34.ドットを蹴散らしてさよなら | ピクセル・ジェラシー

ドット絵に嫉妬した次期エースの、
甘くて不器用な恋の奮闘記。

 夏の残滓がアスファルトをじりじりと炙る八月の終わり。俺、五色工の心は、季節外れの梅雨にでも見舞われたかのように、じめりと湿っていた。原因は明確だ。俺の恋人、苗字名前が最近、俺以外の"何か"に夢中だからである。 「……工くん、見て。この騎士、とても素敵でしょう」  隣に立つ名前が、スマートフォンの画面を見せてくる。そこには、カクカクとした粗いドット絵で描かれた、銀色の鎧を纏うキャラクターが立っていた。背景も原色に近い色合いで構成された、いかにもレトロなゲームの世界だ。  俺の恋人は穏やかな性格に反し、好奇心が尽きない探求者で、趣味が多岐に渡る。その中でも、最近の彼女の心を最も占めているのが、この『ピクセル・ナイトクエスト』なる古のRPGだった。 「ああ、うん。そうだな」  俺は曖昧に頷きながら、内心で舌打ちした。素敵? この、点の集合体が? 俺の方がよっぽど……と、そこまで考えて、余りの馬鹿馬鹿しさに思考を打ち切る。相手はドット絵だ。嫉妬するだけ無駄だ。分かっている。分かっているが、名前のその澄み切った瞳が、夜の海を思わせる双眸が、俺ではなく、画面の中の騎士だけを映しているという事実が、どうしようもなく胸をざわつかせる。 「この騎士はね、寡黙だけれど、とても強いんだ。たった一人で魔王軍に立ち向かって、囚われた姫を助け出す物語なの」 「へえ……」 「決め台詞は『我が剣に斬れぬものなし』。痺れるでしょう?」  痺れない。全く痺れない。寧ろ、俺の十八番であるキレッキレのストレート打ちの方が何倍も痺れるだろ。ブロックの僅かな隙間を抜く、あの神業的なコントロールを、名前は知っている筈なのに。  俺達の関係は、我ながら順風満帆だと思っていた。同じクラスで、恋人同士で、互いが初めての相手で。彼女の兄である兄貴さんにも気に入られているし、弟のとは、まあ、喧嘩友達みたいなものだが、険悪という訳ではない。週末に彼女の住むマンションへ遊びに行くのが、部活と同じくらい、いや、それ以上に、俺の生き甲斐だった。彼女の白い指が、俺の髪を梳く感触も、不意に寄せられる吐息の甘さも、全部、俺だけのものだと、そう思っていたのに。 「……名前は、そいつが好きなのかよ」 「うん、好きだよ。この潔さがいい」  即答だった。いっそ清々しい程の返答に、俺のメンタルはブロックアウトされたボールのように、コートの外へ弾き飛ばされる。脳内の白布さんに、「うるせえ、黙ってレシーブ練しろ」と吐き捨てられた。ああ、クソ。もっと鋭いクロスを打てるようになっていれば、こんなドット絵の騎士なんかに、名前を奪われずに済んだのだろうか。いや、関係ない。全く関係ない。 「……俺の方が、強い」 「え?」 「俺の方が、絶対に強い! サーブもスパイクも、全部だ! それに身長だって、181.5cmあるし、体重も69.5kgだ! こんなドット絵より、筋肉だってある!」  気づけば、俺は町中で大声を張り上げていた。道行く人が何事かとこちらを見ている。名前はきょとんとした顔で俺を見上げ、それから小さく噴き出した。血の気のない白い頬に、ほんのりと朱が差す。 「ふふ、どうして、工くんが騎士と張り合っているの」 「張り合ってなんかない! 事実を述べたまでだ!」 「そう。工くんは、わたしの知る誰よりも格好良いよ」  さらりと言ってのけるから、性質が悪い。その言葉に一瞬で頬が熱くなるのが分かる。単純だ、と自分でも思う。煽てに弱い自覚はある。でも、好きな相手に褒められて、舞い上がらない男が居るだろうか。いや、居ない。  しかし、その直後、彼女は再びスマホに視線を落とし、「でも、このボスが倒せないんだ」と小さく呟いた。俺の心は、ジェットコースターのように急降下する。結局、今のお前の心は、ゲームの中にあるんじゃないか。  その週末、俺は決意を固めて、苗字家のマンションを訪れた。彼女の実家は別にあるが、今は年の離れた兄、兄貴さんと二人で、この高級マンションに住んでいる。他には管理人以外、誰も住んでいないという、ちょっと規格外の場所だ。 「やあ、工くん。よく来たね。名前なら、部屋で最終決戦の準備をしているよ」  リビングで、『姫は、俺の妹』とプリントされている黒いTシャツを着た兄貴さんが、優雅にコーヒーを飲みながら出迎えてくれた。「最終決戦の準備」という物騒な単語に、俺はごくりと喉を鳴らす。 「こんにちは、兄貴さん。あの、最終決戦って……」 「ああ、ピクセル・ナイトクエストのラスボスさ。もう三日も足止めを食らっているらしい。俺の可愛い妹を悩ませるなんて、万死に値する悪竜だ」  どうやら本気でそう思っているらしい瞳に、俺は背筋を伸ばした。この人も大概、名前のことになると様子がおかしい。  俺は兄貴さんに会釈して、名前の部屋へ向かった。ノックをすると、中から「どうぞ」という澄んだ声が聞こえる。  ドアを開けると、薄暗い部屋の中でベッドに腰掛けた名前が、真剣な面持ちでゲーム画面と睨めっこしていた。カーテンが閉め切られ、モニターの光だけが彼女の白い肌を青白く照らしている。その光景はどこか神秘的で、近寄り難い雰囲気すらあった。床には攻略情報源らしき雑誌や、幾つかの洋書が散らばっている。彼女の世界が、ここに在った。 「名前」 「工くん。来てくれたんだね」  彼女は顔を上げたが、その手はコントローラーを固く握り締めたままだ。画面の中では、例のドット絵の騎士が、巨大なドラゴンの吐く炎に焼かれていた。ピコピコという無機質な電子音と共に、『GAME OVER』の文字が浮かび上がる。 「……また、駄目だった」  名前は深い溜め息をつき、コントローラーをベッドの上に置いた。その横顔はいつにも増して儚げで、今にも消えてしまいそうに見える。守ってやりたい、と強く思った。この、ドット絵のドラゴンから。 「貸せよ」 「え?」 「俺がやる。そいつを倒す」  俺は名前の隣にどかりと腰を下ろし、彼女の手からコントローラーを奪い取った。ずしりと重い。これはただのプラスチックと機械の塊じゃない。名前を悩ませる元凶であり、俺が今から打ち破るべき壁だ。 「工くん、でも……」 「エースを信じろ」  俺は不敵に笑ってみせた。試合前の、あの感覚に似ていた。体育館の匂い、ボールが床を叩く音、チームメイトの声。それらが脳裏を過る。そうだ、これは試合だ。相手は巨大なドラゴン。俺の武器は、この両手。 「誰が来たって、力で捻じ伏せればいいだけだ」  俺は牛島さんを思い浮かべ、低く呟いた。名前が隣でくすりと笑う気配がする。  コンティニュー画面から、再びゲームが始まった。目の前には、画面の半分を覆い尽くす程の巨大なドラゴン。口から炎を吐き、鋭い爪で攻撃を仕掛けてくる。ドット絵の騎士は、俺の拙い操作の所為で何度もダメージを受けた。 「わっ、うおっ、ちょっ……!」  情けない声が出る。バレーボールなら、どんな速い球でも目で追える自信がある。だが、この平面世界の目まぐるしい攻撃は、また勝手が違った。  それでも、俺は諦めなかった。負けられない。ここで負けたら、俺はドット絵の騎士にさえ劣る男だということになってしまう。それはエースとして、何より名前の彼氏として、断じて許されない。 「工くん、右、右!」 「分かってる!」 「回復薬、今、使わないと!」 「煩い! 俺のタイミングでやる!」  まるでセッターとスパイカーのやり取りだ。名前の的確な指示が飛ぶ。最初は反発していた俺も、次第にその声に集中し始めた。そうだ、俺は一人じゃない。隣には、名前が居る。  何度もゲームオーバーを繰り返し、コントローラーを握る手は汗でぐっしょりと濡れていた。指が痛い。目がチカチカする。だが、不思議と心は燃えていた。  何十回目かの挑戦。俺はドラゴンの攻撃パターンを完全に記憶していた。ブロックの僅かな隙間を抜くように、攻撃の合間に剣を叩き込む。強打のチャンスを見計らい、回避に専念する。コートの上でプレーしているかのような冷静さが、自分でも信じられなかった。  そして、遂にその瞬間が訪れた。  俺の操作する騎士の最後の一撃が、ドラゴンの心臓を貫いた。巨大なドットの塊が、断末魔の叫び(のような電子音)を上げて、光の粒子となって霧散していく。画面が白くフェードアウトし、静寂が訪れた。 「…………やった」  俺はコントローラーを放り出し、ベッドに倒れ込んだ。疲労困憊だ。三日間の練習試合を熟した後のような疲労感だった。  やり遂げた。俺は勝ったんだ。ドットの騎士に代わって、俺が、この手で。 「……工くん」  不意に上から、名前の声が降ってきた。見上げると、彼女が俺のことを見下ろしている。夜の海のような瞳が、モニターの光を反射して、きらきらと潤んでいるように見えた。 「凄い。本当に倒してしまった」 「……当然だ。俺は、白鳥沢のエースになる男だからな」  精一杯の虚勢を張る。心臓が馬鹿みたいに煩い。勝った高揚感と、彼女に見つめられている緊張感でどうにかなりそうだった。  すると、名前がふわりと微笑んだ。それは、今まで見たどんな笑顔よりも甘く、愛おしさに満ちた笑顔だった。 「これで、ドットを蹴散らしてさよなら、だね」  彼女が呟いた言葉に、俺は遅れて目を見開いた。  ドットを蹴散らして、さよなら。  ああ、そうか。ラスボスであるこのドラゴンを倒して、このゲームの世界にさよならする、という意味か。一瞬、俺の恋敵であるドットの騎士に「さよなら」を告げさせる、って意味かと……。 「……なあ、名前」 「うん?」 「もしかして、俺が騎士に嫉妬してるって、気づいてたのか……?」  恐る恐る尋ねると、彼女はこくりと頷いた。悪戯っぽく、その瞳が細められる。 「工くん、凄く分かり易いから」 「なっ……!」 「一生懸命、ドット絵と張り合っているのが、とても可愛かった」  可愛い、だって? この俺が?  顔から火が出そうだった。俺の悩みも、葛藤も、決意も、全部、名前にはお見通しだったというのか。俺は一人で空回りして、盛大に滑っていただけじゃないか。 「……悔しい」 「ふふ」 「でも、名前の笑顔を見たいとも思うから……それも悔しい、みたいな……」 「何の話?」 「なんでもない!」  俺は勢いよく起き上がると、その華奢な身体を腕の中に閉じ込めた。名前は驚いたように少し身を強張らせたが、すぐに力を抜いて、俺の胸に頬を埋めた。シャンプーの甘い香りが鼻腔を擽り、思春期特有の現象が鎌首を擡げる。待て、今は駄目だ。 「工くんは、わたしのヒーローだよ」  耳元で囁かれた言葉に、俺の理性は粉々に砕け散った。  ドット絵の騎士なんかじゃない。俺が、俺だけが、彼女のヒーロー。  その事実だけで、俺はどこまでも高く飛べる気がした。 「名前……」  俺は彼女の薄桃色の唇に、自分のそれを重ねた。もう、画面の中の騎士に嫉妬したりしない。名前の居る場所は、この腕の中だ。ドットで出来た偽物の世界じゃない、確かな体温と柔らかな感触のある、この現実こそが、俺と彼女の全てだった。  カクカクとしたドットの恋敵に本気で嫉妬した、あのじめついた心には、もうさよならだ。これからは、もっと格好良いところを沢山見せて、彼女の瞳を、心を、俺だけで満たしてやる。  そう、固く誓った。白鳥沢のエースの名に懸けて。


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