35.さよならしたくて | さよならなんて、勝手に言うな。

名前視点→五色視点。
兄貴が登場します。

 夕暮れの光が、わたしの部屋に斜めに差し込んでいる。埃一つないガラス窓の向こうで、空は燃えるようなオレンジ色から、静かな藍色へと、その表情を変えようとしていた。机の上に置かれた、小さなバレーボールのキーホルダーがきらりと光を反射する。先週、工くんが「俺だと思って、持っててくれ!」と、顔を真っ赤にしながら渡してくれたものだ。その時の、期待と羞恥に揺れるスモーキークォーツのような瞳を思い出すと、胸の奥がきゅう、と甘く痛んだ。  工くんは太陽みたいな人だ。  いつも全身全霊で、真っ直ぐで、一点の曇りもない。彼の放つ熱量に触れる度、わたしのこの冷えた身体に、じわりと温かい血が巡るような感覚を覚える。彼がわたしの名前を呼ぶ声、不意に触れる大きな手、少し汗の匂いが混じるジャージの香り、二人きりになった時にだけ見せる、戸惑うような、それでいて欲を隠さない熱っぽい眼差し。その全てが、わたしという存在を根底から揺さぶる。  好き。  好き過ぎて、おかしくなりそう。  工くんがバレーに打ち込む姿は、神々しいとさえ思う。体育館の照明を浴びて、白い鷹のようにコートを舞う姿。ボールを叩き付ける瞬間に放たれる、鋭いエネルギー。その一瞬一瞬が、わたしの網膜に焼き付いて離れない。彼はもっと高く、もっと遠くへ羽ばたける人だ。日本の、いや、世界の頂点に立つべき才能なのだと、本気で信じている。  だから、さよならしなくてはならない。  この結論に至るのに、時間は掛からなかった。わたしという存在は、工くんの翼に絡み付く重りにしかならないのではないか。わたしを想う時間、わたしと過ごす時間。その全てを、彼はバレーに捧げるべきなのだ。恋なんて、ましてや初めてのそれに現を抜かしている暇など、彼にはない筈だ。  わたしは、工くんの未来を蝕む毒になりたくない。彼が最高の輝きを放つその瞬間に、わたしの影が少しでも差すなんて、耐えられない。 「……さよなら、しないと」  誰に言うでもなく呟いた声は、静まり返った部屋に小さく響いて消えた。まるで、最初から何もなかったかのように。キーホルダーをそっと握り締める。プラスチックの硬い感触が、わたしの決意を鈍らせようとする。  駄目だ。これは、わたしが彼を愛しているからこそ、下さなければならない決断なのだ。  翌日の放課後、わたしは工くんと一緒に帰路に就いていた。彼は今日の練習がいかに充実していたかを、身振り手振りを交えて熱っぽく語っている。 「白布さんのトス、今日は特にキレッキレで! 俺のストレートも、ビュン! って感じで決まったんだ! 牛島さんにも、少しは認めてもらえたかな……いや、まだまだか! もっと鋭いクロスも打てるようにならないと!」  楽しそうに笑う彼の横顔を盗み見る。凛々しい眉、ぱっつんに切り揃えられた前髪、ぴょこんと跳ねたアホ毛さえも愛おしい。この笑顔を、この輝きを守る為だ。 「工くん」 「ん? どうした、名前?」 「少し、話があるんだ。そこの公園に寄ってもいいかな」  わたしのいつもより低い声色に、彼は何かを察したのか、「お、おう」と素直に頷いた。ブランコと滑り台しかない、小さな公園。夕暮れの光が、彼の顔に複雑な影を落としていた。  わたしは息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たし、悴んだ心を更に凍らせていくようだった。 「わたし達、さよならしよう」  言った。言ってしまった。  工くんの時間が、止まったのが分かった。大きく見開かれた瞳が、信じられない、という色を浮かべて、ただ、わたしを映している。 「……は? さよならって……なんで」 「……」 「俺、何かしたか!? 名前が嫌がること、何かした!? 言ってくれ、すぐ直すから!」  違う。工くんは何も悪くない。悪いのは、工くんを好きになり過ぎてしまった、わたしの方だ。 「そういうことじゃないんだ」 「じゃあ、なんで! 理由が分からない!」  工くんの声が悲痛に震える。その声音を聞いているだけで、胸が張り裂けそうだ。わたしはこの太陽みたいな人を、今、傷付けている。 「工くんの未来の為に、わたしは居ない方がいい。そう思ったから」 「俺の……未来の為……?」  意味が分からない、という顔をしている。当然だろう。これは、わたしの独り善がりな感傷なのだから。 「工くんは、バレーに集中するべきだよ。わたしみたいな存在は、きっと、工くんの邪魔になる」 「邪魔なわけないだろ!」  彼が、わたしの両肩を掴んだ。熱い体温が制服越しに伝わってくる。その熱が、わたしの決意を溶かしてしまいそうで怖かった。 「名前が居るから、俺……!」 「ごめん」  わたしは彼の言葉を遮り、その手を振り払った。そして、一度も振り返らずに公園を走り去った。背後で、わたしの名前を叫ぶ、彼の絶望的な声が聞こえたけれど、足を止めることはしなかった。頬を伝う熱いものに気づかない振りをして、わたしはただ、灰色のコンクリートの上を走り続けた。さよなら、工くん。わたしの、たった一人の、初恋の人。
 何が起きたのか、分からなかった。  名前が走り去った後の公園のブランコに、俺は呆然と座り込んでいた。彼女が最後に放った言葉が、壊れたレコードのように頭の中で繰り返される。 『工くんの未来の為に、わたしは居ない方がいい』 『わたしみたいな存在は、きっと、工くんの邪魔になる』  邪魔? 名前が?  馬鹿な。そんなこと、天地が引っ繰り返ってもあり得ない。  どういうことだ。なんで、名前はそんなことを思うんだ。  寮に帰っても、何も手に付かなかった。飯も喉を通らない。自室のベッドに倒れ込むと、名前の匂いがしないシーツの冷たさが、やけに心に沁みた。天井の染みを眺めながら、必死に考える。  俺の未来。それは勿論、牛島さんを超えるエースになることだ。日本一のスパイカーになることだ。その為に、俺は白鳥沢に来た。毎日、血反吐を吐くような練習をしている。  ……もしかして。  俺がバレーの話ばかりするから? 練習がきついとか、もっと上手くなりたいとか、そういう話ばかりしているから、名前は気を遣ったのか? 俺の負担になっていると、そう思ったのか?  違う。全く違う。寧ろ、逆だ。  名前が居るから、前よりも頑張れるんだ。  練習がきつい日も、名前の顔を思い浮かべれば、もうひと踏ん張りできた。試合で思うようなプレーができなくて落ち込んだ時も、「工くんのスパイクは、誰よりも綺麗だよ」と言ってくれた彼女の言葉を思い出して、前を向けた。彼女の存在そのものが、俺の原動力になっていた。  なんで、それが伝わっていなかったんだ。  俺は、なんて馬鹿なんだ。好きだとか、逢いたいとか、そんなことばっかりで、一番大事なことを、ちゃんと伝えていなかった。 「……うおぉぉぉぉっ!」  俺はベッドから跳ね起きた。  そうだ。伝わっていないなら、伝えればいい。誤解しているなら、解けばいい。こんなところで、うじうじ悩んでいる場合じゃない。  俺は部屋を飛び出した。廊下で鉢合わせた天童さんに「うわっ、工、どしたの!? 凄い顔!」と驚かれたが、構っていられない。寮を飛び出し、夜の道を全力で走った。心臓が破れそうだ。息が苦しい。ポツ、ポツと冷たいものが頬に当たり、それはあっと言う間に土砂降りになった。ずぶ濡れになっても、俺は足を止めなかった。  名前の住むマンションの前に着いた頃には、肩で息をしていた。見上げる高級そうな建物に一瞬気圧されたが、すぐに首を横に振る。エントランスのインターホンを震える指で押した。 『……はい』  スピーカーから聞こえてきたのは、名前の兄貴である、兄貴さんの声だった。 「ご、五色です! 名前さんに、苗字さんに用があって来ました!」 『おや、工くん。こんな夜更けにどうしたんだい? ……まあ、いいか。上がりなさい』  オートロックが解除され、俺はエレベーターに乗り込んだ。ドアの前で一度深呼吸をして、チャイムを鳴らす。  ガチャリ、とドアが開いた。そこに立っていたのは、部屋着姿の名前だった。その目は赤く腫れていて、俺の姿を認めると、驚いたように大きく見開かれた。 「工、くん……? どうして……」 「話がある」  俺は彼女の腕を掴んだ。その細い腕が、頼りなく震えているのが分かった。 「工くん。うちの姫を泣かせたのは、君かい?」  奥から、『Goodbye is for losers』という英字がプリントされている黒いTシャツを着た兄貴さんが、面白そうな顔でひょっこり現れた。 「でも、その必死な顔……実に良い。次回作の主人公は、恋人の為に夜道を爆走する、一途なバレー馬鹿にしようかな」 「兄貴兄さん……!」  名前が咎めるように言ったが、もう関係なかった。俺は掴んだ腕をぐっと引き寄せ、名前の瞳を真っ直ぐに見つめて叫んだ。 「さよならなんて、絶対に嫌だ!」  体育館に響き渡るよりも、もっと大きな声が出たかもしれない。 「今の俺がバレーを頑張れるのは、名前が居るからだ! お前が『綺麗だ』って言ってくれる俺のスパイクを、もっと凄いものにしたいから、毎日練習してるんだ!」 「……っ」 「名前が応援してくれるから、どんなキツい練習も耐えられるし、もっと強くなりたいって思えるんだ! 名前は、俺の邪魔なんかじゃない! お前は……俺の力なんだ!」  息継ぎも忘れて、想いの丈をぶつける。 「俺が牛島さんを超えるエースになるまで、いや、なった後も、ずっと! 絶対に隣で見ててほしい! だから……! だから、さよならなんて、言うなよ……っ!」  言い切った瞬間、名前の透き通った双眸から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。 「……ごめんなさい」  か細い声で、名前が呟く。 「ごめんなさい、工くん……。わたし、工くんのことが好き過ぎて、どうにかなりそうだったの。工くんの隣に居るだけで幸せで、でも、その幸せが、工くんの未来の邪魔になるんじゃないかって……怖くなって……」  しゃくり上げながら、名前が本当の気持ちを打ち明けてくれる。  なんだよ、それ。  俺と同じじゃないか。  俺は堪らなくなって、彼女の華奢な身体を壊さないように、でも、力いっぱい抱き締めていた。 「俺もだ、名前。俺も、お前が好き過ぎて、毎日、どうにかなりそうだ」  腕の中で、名前がこくりと頷く気配がした。シャンプーの甘い香りがして、くらりとする。 「もう二度と、あんなこと言うなよ」 「……うん」 「絶対に離さないからな」 「……うん」  名前の背後で、兄貴さんが「ふむ、若さとは実にドラマチックで、少しばかり暑苦しいね。今夜は傑作が書けそうだ」と満足気に呟いているのが聞こえた。  腕の中の温もりを確かめるように、俺はもう一度、強く名前を抱き締めた。  さよならしたかった、その理由が、どうしようもないくらいの、俺への愛情だったなんて。こんなに嬉しい勘違いが、他にあるだろうか。  マンションの廊下に、すぅっと涼しい風が吹き込んだ。雨上がりの、湿ったアスファルトと土の匂いだ。俺をずぶ濡れにした雨は、いつの間にか上がっていたらしい。見上げなくても分かる。俺達の頭上にはきっと、雲の切れ間から星が覗いている。その光に負けないくらい、もっと輝くエースになって、絶対に彼女を幸せにしよう。俺は心に強く誓った。


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