
麦茶と泥水と、好きの話。
※兄貴と弟が登場します。
俺、五色工の肉体を構成する細胞の一つひとつが、今、この瞬間を待ち侘びていた。
体育館の床に叩き付けるボールの衝撃音、チームメイトの汗の匂い、鷲匠監督の雷のような檄。それら全てが遠い世界の出来事めいて感じられる程、俺の意識は一点に集中していた。即ち、これから逢う俺の恋人、苗字名前のことへだ。
練習後の気怠い疲労感も、火照った身体を撫でる夕暮れの風も、今の高揚感の前では、只の静かな添え物に過ぎない。寮への道を外れ、名前が暮らすマンションへと向かう足取りは、翼でも生えたかのように軽かった。白鳥沢のウイングスパイカーである俺だが、今ほど空を飛びたいと思ったことはない。
ピンポーン、と軽やかな電子音を鳴らす。数秒の間が、やけに長く感じられた。逸る心臓を宥めるよう、深呼吸を一つしたところで、カチャリと云う開錠音の後、静かにドアが開いた。
「工くん。待っていたよ」
そこに立っていたのは、紛れもない俺の女神、名前だった。
部屋の柔らかな照明を背にした彼女は、まるで光そのものから誕生したかのようで、俺は一瞬、息を呑んだ。丁寧に切り揃えられた前髪の下で、静かな湖面を思わせる双眸が、俺を捉えている。その瞳が、俺だけを映す瞬間の、微かな揺らぎが好きだった。
「名前! ただいま!」
「うん、お帰りなさい。練習、お疲れ様」
そう言って微笑む彼女の唇は、熟れる前の桜桃に似た淡い色をしている。その唇に吸い寄せられるように顔を近づけた、その時だった。
ふわり、と彼女が身を引いた。
ほんの数センチ。だけど、俺達の間には、マリアナ海溝よりも深く、絶望的な距離が生まれたように感じられた。
「……名前?」
彼女は黙ったまま、俺をリビングへと促した。その横顔はいつも通り美しかったが、どこかガラス細工染みた危うさを孕んでいるように見えた。俺の知らない、薄氷の上に立っている、そんな表情。
(な、なんだ……? 俺、何かしたか……!?)
ソファに腰を下ろしてから、俺の脳内では緊急対策会議が始まっていた。議題は勿論、『苗字名前の機嫌を損ねた可能性のある、俺の言動について』。
昨日のメッセージか? 「おう!」の一言で返したのが、武骨過ぎた? いや、でも、その後に筋肉のスタンプを送ったら、笑っているウサギのスタンプが表示された。あれはセーフだった筈だ。
だとしたら、一昨日の電話か? 日本のエースのスパイクが、如何に凄いかを熱弁し過ぎた? いや、でも、名前はいつも「工くんが楽しそうで、何よりだよ」と微笑んでくれる。
「工くん、何を飲む? 麦茶か、それとも……」
「あ、いや、何でもいい! 名前が淹れてくれるものなら、泥水でも飲む!」
「ふふ、泥水は用意しないかな。じゃあ、麦茶にするね」
くすりと笑う彼女の声は、夏の風鈴みたいに涼やかだ。だが、その笑顔には常のような、俺の心を根こそぎ持っていく引力がない。薄いヴェールを一枚、隔てているかの如く。
俺の焦りは、秒速で頂点へと駆け上がっていく。
「先頭文字、名前! 今日の練習、俺、絶好調だったんだ! 特にクロス! 白布さんのトスがまた絶妙で、相手のブロックを寸分違わず抜けて……!」
「そう。良かったね」
「それから、朝飯のカレイの煮付け! 寮の食堂で出たんだが、やっぱり名前の家の、あの……小母さん? いや、お手伝いさん? が作るヤツが、一番美味いよな!」
「うん、今度、また作ってもらえるように言っておくね」
駄目だ。全然、響いていない。俺の渾身の話題提供は、彼女の心の壁に当たって、ぽとりと虚しく床に落ちる。完璧な三枚ブロックにシャットアウトされた気分だった。
どうする、五色工。このままではジリ貧だ。何か、何か起死回生の一手を……!
「やあ、未来の義弟殿。今日も前髪がキマっているね」
思考の渦に沈み掛けていた俺の耳に、呑気な声が届いた。振り返ると、そこには名前の兄、兄貴さんが立っていた。今日のTシャツには、胸元に大きく『人生、大体、気のせい』と書かれている。相変わらず、センスが独創的の極みだ。
「兄貴さん、こんにちは!」
「うん、こんにちは。……おや? どうしたんだい、二人共。まるで、最終回一つ前の、擦れ違い捲っているメロドラマの登場人物みたいな空気じゃないか」
「そ、そんなことないです!」
兄貴さんは面白そうに目を細めると、俺の隣にどかりと腰を下ろした。
「まあ、いいさ。今、俺は新しい絵本の構想を練っているんだ。『空飛ぶカレイと、恋を知らないサメ』と云うタイトルでね。カレイは空を飛べないと思い込んでいるだけで、本当は誰よりも高く飛べる才能を秘めている。サメは海の王者だけど、たった一つの愛を知らない。そんな二匹が出逢って……」
「兄貴兄さん、工くんが困っているよ」
名前が静かに窘めるが、兄貴さんはどこ吹く風だ。
「愛だよ、工くん。愛の言葉は、出し惜しみしちゃいけない。腐るものじゃないんだから、何度だって伝えるべきなんだ。そうだろう?」
愛の言葉。
その一言が、雷鳴のように頭に轟いた。そうだ。俺は、今日ここに来てから、まだ一度も彼女に「好き」だと伝えていない。こんな基本的なことを忘れていたなんて、俺はウイングスパイカー失格だ。いや、彼氏失格だ。
俺はソファから勢い良く立ち上がると、名前の前に仁王立ちになった。
「名前!」
「……なに?」
彼女の双眸が、少しだけ見開かれる。その僅かな変化を見逃さなかった。今だ。今しかない。
「俺、お前のこと……!」
好きだ、と言い切る前に、名前が粛と首を横に振った。俯きながら、ぽつり、と呟く。
「……ごめんね、工くん。わたしが、勝手に不安になっていただけなんだ」
え、と俺が間抜けな一音を出すと、名前は伏せていた顔を上げた。その瞳は、雨上がりの夜空のように潤んでいて、星屑に似た光が揺らめいていた。
「工くんがバレーに打ち込んでいる姿は、世界で一番格好良いと思ってる。本当に。でも、時々、凄く遠くに感じてしまうんだ。工くんの世界の中心は、あの体育館で、あのボールで……。わたしは、その世界の隅っこに、ちょこんと置かれているだけなんじゃないかって」
名前の指が、ぎゅっとスカートを握り締める。その白い指先を見て、俺は自分の愚かさを呪った。
俺が不安にさせていたのか。俺の配慮のなさが、名前をこんな気持ちにさせていたのか。
「……馬鹿だな、俺」
気づけば、俺は彼女の華奢な身体を、壊れ物を扱うようでいて、逃すまいと力強く抱き締めていた。名前の甘くて清潔な香りが、鼻腔を擽る。
「そんなわけ、ないだろ……」
俺は彼女の耳元で、囁くように、いや、祈るように言った。
「隅っこなわけがない。ど真ん中だ。名前は、俺の世界の、ど真ん中に居る」
「……でも」
「俺は、白鳥沢のエースになる。牛島さんを超えるエースに。それは絶対に譲れない目標だ。でもな、名前。俺の人生のエースは、お前だけだ。昔も、今も、この先も、ずっと」
巻き付けた腕に、更に力を込める。彼女の震えが、少しだけ収まった気がした。
「バレーも名前も、どっちも一番なんだ。俺にとっては、心臓が二つあるようなものだ。どっちか一つなんて、選べるわけがない。選ぶ必要もない。どっちも、俺が生きていく上で、絶対に必要なんだ」
だから、と俺は続けた。
「不安にさせて、ごめん。でも、信じてくれ。俺の言葉を」
一度、身体を離して、名前の潤んだ双眸を真っ直ぐに見つめる。そして、告げた。今日、ずっと伝えられなかった、世界で一番大切な言葉を。
「好きだ、名前」
彼女の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。それを親指で優しく拭う。
「もう一回、言う。好きだ」
もう一粒。
「何度だって言う。お前が、もういいって言うまで、言ってやる」
俺は彼女の頬に手を添え、囁いた。
「何度も、何度も、何度だって。……好きだ、名前。世界中の誰よりも、お前が好きだ」
次の瞬間、俺の唇は、彼女の柔らかな唇に塞がれていた。それは、今まで交わしたどんなキスよりもしょっぱくて、甘い味がした。
長い口づけの後、漸く顔を離した名前は、頬を桜色に染めて、悪戯っぽく微笑んだ。それは、俺が世界で一番好きな、ヴェールのない、素の笑顔だった。
「……じゃあ、わたしのことも、もっと知ってほしいな」
「え?」
「工くんにだけ、見せたいものがあるの。わたしの部屋に来て」
その言葉の意味を噛み砕くのに、コンマ数秒。正確に理解した瞬間、俺の顔面にぶわりと熱が集まるのが分かった。心臓が、試合の最終セット、デュースの場面よりも激しく脈打っている。ああ、これは、もう……。
「おい、そこのバカップル。リビングで、そう云う雰囲気を出すな。見てるこっちが恥ずかしい」
不意に聞こえた呆れ声の方を振り返ると、いつの間にか、名前の弟の弟が立っていた。いつも通りにカーディガンを羽織り、腕を組んで、心底うんざりした表情でこちらを見据えている。
「弟!? いつからそこに……!」
「最初からだよ。兄貴の奇行と、五色の空回りと、名前の面倒臭いところ、全部見てた」
「め、面倒臭くない!」
「はぁ……。まあ、いいや。義兄さん、姉さんをあんまり泣かせないでくれよな」
ぶっきら棒にそう言い放ち、弟は冷蔵庫からジュースを取り出して、自室へ消えていった。
……義兄さん。
今、確かにそう呼ばれた気がする。
「……だって、工くん」
目の前で、名前が幸せそうに笑っている。
もう、彼女の瞳に、不安の色はない。
俺はこの笑顔を守る為なら、なんだってできると思った。
エースになること。名前の隣に立ち続けること。
その為に、俺は強くなる。
「……名前」
「うん?」
「もう一回、言っていい?」
「……ふふ、何度でも、いいよ」
俺はもう一度、彼女を抱き寄せた。
そうだ。愛の言葉は腐らない。
だから、これからも伝え続けよう。
何度も、何度も、何度だって。
この想いの全てを、君に。