているのに」  名前が僅かに頬を膨らませて窘めるが、兄貴さんはどこ吹く風だ。 「まあ、いいじゃないか。それより、工くん。その詩集、俺にくれないか? 君のサイン入りで」 「これは、俺のです!」  俺はノートを奪われまいと、ぎゅっと胸に抱き締めた。  この宝物は、誰にも渡さない。  嵐のように現れては、満足気に去っていく兄貴さんを見送り、俺は腕の中に居る、世界で一番愛おしい恋人を見つめた。  そうだ。名前が紡ぐ言葉の一つひとつが、俺を強くする。 「……名前」 「うん?」 「また、書いてくれる? 俺のこと」 「……ふふ、うん。工くんがエースになるまで、何度でも」  俺はもう一度、名前を強く抱き寄せた。  言葉も、気持ちも、腐ったりしない。  だから、これからも伝え合おう。  何度も、何度も、何度だって。  想いの全てを、君に。そして、君からの全てを、俺に。


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