39.破けたゴミ袋から落ちる宝石

兄貴の描写、白鳥沢学園の象徴の捏造が含まれます。

 体育館の床を叩くボールの衝撃音、仲間達の雄叫び、鷲匠監督の檄。それらが渾然一体となって鼓膜を揺らす喧騒が、今はもう遠い。部活後の気怠い疲労感を全身に纏わり付かせながら、俺は寮とは逆方向、夕闇がじわりと滲み始めた坂道を登っていた。目指すは、恋人である苗字名前が住むマンションだ。  今日の練習も、自分としては決して悪くはなかった。牛島さんと云う絶対的な指標が去った現在、白鳥沢を背負うエースは俺なのだと、その自負が身体の芯を熱くする。だけど、練習着を脱ぎ捨て、名前の彼氏である五色工と云う一個の男に戻った瞬間、その熱は急速に凪いでいく。代わりに胸を満たすのは、エースとしての自信とは似ても似つかぬ、漠然とした心許なさだった。  原因は分かっている。来週末に控えた、名前の誕生日だ。  何を贈れば、彼女は喜んでくれるだろうか。  俺の脳内会議は、ここ数日、この議題で紛糾し、停滞し、解散することを繰り返していた。  名前は所謂"お嬢様"だ。俺が住む寮や実家のマンションとは次元が違う、要塞のような建物に兄と二人で暮らしている。彼女が普段、身に着けているもの、読んでいる本、聴いている音楽。そのどれもが、俺には到底計り知れない価値と審美眼に裏打ちされているように思えた。  そんな彼女に、俺のような高校生が小遣いで買えるアクセサリーや小物を贈ったとして、果たして心から喜んでもらえるのだろうか。名前の白い指や繊細な首筋を飾るには、余りに不釣り合いではないだろうか。  そんな考えが、鉛のように思考を重くする。 「……気持ち、だよな」  誰に言うでもなく呟き、自分で自分を鼓舞する。そうだ、大切なのは金額じゃない。気持ちだ。名前だって、きっとそう答えてくれる。  分かっている。分かっているけれど、プライドが邪魔をするのだ。彼女の隣に立つ男として、みっともない真似はしたくない。エースと呼ばれるからには、私生活だってエース級でありたい。……まあ、白布さん辺りに聞かれたら、「どの口が言ってんだ」と一蹴されるのがオチだろうが。  そんな葛藤の末、俺が捻り出した結論は"手作りのプレゼント"だった。これならば、世界に一つしかない。俺の気持ちを、これでもかと詰め込める。完璧な出来栄えでなくとも、そのプロセスこそが価値になる筈だ。  そう思い立ったが吉日。俺は慣れない手つきで石粉粘土を捏ねた。モチーフは勿論、我らが白鳥沢の象徴、白鳥だ。天童さんが「若利くんみたいに無表情な鳥だネ」と笑いそうな、凛々しく、力強く、美しい白鳥を。  ――その筈だった。  完成したのは、白鳥と呼ぶには余りに不格好な、謎の生命体だった。  首は妙な角度に曲がり、嘴は潰れ、純白の筈の体には、乾かす際に付着したのか、黒い繊維のようなものが練り込まれてしまっている。クロスを打とうとして、盛大にブロックに叩き付けられたボールのような、無惨な姿だった。  俺は愕然とした。数日掛けた努力の結晶が、これか。  これを、名前に?  冗談じゃない。こんなもの、見せることすらできない。これはプレゼントなどではない。ただのゴミだ。  羞恥と自己嫌悪で、顔から火が出そうだった。俺はそれを、他のゴミと一緒に黒いビニール袋に詰め込み、口を固く縛った。寮のゴミ捨て場に捨てるのは、万が一にも誰かに見られる可能性があって憚られた。だから、こうして、名前の家へ向かう道中、彼女のマンションのゴミ捨て場にこっそり捨ててしまおうと画策したのだ。  我ながら、情けないにも程がある。  目的のマンションが見えてきた。ガラス張りのエントランスが、夕暮れの最後の光を反射して物憂げに輝いている。俺は人目を忍んで足早に通用口へと回り、居住者用のゴミ集積所へと向かった。幸い、周囲に人影はない。  よし、今だ。  俺は手に提げていたゴミ袋を、大きなコンテナ目掛けて投げ入れようとした。その刹那。  ガサッ、ビリッ! 「あっ」  間の抜けた声が出た。なんと、ゴミ袋の端が、収集日を示す看板の金具に引っ掛かったのだ。勢いを殺せなかった袋は、無慈悲な音を立てて裂け、中身がアスファルトの上へと無様にぶちまけられた。  ゴミの匂いが、ふわりと鼻を突く。最悪だ。  そして、そのゴミの山の中から、コロリ、と一際白く、不格好な塊が転がり出た。  ――例の白鳥だった。 「うわっ、ちょっ……!」  俺は狼狽した。心臓が試合の最終セット、デュースの局面みたいに煩く脈打つ。誰かに見られる前に、早く、早く回収しなければ。  俺が慌てて、それに手を伸ばした、正にその時だった。 「工くん?」  背後から凛と澄んだ、世界で一番大好きな声がした。  振り向けば、そこに立っていたのは、紛れもない名前だった。薄手のカーディガンを羽織り、不思議そうな顔でこちらを見つめている。夜の海を連想させる瞳が、俺と、俺の足元に散らばるゴミの残骸と、そして――無様に転がる白い塊を、真っ直ぐに捉えていた。 「先頭文字先頭文字先頭文字名前!?」 「うん。どうしたの、そんなに慌てて。ゴミが散らかっているけれど」  マズい。マズいマズいマズい。選りにも選って、一番見られたくない相手に、一番見られたくないものを見られてしまった。顔中の血液が沸騰し、耳まで真っ赤になっているのが、自分でも分かる。 「な、なんでもない! これは、その、俺がやるから、名前は先に部屋に戻ってて!」 「でも、手伝うよ」 「だ、大丈夫! 汚いから! 触らないで!」  必死に彼女を遠ざけようと、両手を広げて立ち塞がる。しかし、名前は俺の制止など意にも介さず、ふわりと身を屈めた。そして、華奢な指先が、躊躇いなくアスファルトの上に転がる"それ"を拾い上げたのだ。 「あ……!」  終わった。俺の矮小なプライドは、今、名前の目の前で木っ端微塵に砕け散った。  もう、いっそ殺してくれ。
 わたしの目の前で、工くんが茹蛸みたいに真っ赤になって固まっている。大きな身体を精一杯小さくして、何かを必死に隠そうとする姿が、巣穴を見つけられた大型犬のようで、少しだけ面白いと思ってしまった。ごめんね、工くん。  彼の足元には、破れたゴミ袋と、そこから零れ落ちたらしいもの達が散らばっていた。そして、その中で一つだけ、異質な光を放つものがあった。  わたしがそれを拾い上げると、工くんは「あ」と短い悲鳴を上げた。その顔には、絶望と云う二文字がくっきりと浮かんでいる。  わたしの掌に収まったのは、粘土で作られた、小さな白い鳥の置物だった。  お店で売っているような、完璧な造形ではない。首は些か傾いでいるし、翼は左右の大きさが異なっている。よく見れば、表面には指の跡が幾つも残っていて、白い体には細かな黒い点々が混じっている。  工くんはきっと、これを"失敗作"だと思っているのだろう。だから、こんな風に捨てようとしていた。彼の真面目で、熱心で、少しだけ不器用な性格を思えば、想像に難くない。  けれど、わたしの目には、それが全く違うものに見えていた。  わたしは掌の鳥を、そっと光に翳してみる。夕暮れの淡い光が、その無骨な表面を柔らかく照らし出した。 「……綺麗だね」  ぽつりと呟いた言葉は、自分でも驚く程に素直な響きをしていた。  工くんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、わたしを見る。 「え……? 綺麗? どこがだよ!? 形は歪だし、色だって……これ、失敗作なんだ! ゴミ、だから!」  工くんは必死に弁解する。その内容が、彼がどれだけ心を込めて、これを作っていたのかを、何より雄弁に物語っていた。わたしは、ふふ、と小さく笑みを零す。 「ゴミじゃないよ」 「で、でも……!」 「この、少し傾いだ首がいい」  わたしは人差し指で、そっとその首筋をなぞった。 「まるで、何かを探して、空を見上げているみたい。これからどこへ飛んでいこうか、一生懸命考えているみたいで。わたしは好きだよ」 「え……」 「この、歪な翼も。必死に羽ばたこうとしている、力の込め方が伝わってくる。工くんのスパイクみたいだね。凄く、力強い」 「お、俺の、スパイク……」 「うん。それに、この指紋の跡。工くんが、こうして一つひとつ、指で形を作ってくれたんだなって分かるから、とても愛おしい」  わたしは、その鳥を胸元で抱き締めるようにして、両手で包み込んだ。粘土のひんやりとした感触と、確かな重みが伝わる。 「この黒い点々だって、夜空に瞬く星みたいに見える。真っ白なだけじゃない、工くんだけの空を飛ぶ鳥なんだね。わたしにとっては、どんな高価な宝石よりも、ずっとずっと価値があるよ。世界でたった一つの、宝物だから」  工くんは何も言わずに、ただ大きく目を見開いて、わたしを凝視していた。彼の凛々しい眉が情けなく下がり、その鋭い眼差しが、ゆらゆらと頼りなげに揺れている。やがて、その瞳にじわりと熱いものが込み上げるのが見受けられた。 「……名前」  掠れた声で、工くんがわたしの名前を呼ぶ。  わたしはにっこりと微笑んで、もう一度、掌の宝物を彼に見せた。 「だから、これは、わたしが貰うね。わたしへの誕生日プレゼント、これでしょう?」  確信を持ってそう訊くと、工くんは大きく喉を鳴らした。そして、堰を切ったように、その顔をくしゃりと歪ませる。 「……うん」  やっとのことで絞り出したような返事は、喜びと、安堵と、少しの照れ臭さが溶け合った、とても工くんらしい音をしていた。  結局、散らばったゴミは二人で片付けた。部屋に戻ると、工くんは先程までの情けない表情が嘘のように、ぎゅう、と力強く、わたしを抱き締めた。彼の胸に頬を埋めると、練習後の制汗剤の匂いと、彼の匂いが混じり合って、とても安心する。 「名前、あの……ありがとう」 「どうして、お礼を言うの?」 「だって、俺……あんな、みっともないところ見せて……。でも、名前が宝物だって言ってくれたから……凄く、嬉しくて……」 「本当のことだよ。工くんが、わたしのことを想って作ってくれた時間も、その気持ちも、全部含めて、わたしにとっての宝物なの」  顔を上げると、至近距離で熱っぽい視線とぶつかった。あ、この目は知っている。試合で最高のスパイクを決めた時と同じくらい、或いはそれ以上に、きらきらと輝く双眸。その熱は、バレーボールに向けるものとは違う種類の、もっと甘くて、どろりとした情熱を孕んでいる。 「名前……」  工くんの低い声が耳を擽り、逞しい腕が、わたしの腰をぐっと引き寄せる。身体の芯が、彼の温度にじりじりと焼かれていくような感覚。わたしは彼の首に両腕を回し、その体温を、もっと欲しがるように身を寄せた。  破けたゴミ袋から零れ落ちた、不格好な白い鳥。  他の誰にも、価値が分からなくたっていい。  わたしだけが知っている。  工くんの不器用な指先が生み出したあの塊こそが、どんなダイヤモンドよりも眩い輝きを放つ、世界で一番尊い宝石なのだと云うことを。  そして、そんな宝石をくれる彼自身が、わたしの人生にとって、何物にも代え難い、掛け替えのない宝物なのだ。  唇が重なる寸前、そんなことを考えながら、わたしはそっと瞼を閉じた。


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