38.君を敷き詰めて眠る

※五色視点→名前視点。兄貴が登場します。

さよならの代わりに、雑炊とキーホルダーを添えて。

 どれくらい、そうしていただろうか。互いの心臓の音だけが響く静寂の中で、俺は腕の中の存在を確かめていた。シャンプーの甘い香りが鼻腔を擽り、全身の強張りが抜けていく。さっきまでの絶望が嘘のように、満たされた安堵感が身体の隅々まで染み渡っていく。 「ふむ、若さとは実にドラマチックで、少しばかり暑苦しいね。今夜は傑作が書けそうだ」  名前の背後から聞こえる兄貴さんの満足気な呟きも、今は心地良いBGMにしか聞こえない。俺は漸く両腕の力を弛め、名前の顔を覗き込んだ。涙で濡れた長い睫毛が、玄関の淡い照明に照らされて、きらきらと光っている。その潤んだ瞳が俺を映した瞬間、愛しさが爆発しそうになった。 「……工くん、びしょ濡れだね」  ふと我に返ったように、名前が俺の衣服の袖に触れた。彼女の指先が接した箇所から、じゅわりと冷たい雨水が滲む。そう云えば、途中から土砂降りの中を全力で走ってきたんだった。感情の昂りに任せていた所為で、寒さなんて微塵も感じていなかった。 「このままでは、風邪を引いてしまうよ。お風呂で温まって」 「えっ!? いや、でも、そんな迷惑……!」 「迷惑じゃないよ。工くんが心配なの。それとも、わたしのお願いは聞けないのかな?」  小首を傾げ、静寂を湛えた双眸でじっと見つめられる。その純粋な眼差しに射抜かれてしまえば、俺に拒否権などある筈もなかった。 「……分かった」 「うん、それでいい」  名前は満足そうに頷くと、俺の手を引いて家の中へと誘う。その後方で、兄貴さんが「名前の言う通りにしなさい、工くん。『Goodbye is for losers』――さよならは敗者の言葉だ。君は、見事に勝者になったじゃないか」と、肩を竦めながら、にやりと笑った。  案内されたバスルームは、俺の自室よりも広かった。清潔で、どこか非現実的な空間に気圧されながら、名前から渡された着替えを受け取る。ふかふかのタオルと、兄貴さんのものだと云う黒いスウェット。 「ゆっくり浸かってね」  そう言って、パタン、と扉が閉められると、俺は大きな鏡に映る自分の姿を見て、思わず呻いた。髪はぐしゃぐしゃ、衣服は皺くちゃ。だが、その顔は見たこともない程に弛み切っていた。安堵と喜びを隠し切れない、締まりのない表情。さっきまでの悲壮な感情はどこへやら。俺は羞恥で顔面を覆うと、慌ててシャワーのノズルを捻った。  湯船に肩まで浸かると、全身の緊張が解けていくのが分かった。冷え切った芯まで、じんわりと熱が巡る。天井をぼんやりと眺めながら、今日一日の出来事を反芻する。地獄から天国へ、とは、正にこのことだ。名前との誤解は融解した。俺の気持ちも、ちゃんと伝わった。もう、離れ離れになることなんてない。  その途方もない安心感に包まれた、その瞬間だった。  ぐぅぅぅぅぅ……きゅるるるる。  静かなバスルームに、やけに間抜けな音が響き渡った。俺の、腹の音だ。そう云えば、ショックで夕飯も喉を通らなかった。原因が解決した途端、身体は正直に空腹を訴え始めたらしい。それにしても、タイミングが悪過ぎる。さっきまでのシリアスな雰囲気はどこへ行ったんだ。  風呂から上がり、借りたスウェットに着替えてリビングに戻ると、ソファに座って本を読んでいた名前が顔を上げた。俺の姿を認めると、ふわりと微笑む。その笑顔に心臓が跳ねた、次の瞬間。  ぐぅぅぅぅ……!  今度は更に盛大に、腹の虫が鳴いた。静まり返った広い居間に、それはもう見事に響き渡る。誤魔化しようのない音量に、俺の顔色からサッと血の気が引いた。
 本を読んでいたけれど、ふと気配を感じて顔を上げた。そこには、兄貴兄さんの、少し大き過ぎるスウェットを着た工くんが、所在なげに立っていた。わたしが彼に微笑み掛けた、その瞬間だった。静寂を切り裂くように、派手な音が響いたのは。  目の前の彼は、茹蛸のように真っ赤になって固まっている。  その余りにも純粋な反応に、胸の奥から愛しさが込み上げるのを止められなかった。この音色は、工くんがわたしの言動一つで、食事も喉を通らない程に思い詰めてくれた証拠なのだ。わたしの独り善がりな決断が、この太陽みたいな人を、こんなにも苦しめていた。ごめんなさい、と云う気持ちと、それ以上にどうしようもなく愛おしいと云う熱情が、綯い交ぜになって心を満たす。 「ふふっ、お腹が空いたんだね」 「ち、違う! これは、その……!」 「何か、簡単なものを作るよ。そこに座って、待っていて」  わたしの言葉に、工くんはわたわたと何かを言いたげに口を動かしたが、結局、諦めたようにこくりと頷いて、所在なげにソファの端に腰掛けた。その姿が、雨に濡れた大きな犬のようで、つい頬が弛んでしまう。 「兄貴兄さん、わたし、キッチンを使うね」 「ああ、ご自由に。俺はこれから、物語の佳境に入るからね」  自室の扉からひょっこり顔を出した兄は、いつの間に着替えたのか『Love is a serious mental disease.』と書かれたTシャツを指差し、「恋は重篤な精神疾患、か。正に、君達のことだね」と面白そうに言い残し、すぐに引っ込んでしまった。  広いキッチンの冷蔵庫を開け、中身を確認する。卵と、ご飯と、ネギ。これなら、胃に優しいものが作れそうだ。手際良く準備を進める間、ソファから感じる視線が可笑しかった。そわそわと落ち着かない様子で、こちらを見つめている。  程なくして出来上がった卵雑炊をテーブルに運ぶと、工くんは目を輝かせた。 「すげぇ……美味そう……」 「冷めない内に、どうぞ」  向かい合って座り、工くんが蓮華を手に取る。先程までの張り詰めた空気はもうどこにもなく、ただ穏やかで温かい時間が流れていた。彼は「美味い!」と何度も評しながら、夢中で雑炊を口に運んでいる。その幸せそうな横顔を眺めているだけで、わたしの心も満たされていった。  食事が終わり、二人でソファに並んで座る。工くんは満腹になったからか、少し眠そうだ。その瞼がとろんと落ち掛けているのを見て、わたしは悪戯っぽく囁いた。 「ねぇ、工くん。今夜は、泊まっていくでしょう?」 「えっ!? で、でも、寮の門限が……」 「大丈夫。兄貴兄さんが、寮監さんに上手く話を付けてくれるよ」  兄は、こう云う口実作りが妙に上手いのだ。きょとんとしている工くんの手を取り、わたしの部屋へと導く。  柔らかな間接照明だけの、静かな寝室。わたしのベッドに、工くんをそっと座らせる。彼はもう抵抗する気力もないのか、されるがままになっていた。その隣に腰掛け、彼のぴょこんと跳ねたアホ毛に、そっと触れる。 「疲れたでしょう。もう、寝よう」  工くんの大きな身体をベッドに横たわらせ、上から布団を掛けてあげる。わたしの匂い、わたしの空気、わたしの存在。その全てで君を包んで、安心して眠らせてあげたい。もう二度と、不安な夜を過ごさせないように。わたしを敷き詰めたこの場所で、ただ安らかに眠ってほしい。  工くんは心地良さそうに目を閉じた。その穏やかな寝顔を見ていると、胸がきゅう、と甘く痛む。わたしは彼の隣にそっと滑り込み、工くんの寝息だけが響く静寂の中、サイドテーブルから取り出したキーホルダーをぎゅっと握り締めた。 「おやすみ、わたしの工くん」  傍らに居る工くんの温もりとは別に、このプラスチックのボールが、確かに彼の体温を持っているように感じられた。この温度と、彼の存在そのものが、わたしにとっての安息なのだ。  窓の外では、雨上がりの星が瞬いている。  わたし達の未来は、もうくすんだりしない。この星の光よりも、もっと強く、鮮やかに輝いていく。その確信を胸に、わたしはゆっくりと瞼を鎖した。


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