29.焼け野原に水を注ぐ | 不器用でも、ちゃんと想いは伝えたい。

 昨夜の絶叫は幸か不幸か、寮監の耳には届かなかったらしい。しかし、隣の部屋の寮生や数人の先輩にはバッチリ聞かれていたようで、朝食の席で「五色、昨日、なんか変な夢でも見たのか? 魘されてたぞ」と心配されてしまった。俺は「は、はい! ちょっと、怖い夢を……」と、しどろもどろに答えるしかなかった。まさか、好きな女子に誤って告白ボイスメモを送ってしまい、パニックで叫んだなんて、口が裂けても言えない。  心臓が昨夜からずっと、おかしなリズムを刻んでいる。まるで、試合で牛島さんにトスが上がった瞬間の、あの複雑な高鳴りにも似ている。いや、それ以上にもっと個人的で、どうしようもない焦燥感を伴っている。苗字さんは、あのボイスメモをどう思っただろうか。内心、「気持ち悪い」とか「何、この人」とか、そう思われていたら……。考えただけで、胃がキリキリと痛む。正に、心の中が焼け野原だ。何もかもが燃え尽きて、灰色の煙だけが虚しく立ち昇っている。  バレー部の朝練に向かう前、寮の談話室の隅でストレッチをしていると、ひょっこりと天童さんが現れた。いつも通りの飄々とした表情だが、その目は何かを面白がっているようにキラキラしている。 「やっほー、工。昨日はよく眠れた~?」 「……天童さん……。お陰様で、最悪の夜でした……」  俺が力なく答えると、天童さんは「おやおや~?」と、わざとらしく首を傾げた。 「どったの? もしかして、例のボイスメモ、なんかあった?」 「……ありました……。大ありでした……」  俺は観念して、昨夜の惨劇――苗字さんにボイスメモを誤送信してしまったこと――を、ぽつりぽつりと話し始めた。話している内に、また顔から火が出そうになる。 「……で、苗字さんに送っちゃった、と」  一通り聞き終えた天童さんは、数秒間、何かを考えるように黙り込んだ。そして、次の瞬間。 「ぶふっ……! あはははは! マジで!? 工、お前、サイコーだよ!」  腹を抱えて笑い出した。やっぱり、この人は……! 「わ、笑い事じゃないですよ! 俺はもう、どうしたらいいか……!」 「いやいや、ごめんごめん! でもさー、想像したら面白くって! 真夜中に、あの工が、布団の中で、真っ赤になりながら録音して、それを間違って好きな子に送信……! ぷぷっ、漫画かよ!」  一頻り笑った後、天童さんは漸く真顔に戻った。……いや、まだ少し口元が笑っている。 「まあまあ、落ち着きなって。送っちゃったもんは仕方ないじゃん? で? 苗字さんからの返信は?」 「……それが……『昨日の続き? 聞かせてくれるの?』って……」 「はぁ~~~!? 何それ、めっちゃ意味深じゃん! 苗字さん、やるねぇ! それ、完全に脈アリってことじゃないの!?」  天童さんのテンションが、また一段階上がる。 「そ、そうなんですかね……? 俺には、揶揄われてるようにしか思えなくて……」 「んー、まあ、揶揄ってる部分もゼロではないかもだけどさ。でも、本当に嫌だったら、もっとこう、素っ気ない返事とか、既読スルーとかするでしょ、普通。わざわざそんな思わせ振りなメッセ送ってくるってことは、工のこと、意識してる証拠だって!」  天童さんの言葉は不思議と説得力があった。少しだけ、ほんの少しだけ、焼け野原だった心に一滴の水が落ちたような気がした。 「で、工はどうするわけ? このビッグウェーブに乗っちゃう?」 「ビッグウェーブ……」 「そうそう! もう、ここまで来たら、当たって砕けろ! いや、砕けちゃダメだけど! ちゃんと、自分の口から、もう一回伝えるべきじゃない?」 「で、でも、何をどう言えば……。また、声が裏返ったり、変なこと言っちゃったりしたら……」  自信なさげに俯く俺の肩を、天童さんがポンと叩いた。 「だーいじょうぶだって! そういう時は、練習あるのみ!」  そう言うと、天童さんはこちらに向き直り、急に女の子の声真似を始めた。 「つとむくん……あたし、最近、工くんのこと、ずっと考えちゃってて……(はぁと)」  ひぃぃぃぃぃ!!  思わず想像してしまい、その場で仰け反る。天童さんの声真似に対しては背筋に寒気が走っているのに、それとは真逆に顔が熱い。心臓が煩い。頭の中が混乱でいっぱいになり、冷静な思考なんて、最早、とっくに機能停止だ。 「ちょ、やめてくださいってば、天童さん!! 無理です無理ですそんなの!!」  手で顔を覆って震える俺を見て、天童さんはまたしても愉快そうに笑い出す。 「っはははっ! いやぁ、良いリアクションだわ~~! でもさ、工。マジな話、ちゃんと自分の気持ち伝えたいなら、練習でもなんでもしておいた方がいいって。言葉にするのって、思ってるより難しいからさ」  笑いながらも、その声には確かに芯があった。揶揄っているようでいて、真剣に背中を押そうとしてくれているのが伝わってくる。  俺は顔から手を退けて、そっと天童さんの方を見る。 「……練習、してみた方が、いいですかね」 「うん、絶対いい。じゃあ、行くよ? 俺がまた苗字さんやるから、告白タイム、スタート!」  冗談めかした調子で両手を広げる天童さん。だけど、俺はそのふざけた空気に、妙に助けられていた。深呼吸を一つ。 「……俺は、苗字さんのことが、好きです」  それはシンプルな言葉だった。でも言ってみると、胸の奥がほんの少し軽くなる。焼け野原にまた一滴、水が落ちる。 「おぉ~~! いいじゃんいいじゃん! 今の声、ちゃんと届きそうだったよ! でも~~」  ぴた、と天童さんが急に声を低くする。 「肝心なのは、"いつ"言うか、なんだよね。勢いだけでも、焦っても、多分ダメ。ちゃんと、相手の目を見て、タイミングを逃さないこと。……まあ、それが一番難しいんだけどね」  俺はその言葉を心に刻み付けるように、何度も繰り返した。タイミング。それが一番重要で、一番難しい。 「……はい。俺、ちゃんと考えてみます。タイミングも、自分の気持ちも、全部」  天童さんは、にんまりと笑って立ち上がる。 「うんうん! 良きかな良きかな! よし、じゃあ、お兄さんはこれで~。また進捗あったら報告してね♪」  勝手に『第二弾・恋愛指南教室』を閉講して、天童さんは颯爽と去っていった。談話室に静けさが戻る。  さっき口にした「好きです」の言葉が、まだ談話室の空気の中にふわりと残っているような気がした。  ――いつ、言えばいいのか。  ――どんな風に、言えばいいのか。  その答えはまだ出ない。でも、一つだけ確かなのは。  俺は、苗字名前のことが好きだってことだ。  そして、あのボイスメモは間違いなく、彼女に届いてしまった。もう、後戻りはできない。
 昨夜、五色くんから送られてきた、あの拙いボイスメッセージ。  それを聞いた瞬間から、わたしの中の何かが静かに、でも確実に動き始めていた。  彼の声。彼の戸惑い。彼の隠し切れない想い。  それが、まるで乾いた大地に染み込む水のように、わたしの心を潤していく。  今まで、わたしと彼の周りには、どこか見えない壁のようなものがあった。お互いに意識はしているけれど、決定的な一歩を踏み出せない、もどかしい距離感。それが、あのボイスメッセージによって、ほんの少しだけ壊れた気がした。  朝、教室で五色くんの姿を見つけた時、彼は明らかに動揺していた。視線が合っても直ぐに逸らされてしまうし、頬も耳も真っ赤だ。きっと、昨夜のことを思い出して、一人でパニックになっているのだろう。その様子がなんだかとても愛おしくて、思わず口元が緩んでしまう。  わたしが送った『昨日の続き? 聞かせてくれるの?』というメッセージ。  あれの半分は、彼を揶揄う気持ち。そして、もう半分は、わたしの素直な期待だった。  彼の口から、ちゃんとした言葉で、彼の想いを聞きたい。  あのボイスメッセージは、謂わば予告編のようなもの。本編はこれからなのだと、わたしは信じている。  昼休み。わたしは中庭のベンチで本を読んでいた。春の柔らかな日差しが心地よい。  ふと顔を上げると、少し離れた場所で、五色くんが一人、そわそわと何かを探しているような素振りを見せていた。目が合うと、彼はびくりと肩を震わせ、慌てて視線を逸らす。そして、何かを決意したように、こちらへ向かって歩き始めた。  その足取りはどこかぎこちなく、緊張しているのが遠目にも分かる。 「……と、苗字さん」  わたしの目の前で立ち止まった五色くんは深呼吸を一つしてから、意を決したように口を開いた。 「あの……昨日の、ボイスメッセージのことなんだけど……」  五色くんの声は少し掠れていて、緊張で強張っているのが伝わってくる。 「うん」  わたしは静かに頷き、五色くんの次の言葉を待った。心臓が、少しだけ速く脈打つのを感じる。 「あれは……その……事故、と言うか……間違って、送っちゃったもので……だから、その……」  しどろもどろになりながら、必死に弁解しようとする五色くん。その姿がなんだかとても彼らしくて、わたしは思わず小さく笑ってしまった。 「ふふっ」 「え……?」  わたしの笑い声に、五色くんはきょとんとした顔をする。 「ごめんなさい。でも、五色くんがそんなに慌てているの、なんだか可愛くて」 「か、可愛いって……! 俺は、別に……!」  顔を真っ赤にして否定する五色くん。 「昨日のボイスメッセージ、わたし、嬉しかったよ」 「……え?」  わたしの言葉に、五色くんは信じられないと言うように目を見開いた。 「だから、昨日の続き、聞かせてもらいたいなって、本気で思っているよ」  わたしは、彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。もう、慣れない駆け引きは終わり。わたしも、自分の気持ちに素直になりたい。  五色くんは、わたしの言葉の意味を理解しようとするように、暫く黙り込んでいた。そして、やがて、彼の瞳に、確かな決意の色が宿るのが見えた。 「……苗字さん」  五色くんの声は、もう震えていなかった。 「俺……俺は……!」  ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえる。  わたしは静かに、五色くんの言葉を待った。  まるで、焼け野原に恵みの雨が降り注ぐのを待つように。  そして、その雨はきっと、新しい緑を芽吹かせるだろう。  わたしと、彼の心の中に。


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