42.届かないなら聞かなくていいから

 俺の心臓は、今や只の臓器であることを放棄し、一個の独立した生き物として、肋骨の檻を内側から破壊せんばかりに暴れ狂っていた。  名前の「わたしの部屋に来て」と云う言葉。それは蜂蜜を幾重にも塗り重ねた上で、極上の砂糖を振り掛けたような、抗い難い甘美な響きを伴って、俺の鼓膜を震わせた。  さっきまでの、マリアナ海溝級の断絶が嘘のようだ。いや、あの深い谷を乗り越えたからこそ、現在の高揚がある。そうだ、これは試練を乗り越えた勇者にのみ与えられる褒賞なのだ。五色工、十六年間の人生で、今が間違いなく最高到達点である。  名前の小さな手に引かれるまま、俺はリビングを後にした。背後で、兄貴さんが「おっと、若人の夜は早い。俺も、新作の構想を練るとしよう。『思春期ゴリラと哲学するクラゲ』……うん、悪くない」などと呟いているのが聞こえたが、俺の耳には入らない。俺の全神経は、繋がれた掌のか細い温もりだけに注がれていた。  短い廊下を進む。窓の外では茜と藍が溶け合い、空が最後の煌めきを放っていた。その光が、名前の横顔を淡く照らし、普段は静謐な湖面を思わせる瞳に、星屑のような期待の色を瞬かせているように見えた。  彼女の部屋の前で、名前はぴたりと足を止めた。悪戯が成功する直前の子供のように、くるりと振り返る。 「準備は、いい?」  その確認の意味を、俺は勝手に都合良く解釈する。準備? 当たり前だ。俺は白鳥沢のウイングスパイカーだぞ。いつ、どんなトスが上がろうと、完璧に打ち切る準備はできている。 「お、おう! いつでも来い!」  俺が力強く頷くと、名前は満足そうに微笑み、静かにドアを開けた。  ふわりと、彼女自身の香りが濃密に鼻腔を擽る。雨上がりの庭に咲く梔子のような、甘くも清らかな匂いだった。  部屋は、名前と云う人間をそのまま具現化したような空間だった。壁一面の本棚には、背表紙を見ただけでは内容の想像も付かない難解そうな本が整然と並んでいる。窓辺には瑞々しい葉を茂らせた観葉植物が幾つも置かれ、その一つひとつが丁寧に手入れされていることが窺えた。室内の中央に据えられた寝台は、純白のベッドスプレッドが寸分の乱れもなく掛けられている。  俺は聖域に足を踏み入れた巡礼者のように、ぎこちなく一歩、寝室の中へと進んだ。  名前はそんな俺を気にするでもなく、クローゼットの反対側にある、瀟洒なデザインのローボードへと向かった。その小さな背中を見つめながら、俺の脳内では再び緊急対策会議、いや、今回は『苗字名前が見せたいもの大予想選手権』が開催されていた。  本命は、矢張り面積の少ない布だろうか。いや待て、対抗馬として、俺への想いを綴ったポエム集と云う可能性も捨て切れない。大穴狙いなら、俺のスパイクフォームを連続写真で収めた手作りアルバムか……? 思考が明後日の方向に飛んでいく。どちらにせよ、俺の情緒はジェットコースターのように乱高下を繰り返していた。  カチャリ、とローボードの扉が開く。俺はゴクリと固唾を呑んだ。  名前がそこから取り出したのは――。 「じゃーん」  効果音と共に、名前が掲げてみせたのは、黒く四角い、平たい機械。その上には、剣と魔法の世界が描かれた、美麗なパッケージの小箱が一つ。 「……え?」  俺の口から、鳩が豆鉄砲を食らったような、実に間抜けな声が漏れた。  それはどう見ても最新型の家庭用ゲーム機と、そのソフトだった。 「これ、この間、発売されたばかりのゲームなんだ。ずっとやりたかったけれど、一人じゃなくて、誰かと一緒に遊びたくて」  そう言って、名前は事もなげに微笑む。  俺の頭の中で、華々しく打ち上がっていた妄想の数々は、一瞬にして湿気た線香花火のように、じゅ、と音を立てて消え失せた。 「げ、ゲーム……?」 「うん。二人で協力して、強大な魔王を倒す物語なんだ。工くんは、反射神経が凄く良いでしょう? だから、わたしのことを守ってくれる、最高のナイトになれると思って」  ナイト。その単語に、消え掛けた心臓の火種が、再びぼっと燃え上がる。  そうだ。そうだった。彼女はこう云う人間だった。俺の浅はかな想像など、軽々と飛び越えてくる。だが、それがいい。それが、俺の好きな苗字名前なのだ。  俺はさっきまでの緊張が馬鹿らしくなって、ふっと息を吐くように笑った。 「なんだよ……それかよ」 「不満だった?」 「まさか! 俺、こう云うの、めちゃくちゃ得意だぞ! 全国レベルの動体視力、舐めんなよ!」  調子に乗って胸を張る俺を見て、名前は鈴が鳴るように吹き出した。 「頼もしいな。じゃあ、早速、始めようか」  俺達はベッドの縁に並んで腰掛けた。少しだけ触れ合う肩が、やけに熱い。手渡されたコントローラーは、ずしりと心地良い重みがあった。  テレビ画面に映し出された、壮大なオープニングムービー。これから始まる冒険に、俺の心はバレーの試合前と同じくらい純粋に昂っていた。  ゲームがスタートすると、名前は驚く程の集中力を発揮した。普段の物静かな雰囲気とは裏腹に、その指は滑らかにコントローラーを操り、的確にキャラクターを動かしていく。時折、強敵に追い詰められては「わぁ、待って」と小さな悲鳴を上げるのが、堪らなく可愛らしい。  俺は、これが名前の「見せたいもの」の本当の意味なのだと、徐々に理解し始めていた。  バレーに打ち込む俺を見て、"遠い"と感じてしまった彼女。だから、今度は彼女が自分の世界――誰にも邪魔されない、名前だけの趣味の時間に、俺を招き入れてくれたのだ。俺の知らない、苗字名前の一面。それを共有してくれている。  その事実が、どんな甘い言葉よりも、どんな熱いキスよりも、俺の胸を温かく満たしていった。  ゲームの世界で、俺達は何度も窮地に陥り、その度に力を合わせて乗り越えた。俺が前衛で敵の攻撃を受け止め、名前が後方から魔法で援護する。その連携は、瀬見さんのトスに合わせるよりも、或る意味で濃密な一体感があった。  不意に洞窟の奥深く、泉水が湧き出る神秘的な場所で、名前がキャラクターを動かす手を休めた。画面の中では、泉の精霊らしき美しい女性が、何かを囁いている。 「ねぇ、工くん。今、なんて言ったのか聞こえた?」  名前がモニターから目を離さずに尋ねる。俺は敵の奇襲に備えて周囲を警戒していた所為で、その台詞を聞き逃していた。 「いや、聞こえなかった。なんて言ってたんだ?」 「ううん」  名前は悪戯っぽく微笑んで、コントローラーを握り直した。 「届かないなら、聞かなくていいから」  その声は、ゲームのBGMに溶けてしまいそうな程、ささやかだった。  それが精霊の台詞だったのか、それとも彼女自身の言葉だったのか、俺には判別がつかない。  でも、それで良かった。無理に訊こうとは思わなかった。分からない部分があるからこそ、もっと知りたくなる。その探究心が、俺を何度でも彼女に恋させるのだ。  俺はグラフィックの奥で蠢く敵影を見据えながら、ぽつりと呟いた。 「名前」 「うん?」 「……好きだ」  それは何の脈絡もない、只、心の底から溢れ出た告白だった。  コントローラーを操作するカチカチと云う音が、一瞬、止まる。 「……わたしもだよ、工くん」  小さくても、確かな温もりを持った返事が、すぐ傍から聞こえた。  俺は、名前を抱き寄せる代わりに、ゲームの中のキャラクターを、彼女のプレイアブルキャラの前に移動させた。どんな魔王が相手だろうと、このナイトが姫君を護り抜いてみせる。  エースになること。そして、名前の隣に立ち続けること。  俺の世界を構成する二つの心臓は、完璧なリズムを刻みながら、力強く脈打っていた。


Back | Theme | Next