
雨に滲む心と、静けさの中にある恋の実感。
雨の匂いがする、と気づいたのは、いつものジョギングのコースを少し外れ、見慣れない住宅街を黙々と走り続けて、暫く経った頃だった。空はまだ鈍色の雲に覆われているだけだったが、アスファルトに滲み始めた小さな水玉模様が、その予感を確信へと変えた。
俺はほんの少しだけ、舌打ちしたいような、がっかりしたような、複雑な気分になる。いつもより早い時間にスタートし、長めに距離を稼いだ所為か、汗と湿気でシューズが張り付く不快な感覚。おまけに、この不意の雨だ。
寮に引き返すには、タイミングも距離も微妙だった。それに、今日はどうしても行きたい場所がある。予定にはなかったけれど、一度思い付いてしまったら、もうこの衝動は止められそうになかった。
傘なんて、当然、持っている筈もない。だから、選択肢は一つ。走るしかなかった。
目的のマンションのエントランスに滑り込むように駆け込んだ時には、着ていたTシャツも、走り慣れたシューズも、雨粒と汗でしっとりと濡れそぼっていた。けれど不思議なことに、俺の心はまるで嵐の前の静けさのように、やけに落ち着いていた。
この感覚は初めてじゃなかった。多分、記憶を辿れば、前にも何度か、これとよく似た、胸の奥がざわつくような、それでいて奇妙に澄み渡るような瞬間があった。
苗字名前のことを想う時。
決まって心臓の音が、コートに叩き付けるスパイクの衝撃音みたいに喉元までせり上がってくる。自分でも制御できないくらいに高鳴って、煩くて。
でも、いざ彼女の前に立つと、その激しい鼓動が嘘のようにスッと引いて、代わりに妙な静けさが全身を包み込むんだ。昂っていた感情の奔流が一拍、ほんの一拍だけ遅れて、胸の奥深くへと静かに沈んでいくような。そんな、不思議な静寂。
――今日は会えるかな。
ただ、それだけだった。
それだけを胸に抱いて、俺はここまで無我夢中で走ってきた。
マンションのインターホンの前で、俺は一度大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を整えながら、少しだけ躊躇いがちにボタンを押した。指先が微かに震えているのが、自分でも分かった。
『はい』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、紛れもなく名前の声だった。いつもと変わらない、少しだけ湿度を含んだような、それでいてどこまでも透明な、鈴を転がすような声。その声を聞いただけで、雨に濡れた不快感も、ここまで走ってきた疲労も、全部、どこかへ消えていく気がした。
「……あ、俺。五色です」
緊張で少し上擦った自分の声が、やけに頼りなく響く。
『……うん、待っていて』
短い返事の後、電子音が軽やかに鳴って、重厚なオートロックが静かに解錠される。
彼女が暮らすこの高級マンションは、いつ来ても管理人以外の人の気配が殆ど感じられない。エントランスホールに並ぶのは、全て無記名の表札。シンと静まり返った廊下。コンクリート打ちっぱなしの壁や床の質感が、どこか無機質で冷たい印象を与える。でも、その都会的な冷たさこそが、まるで額縁のように、苗字名前という稀有な存在をより一層際立たせているようにも思えた。
目的の部屋の前に辿り着くと、俺の到着を察していたかのように、扉がゆっくりと外側へ開かれた。
中からそっと顔を覗かせた彼女は、いつも好んで着ている藤色ではなく、墨に近い、深いチャコールグレーの柔らかなカーディガンを羽織っていた。その色が、彼女の透けるように白い肌と、夜の闇を溶かし込んだような黒髪を、より一層美しく引き立てている。
「濡れているね、工くん」
名前の静かな声が、俺の鼓膜を優しく撫でた。その声音には驚きよりも、どこか慈しむような響きが混じっているように感じられた。
「あ、いや……うん、途中から雨に降られて、ちょっと走ってきたから」
しどろもどろに答える俺に、名前は小さく頷き、
「そう。入って」
と、静かに促した。そのたった一言で、俺はこの部屋の、彼女だけの特別な空気に、ふわりと迎え入れられたような気がした。
部屋の中に足を踏み入れると、名前の香りが芳香剤のように、けれど、それよりもずっと自然で繊細な芳香が、部屋の隅々まで満ちているのを感じた。それは、よくある甘い花の香りなんかじゃない。もっと違う、彼女自身の肌から、吐息から、自然と滲み出るような……上手く言葉では例えようのない、清らかで、どこか儚い、特別な香り。その香りを吸い込むだけで、俺の心は不思議と安らいでいく。
促されるまま、俺は彼女がいつも座っているソファの、その隣の端の方に、少しだけ遠慮しながら腰を下ろした。柔らかなクッションが、俺の体重を優しく受け止めてくれる。
こうして二人きりで、この部屋で会うのは、一体、何度目になるだろうか。
恋人。確かに、俺達はそう呼び合っている。けれど、そのたった一言の言葉が、二人のこの複雑で、掴みどころのない関係の全てを説明できるとは、到底思えなかった。
彼女は、俺の生まれて初めての恋人で、そして、今でも一番、何を考えているのかわからない、ミステリアスな相手だ。
なのに、その"わからない"ということが、こんなにも俺の心を惹き付けて、こんなにも愛おしいだなんて、彼女と出会うまで、俺は全く知らなかった。
「今日は、その……急に来て、ごめん」
沈黙を破ったのは、俺の方だった。何か言わなければ、という焦りが、言葉になって口を衝いて出る。
「……ううん。工くんなら、いい」
名前はソファの背凭れに身体を預けたまま、静かに首を横に振った。その声はどこまでも真っ直ぐで、一点の曇りもない。
俺は、彼女のこういう、不意に見せるストレートなところに、どうしようもなく弱い。ブロックの僅かな隙間を正確に抜く、彼女の言葉のスパイクに、俺の心のディフェンスはいとも簡単に打ち破られてしまうのだ。
「……工くん、今、少し落ち着いている?」
不意に、彼女がそんなことを尋ねてきた。その声は囁くように小さくて、少しだけ震えているようにも聞こえた。
「え?」
何のことだろうか、と俺が聞き返すと、
「ううん、なんでもない」
そう言って、名前はふいと目を伏せた。長い睫毛が白い頬に微かな影を落とす。
でも、その頬が夕焼け空みたいに、僅かにほんのりと赤らんでいることに、俺は気づいていた。そして、その理由も、何となく分かっていた。
この静かで、外界から遮断されたような部屋には、俺しか居ない。
そして、彼女しか居ない。
ただそれだけの事実が、俺の頭の中を、思考回路の全てを、彼女のことでいっぱいにしてしまうのに充分過ぎる程だった。
どちらからともなく、自然と顔が近づいていく。雨に濡れた髪から滴り落ちた雫が、ソファの生地に小さな染みを作るのが見えた。でも、そんなことはもうどうでもよかった。
彼女の少しひんやりとした唇が、俺の唇にそっと重なる。最初は羽が触れるように優しく、躊躇うように。けれど、すぐにその感触は確かな熱を帯びて、深く、もっと深く、お互いを求めるように絡み合っていく。
彼女の細い腕が、俺の首にそっと回される。その華奢な身体から伝わる微かな震えと甘い吐息。俺は、彼女の小さな顎にそっと指を添え、角度を変えて、更に深い口づけを繰り返した。
彼女の口内は驚く程に柔らかく、そして熱かった。遠慮がちに絡んできた彼女の舌は、まるで初めての世界に触れるみたいにおずおずと、けれど好奇心に満ちた動きで、俺の舌に応えてくれる。その初心な反応が、俺の中の何かを激しく煽った。
もっと、彼女を感じたい。もっと、彼女の全てを味わい尽くしたい。
そんな抑え切れない独占欲が、腹の底から湧き上がってくる。俺は、彼女の腰を強く引き寄せ、その柔らかな身体を自分の胸にきつく抱き締めた。彼女のカーディガンの上質なカシミアの感触が、俺の指先に伝わってくる。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。息が苦しくなる程に求め合い、唇が痺れる程に貪り合った。キスの合間に聞こえる、お互いの荒い息遣いと、心臓の早鐘のような鼓動だけが、この静かな部屋に響いていた。
やがて名残惜しむように唇が離れると、濃密な沈黙が部屋に落ちた。けれど、その沈黙は少しも怖くなかった。寧ろ、言葉なんて必要ないくらいに、お互いの気持ちが通じ合っているような、そんな満たされた感覚があった。
彼女が、俺のTシャツの袖を、迷子の子供が母親の服の裾を掴むように、そっと、小さく摘まんだ。その控えめな仕草から、彼女の言葉にならない想いが確かに、俺に伝わってきた。
「ねえ……また、こうして会えるかな」
ぽつりと、名前が呟いた。その声は雨音に掻き消えてしまいそうなくらいに小さく、儚かった。
それは問い掛けなのか、それともただの独り言なのか、俺にはよく分からなかった。
でも、俺は迷うことなく答えた。
「……また会いに来るよ。名前が会いたくなったら、俺、いつでも、すぐに来るから」
名前が望んでいるであろう『また会えた』という、確信に満ちた言葉を、次の逢瀬で、俺は自然と口にできる気がした。これ程までに確かなものだと感じている、俺達の関係だからこそだ。
そして、俺達はまた会える。
何度でも、何度でも。
その為に、俺は今日も雨の中をここまで走ってきたんだから。
そう心の中で強く誓いながら、俺は彼女の小さな手をそっと握り返した。その手の温もりが、俺の心に確かな勇気を与えてくれるような気がした。