36.天使が囁く偽り(愛の言葉)

「愛している」という言葉が雨音に消える頃、
俺は彼女の本音に触れる。

「……また会いに来るよ。名前が会いたくなったら、俺、いつでも、すぐに来るから」  俺がそう言うと、名前は小さくこくりと頷いた。その顔は俯いていてよく見えなかったけれど、きっと、いつものあの、ほんのりと頬を染めた、愛らしい表情をしているのだろう。俺達の関係は、確かにここにある。そう信じられる温もりが、彼女の指先から伝わってきた。  その時だった。名前がふと顔を上げ、俺の濡れたTシャツに視線を落とした。今、初めて気づいたかのように、その細い眉を微かに顰める。 「……工くん、その服。濡れたままだね」 「あ、ああ。平気だよ、これくらい。すぐ乾く」 「駄目だよ。風邪を引いたら、大変だから」  そう言うと、名前はソファからするりと立ち上がり、部屋の奥へと消えた。その動きはどこかぎこちなく、何かから目を逸らそうとしているような、そんな不自然さが滲んでいた。いつもの落ち着いた彼女とは少し違う、その小さな違和感が、俺の胸にちくりとした疼きを残す。  彼女は直ぐに真っ白なバスタオルと、見慣れないTシャツとスウェットを手に戻ってきた。Tシャツには、何やら達筆過ぎる毛筆体で『天上天下唯我独尊』と書かれている。……兄貴さんの趣味か? 「これ、兄貴兄さんのTシャツとスウェット……少し大きいかもしれないけれど、工くんなら着られるでしょう? お風呂を使って。温まってきて」 「え、いや、でも……」 「いいから」  有無を言わせぬ、けれど優しい響きを持った声。その手際の良さはいつもの彼女らしいけれど、矢張り、どこか張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。何か大切なことから、必死に意識を逸らそうとしているような……そんな笑顔だった。  俺は少し戸惑いながらも、彼女の気遣いに甘えることにした。バスルームの手前でバスタオルを受け取る為に振り返ろうとした、その瞬間だった。  ふわりと背中に柔らかな感触。名前が、俺の背にそっと額を押し当ててきたのだ。彼女の細い髪が肌を擽る。 「……工くんのこと、愛しているよ」  静かに、けれどはっきりと、名前は囁いた。  その言葉は甘く、優しく、俺の鼓膜を震わせた。けれど――心のどこかで、小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。それは、余りにも完璧過ぎる言い回しだったからだ。舞台女優がクライマックスの台詞を口にするみたいに。美しく、淀みなく、だけど、本当に心の底から溢れ出た言葉なのか、確かめたくなるような……そんな、不思議な響きを持っていた。  俺は何も言えず、ただ彼女の温もりを背中に感じていた。問い詰めることなんて、できる筈もなかった。でも、その見えない違和感が、喉の奥でつかえているような気がしてならなかった。  やがて、彼女は静かに身体を離すと、俺の濡れたTシャツを指差した。 「それは、わたしが洗っておくね。お気に入りなんでしょう?」 「いや、ただの運動用の、何の変哲もないヤツだけど……」  俺がそう言い掛けると、名前はふわりと微笑んだ。その微笑みは、薄氷の上に咲いた花のように儚く、どこか危うげだった。 「……でも、工くんが着ていると、特別に見えるから」  彼女はそう呟くと、俺のTシャツを手に取り、洗濯機のある方へと向かった。その背中を見送りながら、俺は先程の「愛している」という言葉を反芻する。  天使のように美しい嘘。  そう感じてしまったのは、何故だろう。  バスルームでシャワーを浴び、兄貴さんの(やっぱり、少し大きい)Tシャツとスウェットに着替えてリビングに戻ると、名前はソファにちょこんと座って、窓の外の雨を眺めていた。その横顔はどこか物憂げで、俺は声を掛けるのを少し躊躇ってしまった。 「……あのさ、名前」  俺が口を開くと、彼女はびくりと肩を揺らし、ゆっくりとこちらを振り返った。その瞳が僅かに潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。 「……ごめん。さっき、「愛している」って言ったの、本当だけれど……本当じゃなかった」  ぽつりと、名前はそう告げた。予想外の言葉に、俺は戸惑いを隠せない。 「どういう意味……?」 「本当の気持ちなのに……今のわたしでは、その言葉を使ってはいけないような気がしていたんだ。でも、止められなかったの」  名前の声は震えていた。それは嘘をついたことへの罪悪感から来る震えとは違う。もっと切実で、痛みを伴うような響きだった。  その瞬間、俺ははっきりと気づいた。  彼女が嘘をついたのは、何かを偽ろうとしたからじゃない。  好き過ぎる気持ちを、ただ拗らせてしまった結果だったのだと。  余りにも純粋で、余りにも不器用な、彼女なりの愛情表現。その奥にある、真っ直ぐな想いに気づいた時、俺の胸は締め付けられるような愛しさでいっぱいになった。  俺は彼女の隣にゆっくりと腰を下ろし、その小さな手を取った。彼女の指先が、微かに震えている。 「じゃあ、その言葉――次は嘘じゃなくなるように、俺がするよ」  俺は、彼女の戸惑うような瞳を真っ直ぐに見つめて言った。  恋人同士の筈なのに、まだどこか、お互いに踏み込めない一線があるような気がしていた。キスの先に進むことへの、漠然とした躊躇い。それは、彼女のミステリアスな部分を守りたいという、俺の無意識のブレーキだったのかもしれないし、彼女自身の心の準備がまだ整っていなかったからなのかもしれない。  でも、今、この瞬間、その見えない壁を壊せる気がした。 「俺は、ちゃんと信じたい。例え、それが最初は嘘だとしても。名前の言葉も、名前の気持ちも、全部」  俺は彼女の指先に、そっと唇を寄せた。次に、本当に口にされる「愛してる」の言葉が、心からのものになることを願って。そして、その言葉は、俺が引き出すのだと、強く心に誓った。  名前は何も言わずに、俺の肩に頭を預けた。その仕草が全ての鎧を脱ぎ捨てたかのように無防備で、俺は堪らなく愛おしくなった。 「……濡れているの、工くんの服だけじゃないんだよ」  暫くして、名前が小さな声で呟いた。 「わたし、工くんのことで、ずっと胸の中がびしょびしょで……」 「……それ、なんかエロいから、言い方考えて」  俺が思わずツッコミを入れると、名前はくすくすと肩を揺らして笑った。その笑顔はさっきまでの張り詰めたようなものではなく、雨上がりの空みたいに、どこまでも澄み渡っていた。  天使が囁いた偽りの愛の言葉は、きっと、もう直ぐ本当になる。  その確信が、俺の心を温かく満たしていく。俺は彼女の柔らかな髪に鼻を埋め、その香りを深く吸い込んだ。雨はまだ降り続いているけれど、この部屋の中だけは陽だまりのような温もりに包まれていた。


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