
What If Story.
※兄貴が登場します。
部屋は、名前と云う人間をそのまま具現化したような空間だった。アンティーク調のドレッサーの上では、幾何学的なカッティングを施された香水瓶が、夕暮れの光を乱反射させている。窓辺には繊細な硝子細工のテラリウムが吊るされ、その中で小さな緑が息衝いていた。室内の中央に鎮座する天蓋付きのベッドは、物語から抜け出してきたかの如く、幻想的な雰囲気を醸し出している。
聖域に足を踏み入れた巡礼者のように、ぎこちなく一歩、寝室の内側へと進んだ俺を尻目に、名前は迷いのない足取りで、壁際に設えられたウォークインクローゼットへと向かった。その儚げな背中を見つめながら、俺の脳内では『苗字名前が見せたいもの大予想選手権』が、過去最大級の熱狂と共に開催されていた。
本命は、矢張り面積の少ない布だろうか。いや、ここまでお膳立てされて、それ以外は有り得ない。問題は色と形だ。純白か、それとも夜を思わせる漆黒か。或いは、俺の知らない、もっと大胆な色彩か……? 思考は相手チームのサインを読み解くよりも、遥かに困難を極めていた。俺の情緒は最高到達点から、更に上昇を続け、制御不能な領域へと突入する。
カチャリ、とクローゼットの扉が開かれる。俺はゴクリと固唾を呑んだ。
名前がそこから取り出したのは――。
「じゃーん」
可愛らしい効果音と共に、名前が細い指先で摘まんでみせたのは、紛れもなく"面積の少ない布"だった。
それは夜明け前の空の最も淡い部分を切り取って、蜘蛛の糸で紡いだかのような、繊細なレースで構成されていた。布、と呼べる部分は最小限で、肌の透ける刺繍が、氷の華に似た緻密な紋様を描いている。
俺の思考は、完璧な三枚ブロックに真正面から叩き落されたみたいに、完全に停止した。
「……え?」
「これ、この間、お店で見つけて。綺麗でしょう?」
そう同意を求め、名前は事もなげに微笑む。その顔には羞恥の色など微塵もなく、珍しい蝶の標本でも見せるかのような、純粋な好奇心だけが浮かんでいた。
俺の頭の中で、華々しく打ち上がっていた妄想の回路が一瞬にして焼き切れた。熱い。顔面が、耳が、首筋まで、燃えるように熱い。
「き、綺麗……って、先頭文字、名前、お前、それを……!」
「うん。こう云うの、好きなんだ。脆くて、儚くて、すぐに消えてしまいそうなものが」
彼女はその小さな布片を、両手で宝物のようにそっと包み込んだ。
「見て。このレースの編み目、まるで雪の結晶みたいでしょう? 強い力を加えたら、きっと直ぐに解けてしまう。指先で触れただけで、溶けて消えてしまいそうなところが、堪らなく愛おしいと思うんだ」
その言葉は、只の下着に対する感想ではなかった。
名前の瞳は、レースの向こうに、もっと別の何かを映しているみたいだった。脆くて、儚くて、消えてしまうもの。それは、彼女自身の在り方に、どこか通じている気がした。誰よりも美しく、精巧な硝子細工のようでいて、その実、ほんの僅かな衝撃で砕けてしまいそうな危うさを、彼女は常に孕んでいる。
俺は、自分の欲望だけで彼女を見ていたことを、深く恥じた。
名前は、俺を煽ろうとか、誘惑しようとか、そんな浅い考えでこれを披露したのではない。ただ純粋に、自分が"美しい"と感じたものを、一番大切な人間に共有したかっただけなのだ。俺の知らない、苗字名前の感性。その最も柔らかな部分に、今、触れさせてもらっている。
込み上げる愛おしさに、胸が締め付けられるようだった。
「……馬鹿だな、俺」
気づけば、俺は彼女の華奢な身体を、壊れ物を扱うように、優しく包み込んでいた。名前の甘くて清潔な香りが鼻腔を擽る。手の中には、先程のレースの頼りない感触があった。
「……工くん?」
「凄く、綺麗だ。名前に、絶対に似合うと思う」
俺は彼女の耳元で、囁くように言った。今度は下心なんて一欠片もない、心の底からの本心だった。
「だから、そんな風に言うなよ。消えるとか、無くなるとか」
巻き付けた片腕に力を込める。
「俺が、絶対に守るから。お前も、お前が大切にしてるものも、全部。絶対に壊させたりしないし、消えさせたりしない」
俺の宣言に、名前は腕の中でくすりと笑みを漏らした。その声音は、先程までの儚げな様子とは裏腹に、悪戯な色を帯びている。
「……ふふ、工くんは、随分と頼もしいんだね」
俺が戸惑っていると、名前はするりと腕から抜け出し、一歩後退った。そして、俺の目を真っ直ぐに見つめて、こう言った。
「じゃあ、証明してほしいな」
「しょ、証明?」
「うん。わたしが、壊れたり消えたりしないってこと。工くんの腕の中に居る時が、この世界の誰よりも、何よりも、安全だってこと」
そう述べると、名前は持っていた繊細なレースをベッドの上にそっと置いた。まるで、これから始まる儀式の供物のように。その静かな所作が、俺の中の時間を音もなく止めた。
「今度、工くんが選んでくれたものを着けてみたい」
「え!?」
「どうしたの? さっきの勢いは、どこへ行ってしまったのかな」
名前の唇が描く緩やかな弧は、慈母のようであり、小悪魔のようでもあった。彼女の一挙手一投足が、俺の思考を根こそぎ奪う。心臓が跳ねる、なんて生易しいものじゃない。肋骨の檻を突き破り、今にもコートの向こう側まで飛んでいきそうだ。ああ、これはもう……駄目だ。
「やあ、未来の義弟殿。愛の脆さについて、新たな知見は得られたかな?」
不意に聞こえた呑気な声の方を振り返ると、いつの間にか、部屋のドアが半開きになっており、兄貴さんがそこからひょっこりと顔を覗かせていた。着替えたらしいTシャツには、胸元に大きく『恋は大体事故』と書かれている。
「兄貴さん!? い、いつからそこに……!」
「君が『絶対に守る』と、熱い誓いを立てた辺りからかな。いやあ、青春だね。俺も、新作の構想が湧いてきたよ。『絹のパンツと銀河鉄道』……うん、これは売れる」
「兄貴兄さん、入る時はノックをして、といつも言っているでしょう」
名前が僅かに頬を膨らませて窘めるものの、兄貴さんはどこ吹く風だ。
「まあ、いいじゃないか。それより、工くん。妹をあんまり泣かせると、俺が黙ってないからね。俺の愛は、あのレースよりも遥かに頑丈で、簡単には解けないから、覚悟しておくように」
そう釘を刺し、にやりと笑う兄貴さんの表情は、心底楽しそうだった。
……この兄妹には、敵わない。
兄貴さんが嵐のように去った後、室内には再び静寂が訪れた。俺はまだ熱の引かない顔で、目の前に居る世界で一番愛おしい恋人を見つめた。
そうだ。脆くて、儚くて、消えてしまいそうだからこそ、こんなにも――。
「……名前」
「うん?」
「……今度、一緒に選びに行こう」
俺が漸く絞り出した覚悟に、名前はきょとんと目を瞬かせた。そして、すぐに意図を察したのか、くすくすと息を鳴らして笑った。
「ふふ、そうだね。でも、その前に」
名前は、俺のシャツの裾をくい、と軽く引いた。内緒話をするように、耳元に唇を寄せる。
「続きは、兄さんが新作の構想に飽きて、寝静まった後で、ね?」
吐息と共に囁かれたその誘惑は、どんな魔法よりも強力な呪文となって、俺の全身を駆け巡った。
白鳥沢のエースになる。牛島さんを超えるエースに。
でも、今夜だけはバレーボールの神様も、この甘い敗北を許してくれるに違いない。
俺はもう一度、名前を強く抱き寄せた。
この夜が明けないでほしいと、心の底から願いながら。