
キーホルダーに託した想いが、夕暮れの空を越えて届く。
名前と恋人同士になってから、俺の世界は色鮮やかに塗り替えられた。
体育館に響き渡る、ボールの衝撃音。床を焦がす、シューズの摩擦音。白布さんの、スパイカーに合わせた堅実なトスが上がる。最高の一本。全身のバネを使い、空中で撓り、掌の芯で球を叩く。――この快感も、勝利の咆哮も、全部、名前に繋がっている。そう思えば、牛島さんという絶対的な壁も、鷲匠監督の怒声も、乗り越えられる力に変わった。
けれど、幸せと同じだけの質量を持って、もどかしさが募るのもまた事実だった。
もっと逢いたい。もっと声が聞きたい。もっと、触れたい。
欲は際限なく膨れ上がり、時折、俺の集中力を鈍らせる。
――ふと、昨日、別れ際に見た、名前の寂しげな笑顔が脳裏を過った、その瞬間。
「工! 今のトス、どこ見てやがんだ! ボールに集中しろ!」
「す、すみません!」
鷲匠監督の、感情的な声が鼓膜を突き刺す。今のトスは、少し甘く入った。駄目だ。こんなことでは、牛島さんを超えるどころか、次期エースの座さえ危うい。名前を想う気持ちが俺を強くするのに、同じ気持ちが俺を弱くする。この矛盾が、気を揉ませた。
そんな自己嫌悪に沈んでいた週末。気分転換に、と一人で街をぶらついていた時だった。駅前の雑多なファンシーショップの店頭に、それが吊るされていたのは。掌に収まる程の、小さなバレーボールのキーホルダー。デフォルメされたそれは、本物とは似ても似つかないけれど、何故か、俺の心を強く掴んで離さなかった。
これだ、と思った。
これを、名前に。
俺が傍に居られない時も、これを見て、少しでも俺を思い出してくれたら。そんな子供染みた願いが衝動となって、俺の背中を押した。気づけば、俺はそれを握り締め、慣れない店内のレジに並んでいた。
問題はここからだった。
買ったはいいが、どうやって渡す?
「……これを、お前にやる」……駄目だ、偉そうだ。
「良かったら、使ってくれ」……他人行儀過ぎる。
「名前に似合うと思って」……バレーボールが? 意味が分からない。
寮のベッドの上でうんうん唸りながら、来たるべき日の為のシミュレーションを繰り返す。だが、どれもこれもピンと来ない。脳内で再生される俺は、滑稽な程に格好悪かった。いっそ、天童さんに相談を……いや、あの人に話したら最後、尾鰭どころか翼まで生えて、学園中に広まり兼ねない。
ポケットの中、プラスチックのボールを指先で転がす。冷たくて、硬い。こんな安物を、あんな綺麗な名前に渡して、果たして喜んでくれるのだろうか。彼女の住む豪奢なマンション、洗練された調度品、その隣に、この数百円のキーホルダー。余りにも、不釣り合いではないか。
急に心臓が冷えていくような感覚に襲われる。俺の未来は、バレーは、彼女の隣に立つに相応しいものなのだろうか。不安が濃い霧のように立ち込めて、視界が白く染まっていく。
くすんで一寸も見えやしない。
俺の進むべき道も、名前の本当の気持ちさえも。
「……いや!」
俺は勢いよく頭を振った。
何を弱気になっているんだ、五色工! エースたる者、強気でなくてどうする!
不釣り合いだとか、相応しいとか、そんなのは関係ない。俺が、俺の気持ちの証として、これを渡したいんだ。それでいいじゃないか。格好悪くたって、不器用だっていい。ストレートに思いの丈をぶつけるんだ。俺のスパイクみたいに。
そう覚悟を決めた、数日後の放課後。
俺は名前と並んで、夕暮れの道を歩いていた。心臓は試合の最終セットよりも激しく脈打っている。ポケットの中のキーホルダーが、やけに重く感じられた。
「今日の練習、どうだった?」
名前が澄んだ声で問い掛けてくる。夜の海を連想させる彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。その眼差しが、俺の強がりも不安も、全部を見透かしているようで、少しだけ狼狽える。
「お、おう! 今日もキレッキレだったぞ! 白布さんのトスも最高で、俺のストレートも……」
饒舌に語れば語る程、ポケットの中のキーホルダーが重みを増していく。夕日が俺達の影を長く伸ばし、世界の輪郭を曖昧に溶かす。今だ。今しかない。
「っ、名前」
「うん?」
「あそこの、公園……ちょっと、寄らないか?」
俺の掠れた声に、彼女は一瞬きょとんとした後、何かを察したようにふわりと微笑んだ。「うん、いいよ」。その小さな肯定と優しい眼差しに、俺の覚悟が揺らぎそうになる。
錆びたブランコが、夕風に頼りなく揺れている。誰も居ない空間に、俺の荒い呼吸だけが響いていた。ポケットから、震える手でキーホルダーを取り出す。
ああ、駄目だ。いざ彼女を前にすると、あれだけ練習した言葉が全部、頭から消し飛んでしまった。
「工くん?」
名前が心配そうに、俺の顔を覗き込む。長い睫毛に縁取られた、仄暗くて感情の見通せない双眸。その深淵に吸い込まれそうで、くらりとした。
もう、どうにでもなれ。
「こ、これっ!」
俺は半ば叫ぶようにして、キーホルダーを彼女の目の前に突き出した。
「俺だと思って、持っててくれ!」
言った。言ってしまった。
顔から火が出る、とは、正にこのことだ。きっと、今の俺の肌色は、茹蛸みたいに真っ赤になっているに違いない。余りの羞恥に、名前の反応が確かめられない。俯いた視界の端で、彼女の白く細い指が、そっとキーホルダーに伸ばされるのが見えた。
一瞬の沈黙が、永遠のように感じられる。
「……ふふっ」
不意に、堪え切れないと云った風に、鈴が鳴るような笑い声が零れた。
恐る恐る顔を上げると、そこに居たのは、見たこともない程に幸せそうに、少しだけ瞳を潤ませて微笑む名前だった。
「ごめんね、余りにも、工くんが可愛くて」
名前はそう謝ると、俺の手からそっとキーホルダーを受け取った。その指先が、俺の震える指に触れて、酷く熱く感じた。
「ありがとう。凄く、嬉しい」
名前はキーホルダーを両手で包み込むようにして、宝物みたいに胸元で抱き締めた。
「練習の事とか、色々、悩んでいたでしょう? でも、そんな中でも、わたしのことを考えて、これを選んでくれたんだと思ったら……堪らなく愛おしいよ。この"工くん"、大切にするね」
俺の悩みまで、全部を抱擁してくれるような、慈しむ眼差し。その温かさに、心臓が喜びで張り裂けそうだった。さっきまで視界を覆っていた不安の霧は、彼女の笑顔一つで、跡形もなく吹き飛んでしまった。
ああ、そうか。
俺の未来がくすんで見えたのは、自信がないからじゃない。ただ、名前が笑ってくれるかどうか、それだけが怖かったんだ。
彼女が傍に居て、こうして穏やかに微笑んでくれるなら。
俺はどこまでも高く、もっと遠くへだって飛べる。
「……おう!」
俺は照れ隠しのように、今までで一番大きな声で返事をした。西の空は燃えるようなオレンジ色から、静かな藍色へと、その表情を変えようとしていた。その美しいグラデーションのように、俺達の時間もゆっくりと、確かに色彩を深めていく。その確信が、何よりも強く、俺の胸を満たしていた。