
星屑のような自己否定を宝物に変える、優しい奇跡。
体育館の床に叩き付けられたボールの轟音が、鼓膜の奥で不協和音のように反響していた。
汗で滑つく肌を撫でる空気は生温く、俺の不甲斐なさを嘲笑っているかのようだ。ネットの向こう側、聳え立つブロックの壁。渾身の力で放ったストレートは、いとも容易く分厚い掌に絡め取られ、無慈悲な角度で自陣のコートに突き刺さった。
「……っくそ!」
歯噛みする音は、他の部員の掛け声や、ボールが跳ねる環境音の渦に呆気なく掻き消される。悔しい。ただ只管に、骨の髄まで染み渡る程に悔しい。もっと鋭く、もっと重い一撃を。あの人のように、どんな鉄壁も力で捻じ伏せられる、絶対的な破壊力を持つ一球を。
脳裏に焼き付いて離れないのは、不動のエース、牛島さんの背中だ。それはまるで、夜空に唯一つ、燦然と輝く一等星。どれだけ高く跳び上がろうと、どれだけ必死に手を伸ばそうと、決して届くことのない、遥か彼方の恒星。
それに比べて、俺は何だ。
星になろうと空へ舞い上がっても、結局は重力に引かれて地面に落ち、虚しく泥に塗れるだけの、名もなき石ころじゃないか。価値のない、屑じゃないか。
「工、メンタル引き摺るな! 次、切り替えろ!」
「……はいッ!」
鷲匠監督の容赦ない檄が、冷水のように思考を叩く。そうだ、落ち込んでいる暇などない。次こそは。そう自分に幾度となく言い聞かせても、一度、心にこびり付いた焦燥感は、乾いたタールの如き執拗さで、思考にねっとりと絡み付いて剥がれない。
へとへとに疲弊した身体を引き摺り、部室棟の扉を開ける。ひやりとした夜気が、制服越しに肌を刺した。空は深い藍色に染まり、一番星が遠慮がちに瞬いている。あの光は、何万光年も昔に放たれたものなのだと、いつか、名前が教えてくれた。今、俺の網膜に届いている輝きは、遠い過去の幻影。俺が追い駆けている、あの人の巨大な背中みたいだ。
ポケットの中で震えたスマートフォンを取り出すと、短いメッセージが一件。
『校門の前で待ってる』
俺の恋人、苗字名前からの、たった九文字の連絡。それが来ただけで、鉛のように重かった足取りが、ほんの少しだけ、本当に僅かだけれど、軽くなるのを感じた。
俺のエースへの道が、星屑のように朧気で不確かなものであっても、名前だけは、俺と云う存在を確かに照らしてくれる。それは太陽のように目を焼くのでも、月のように冷たく輝くのでもない。もっと穏やかで、心のささくれをそっと撫でてくれるような、温かい光だ。
校門の傍ら、古びた外灯が放つ淡い明かりの円の中に、彼女は立っていた。
夜の闇に溶けてしまいそうな程、白い肌。風にさらさらと揺れる髪は、周囲の光彩を吸い込んで、柔らかく艶めいている。只、そこに佇んでいるだけで、辺りの喧騒が嘘のように静まり返る、不思議な存在感。
俺の姿を認めると、血の気を帯びた唇が、小さな花が開くように綻んだ。
「工くん、お疲れ様」
「名前……待たせたか?」
「ううん、わたしも、今来たところ。図書室で本を読んでいたから、時間はあっと言う間だったよ」
そう言って、彼女が示した文庫本には、哲学的な響きを持つ、小難しい題名が印字されている。俺には、到底理解できそうにない世界だ。だけど、名前がその世界に没頭している様子を想像すると、強張っていた口許が自然と弛んだ。
「今日は、どうだった? バレー」
「……ああ、いつも通りだ」
本当は、最悪だった、と吐露してしまいたかった。何もかも上手くいかなくて、自分がとんでもなく無力で、惨めな人間に思えた、と。でも、そんな弱音を吐いて、名前をがっかりさせたくはなかった。エースを目指す男が、そんな情けない姿を見せるわけにはいかない。
俺の虚勢を見透かしたように、名前は何も返さず、俺の少し前方を歩き出した。
コツ、コツ、と彼女のローファーがアスファルトを叩く軽やかな靴音だけが、クリアな音階で耳に届く。学校を出て、緩やかな坂道を下る。商店街のけばけばしいネオンが、今日の敗北感で灰色に沈む俺の視界をちかちかと刺激した。楽しそうに笑い合うカップル、塾帰りの学生達の甲高い声。世界の全てが、俺とは違う時間、違う次元を生きているように思えた。
俺は、そんな外界の喧騒から逃れようと、前を歩く、名前の背中だけを見つめた。夜風に揺れる、絹糸めいた髪。薄い肩。あの巨大な背中を追い駆ける時みたいな、胸を焼く焦燥感はない。只、その小さな後ろ姿が、騒がしい世界と、俺との間に引かれた境界線のように感じられた。
不意に、名前が立ち止まる。赤信号。俺が追い付いて隣に並ぶと、彼女はふと空を見上げた。釣られて視線を上げても、そこには星一つ見えない。街の灯りが、夜空本来の輝きを、全て白々しく塗り潰してしまっている。
「……見えないね」
ぽつりと、名前が呟いた。何が、とは言わない。でも、俺には分かった。
「ああ」
短く応える。そうだ、ここからでは見えない。強過ぎる光は、本当に大切なものを隠してしまう。今の、俺みたいに。
青信号に変わり、再び歩き出す。もうマンションは目と鼻の先だ。寮暮らしの俺にとって、名前の家で過ごす時間は、心が裸になれる唯一の聖域だった。
エントランスの自動ドアが、すうっと風を切って開く。一歩足を踏み入れた途端、街の騒めきが嘘のように遠ざかり、しんとした静寂が、俺達を包んだ。外の世界から、完全に切り離された感覚。その静けさの中、二人きりで無機質なエレベーターに乗り込む。ふわりと、名前のシャンプーの香りが鼻腔を擽った。柔く澄んだ、清潔な匂い。さっきまでの焦燥感が、彼女の清冽な気配に溶かされていく錯覚に陥る。
無意識に身を寄せると、名前が不思議そうにこちらを見上げた。夜の海を想起させる、深い色の双眸に、俺の姿が映り込んでいる。その瞳に見つめられるだけで、心臓が持ち主を裏切って暴れ出す。思春期特有のどうしようもなく甘い衝動が、身体の芯をじりじりと熱くする。
「……工くん、顔が赤いよ。熱でもあるの?」
「なっ、ない! これは、その、練習で火照ってるだけだ!」
「ふぅん、そう」
納得したのかしていないのか、名前はあっさりと視線を正面に戻した。ちん、と軽やかな到着音を立て、エレベーターの扉が開く。
苗字家はいつ訪れても、彼女らしい静謐な空気に満ちていた。窓辺には、丁寧に手入れされた瑞々しい観葉植物が並び、壁一面の本棚には、国内外の小説から分厚い専門書までが秩序正しく、ぎっしりと詰まっている。ローテーブルの上には、テレビゲームのコントローラーが二つ。俺が来るのを見越して、準備してくれていたのだろうか。
「何か飲む? カフェオレでも淹れようか」
「あ、ああ。頼む」
キッチンに向かう華奢な背を眺めながら、俺はソファに深く沈み込んだ。途端に、堰を切ったようにどっと疲れが押し寄せる。今日一日の出来事が、悪夢の如く頭を駆け巡る。ブロックされたスパイク。牛島さんの圧倒的な存在感。星になれない自分の、どうしようもない無力さ。
ふと見上げれば、大きな窓の外に、幾つかの星がぽつりぽつりと瞬いていた。商店街の光害に邪魔されない、澄み切った夜空。綺麗だ、と思うと同時に、その遠い光輝が、俺と云う存在のちっぽけさを際立たせるようで、胸がぎゅうっと苦しくなった。
「はい、どうぞ」
マグカップを差し出され、はっと我に返る。立ち昇る湯気と共に、香ばしいアロマが鼻腔を掠めた。
名前は、俺の隣に、少しだけ距離を空けて座った。それ切り、会話はなく、窓枠に切り取られた星空を眺めている。その沈黙が心地良くもあり、同時に些か気まずくもあった。
「……名前は、星、好きだよな」
「うん。見ていると落ち着くから」
「……あんなに、遠くにあるのにな」
「遠いから、いいんじゃないかな。決して手が届かないからこそ、人は焦がれるんだと思う」
名前の何気ない言葉が、鋭い棘となって、ぐさりと胸に突き刺さった。
手が届かないから、焦がれる。
そうだ。俺は、牛島さんに焦がれている。あの圧倒的な強さに。決して届かないと、心のどこかで理解しているからこそ、追い駆けずにはいられない。
「……俺は、屑だ」
自分でも嫌になる程、か細く、情けない声が出た。口にしてしまった途端、激しい後悔が津波のように押し寄せる。違う、こんなことを言うつもりじゃなかった。
名前が、ゆっくりとこちらを向いた。驚きの滲んだ、でも、どこか全てを察していたような、不思議な表情で。
「俺は、あの人みたいにはなれない。どれだけ練習しても、どれだけ喉が張り裂けるほど叫んでも、あの人の足許にも及ばない。エースなんて、口だけだ。結局、俺は……星になんてなれない、只の屑なんだ……!」
決壊したダムのように、次から次へと弱音が溢れ出す。嘆かわしい。カッコ悪い。こんな俺を見て、名前は幻滅しただろうか。軽蔑するだろうか。
俯けた視界に、名前の雪のように白い指先が映る。その指が、ぶるぶると震える俺の拳に、優しく重ねられた。
工くんの言葉は、しんと静まり返った部屋に、重たい石のように落ちた。
揺らぐ声。血が滲みそうな程に固く握り締められた拳骨。いつも自信に満ち溢れている筈の彼の、初めて見る脆い姿。
わたしは、工くんの手の甲に、そっと自分の手指を重ねた。想像よりもずっと熱くて、小刻みに振れている。彼の行き場のない苦しみが、その熱と震えを通して、わたしの皮膚にまで沁みるようだった。
「屑、なんかじゃないよ」
わたしの声音は自分で思うより、ずっと穏やかに響いた。
工くんは顔を上げない。ぱっつんに切り揃えられた黒髪が、彼の表情を深い影の中に隠している。
「工くんは、屑なんかじゃない」
「……でも、俺は……!」
「うん」
わたしは静かに相槌を打った。今度は否定も肯定もせず、只、工くんの言葉を、彼の痛みを、そっくりそのまま受け止める。
工くんの言う「星」が誰のことなのか、わたしは知っている。白鳥沢の絶対的エース、牛島若利。工くんが焦がれながらも、妬け付くような熱を孕んだ眼差しで、あの大きな背中を見つめていることを、わたしは知っている。
手が届かないから、人は焦がれる。
先程、自分が口にした科白が、ブーメランのように突き刺さった。
わたしにも、焦がれた星が在った。それは、ごく普通の、誰もが当然のように享受する日常。
幼い頃、わたしは病弱で、殆どの時間を無機質なベッドの上で過ごした。窓の外で土埃に塗れながら、元気に駆け回る子供達の姿を、何度、羨んだか分からない。皆と同じように学校へ行き、友達を作り、他愛ない話で笑い合いながら、放課後に寄り道をする。そんな、誰しもが当たり前に手に入れられる筈の輝きが、わたしにとっては遥か彼方の星だった。
わたしも、星になれなかった。星になれなかった、屑。あの頃は、本気でそう感じていた。
だから、工くんの痛みが、ほんの少しだけ、自分のことのように分かる気がした。
「ねぇ、工くん」
わたしは重ねた手に、一寸だけ力を込めた。彼はびくりと肩を揺らしたが、振り払いはしなかった。
「ベガって云う星を知っている?」
「……ベガ?」
「うん。七夕の織姫星のこと。夏の大三角の一つで、青白く、とても明るく輝く星だよ」
「……ああ」
「でもね、ベガは、一万二千年後には、今のポラリス……北極星の代わりに、天の北極に一番近い星になるんだって。未来の、北極星なの」
工くんが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は不安気に揺蕩い、試合の時の猛禽染みた鋭い眼光はどこにもない。帰り道を見失った、迷子のように頼りない眼差しだった。
「今の工くんは、まだ恒星になろうとしている途中の、生まれ立ての原始星なのかもしれない」
「生まれ立て……?」
「うん。宇宙に漂う沢山のガスや塵が、時間を掛けて集まって、自分の重力で熱を持って、これから光り輝こうとしている星。今はまだ不安定で、自分の光を見つけられなくて、周りの大きな星の引力に引っ張られて、苦しいのかもしれない」
わたしは言葉を一つひとつ選びながら、丁寧に話す。本棚の肥やしになっていた天文学の本の知識が、こんなところで役に立つなんて思わなかった。
「でも、工くんはちゃんと熱を持っている。誰にも負けないくらい、熱い情熱を持ってる。わたしは、それを知っているよ」
「……名前……」
「工くんの打つストレートは、本当に凄い。今まで、わたしが見たどんなものより、速くて、鋭くて、綺麗。まるで夜空を切り裂く流星みたいだって、いつも思ってる」
「!」
「それに、工くんはいつも直向きで、自分の弱さから決して逃げない。悔しいって、ちゃんと言葉にして泣ける。それって、凄く強いことだと、わたしは思う。誰にでもできることじゃない」
わたしは、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。お世辞じゃない。駆け引きでもない。わたしの、心の底からの本当の気持ち。
「わたしにとっては、牛島さんよりも、他の誰よりも、工くんのバレーが一番かっこいい。工くんの打つ一本一本が、わたしにとっては一番星なんだよ」
彼の双眸が、大きく見開かれる。そこに、じわりと涙の膜が急速に張っていくのが見えた。
あ………泣かせてしまったかな。でも、工くんの頬を静かに伝ったのは、悔し涙とは違う、もっと温かくて、澄んだもののように感じられた。
「だから、屑、なんて言わないで。わたしの星を、屑だなんて言わないでほしい」
そう続けると、彼は黙したまま、長い腕でわたしを強く抱き締めた。
彼の硬い胸に頬を埋めると、制汗剤と、柔軟剤と、工くん自身の匂いが混じり合った、安心する香りがした。彼の心臓が、どく、どくと力強く脈打っているのが、わたしの身体にまで浸透する。それは生きている音。彼が、今もここで、必死に藻掻き、足掻いている紛れもない証。
「……名前」
「うん」
「……ありがとう」
くぐもった声が、わたしの髪に雨粒のように落ちる。
わたしは黙って、工くんの大きな背中にそっと両腕を回した。
星になれなかった者同士。
それで、いいのかもしれない。
完璧な星になんて、ならなくていい。届かない光に焦がれて、自分と云う存在を見失ってしまうくらいなら。
わたしは、今のままの、不器用で、熱くて、時々、どうしようもなく脆くなる、この工くんが好きなのだから。
「工くん」
「……なんだ?」
「工くんがもし、自分のことを屑だと思うなら」
「……ああ」
「わたしが、その屑を一つ残らず拾い集めて、全部、わたしの宝物にする」
わたしの宣言に、彼は腕の力を少しだけ緩め、顔を覗き込んだ。その目は僅かに赤いけれど、先程までの頼りなさは消え失せて、普段の力強い煌めきが戻りつつあった。
「……お前、ほんと、そう云うこと言うよな……」
「本心だよ」
「……敵わねぇ」
そう呟いて、工くんはふっと息を漏らすように笑った。それは、常の自信満々な笑顔とは違う、一寸だけ照れたような、酷く優しい微笑だった。
工くんの顔がゆっくりと近づき、唇に柔らかいものが触れた。カフェオレの馨りがする、とても穏やかなキスだった。
夜空には、無数の星が瞬いている。
そのどれか一つが、未来の彼なのかもしれない。
ううん、違う。
わたしの星は、今、この腕の中に居る。
だから、わたしの世界は、こんなにも眩しく輝いているのだから。
