
この気持ちは、一体、なんなんだろう。ただの憧れ、ではもう説明がつかない。彼女の笑顔を見るだけで心臓が跳ね上がり、彼女の声を聞くだけで身体が熱くなる。彼女に近づきたい、もっと知りたい、そして……独り占めしたい。そんな、今まで知らなかった感情が、俺の中で渦巻いている。
でも、どうすればいいのか分からない。この気持ちをどう扱えばいいのか。そして、苗字さんは、俺のことをどう思っているのか。「昨日の続き」って、一体、何を聞きたかったのか。考えれば考える程、頭の中がぐちゃぐちゃになって、オーバーヒートしそうだ。
このままでは駄目だ。この煮え切らない想いを抱えたまま、エースとしてコートに立つなんて、牛島さんやチームの皆に申し訳ない。それに何より、この宙ぶらりんな状況が、苗字さんとの関係を、そして、俺自身の気持ちをも無意味に"踏み躙って"いるような気がして、焦りばかりが募るのだ。
その日の放課後。
寮の談話室で自主練のメニューを考えていると、少し離れたソファから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「なあ、太一。最近の五色、前にも増して変じゃないか?」
白布さんの、いつも通りの若干棘のある声。
「あー、分かる。なんか妙にソワソワしてるって言うか、上の空って言うか。練習中も時々、変なミスするしな」
川西さんの、どこか面白がっているような声。
「だよな。飯食ってる時も、心ここにあらずって感じだし。まさか、どっか悪いんじゃ……」
おいおい、聞こえてますよ、先輩方。俺は至って健康です! ……と言いたいところだが、まあ、否定できない自分も居る。確かに最近、集中力が散漫になっている自覚はあった。
その時だった。白布さん達の背後から、ひょっこりと顔を覗かせた人物が居た。特徴的な赤い髪、飄々とした雰囲気。天童さんだ。
「ん~~~? なになに? 工が変? どったのどったの~~~?」
面白そうなことには、誰よりも早く食い付くのがこの人だ。
「いえ、天童さん。別に……」
白布さんが面倒臭そうに言い掛けたのを遮るように、天童さんはパチンと指を鳴らした。
「はっはーん! ピーンと来たね! そのソワソワ、その上の空! 間違いないね、これは……」
ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべて、天童さんは俺の方を指差した。
「恋! 恋だね!? あの真面目一徹、バレー馬鹿の工が、恋煩い!? うっわ、マジで!? そんな美味しいネタ、聞いちゃったらもう~~~!! 放っておけないじゃないの~~~!!」
全身で喜びを表現するように、天童さんは奇妙なステップを踏みながら、俺に迫ってきた。完全に面白い玩具を見つけた子供の顔だ。
「ちょ、天童さん! 違いますって! 俺は別に……!」
慌てて否定しようとするが、完全に目を付けられてしまった。有無を言わさず腕を掴まれ、談話室から引き摺り出される。
「まあまあ、そう固いこと言わないの! お兄さんがちゃーんと、悩み聞いてあげるからさ! ねっ?」
ウィンクと共に有無を言わせぬ力でぐいぐいと引っ張られ、気づけば、俺は自分の部屋の前に連れてこられていた。完全に"遊び半分"なテンションなのは見え見えだが、この人の場合、遊び半分の中に妙な真実が混じっていることがあるから油断できない。内心、超真面目に応援する気満々とか、そういう可能性も……いや、ないか。
部屋に押し込まれ、ベッドに座らされる。天童さんは向かいの椅子にどっかりと腰を下ろし、にこにこと俺を見つめていた。まるで尋問官のような、或いは珍しい生き物を観察するような目で。
「さーて、天童覚の! 緊急恋愛指南教室~~~! 開講でーす! パフパフ~!」
一人で効果音まで付けている。被害sy……受講者は勿論、俺一人だ。
「で? どうしたのさ、工クン。好きな子の前で、声裏返っちゃったとか? それとも、ラブレター渡そうとして、間違ってノートに挟んで提出しちゃったとか?」
揶揄うような口調。でも、その目は真剣に、俺の反応を窺っている。
「そ、そんなベタなこと……! あ、いや、声は、ちょっと裏返ったかもしれないですけど……! でも、そういうことじゃなくて……!」
しどろもどろになる俺を見て、天童さんは「やっぱり~」とでも言うように、くつくつと笑った。
「まあまあ、落ち着きなって。で、お相手は? どんな子なの?」
「え……あ、あの……同じクラスの……苗字さん、っていう……」
名前を口にしただけで、また顔に熱が集まるのが分かる。
「ふぅん、苗字さんねぇ……。あー、あの、なんかこう、大人しそうな雰囲気の美人さん? いつも静かに本読んでる感じの」
「! よくご存知で……」
「伊達に人間観察してないからね~。で? その苗字さんに、どうしちゃったわけ?」
天童さんの、普段の飄々とした態度からは想像できないような、真剣な眼差しと、時折挟まれる絶妙にふざけた合いの手に、俺はいつの間にか、ぽつり、ぽつりと、苗字さんへの想いを話し始めていた。
彼女に初めて声を掛けられた時のこと、雨の日に傘に入れてあげたこと、彼女の家にお邪魔したこと、そして、あの耳元の囁き……。
「うんうん、成る程ね~。それはもう、完全に、ロックオン☆されちゃってるね、工は」
「ロックオン……ですか?」
「そうそう。彼女、なかなかやるねぇ。工みたいな、前髪と同じくらい真っ直ぐでガードの固いタイプを、じわじわ追い詰めてく感じ? ハンターだね、ハンター!」
「は、ハンター……」
苗字さんがハンター? 想像がつかない。けれど、あのペースに翻弄されているのは事実だ。
「で? 工はどうしたいワケ? このまま、彼女の手のひらでコロコロ転がされちゃってるだけでイイの?」
「そ、そんなわけないです! 俺は……ちゃんと、伝えたい、です。自分の気持ちを……」
「おっ、言うねぇ! じゃあさ、練習しちゃう? 今、ここで! 俺が苗字さん役やってあげるからさ! ねぇ、やってみてやってみて!!」
天童さんは立ち上がり、妙なクネクネした動きで「さあ、どうぞ?」と促してくる。
「ム、ムリですよッ……! 人前で、そんな……! しかも、天童さん相手に!」
「え~~~、つまんないの~。じゃあさ……」
天童さんはポケットからスマホを取り出した。そして、或るアプリを起動させる。
「こういうのはどうかなぁ~?」
画面に表示されていたのは、『ボイスメモ』の文字。
「録音してみたらどう? いきなり本人に言うのが無理ならさ、まず、自分の言葉で残してみなよ。頭の中でぐるぐる考えてるだけじゃ、形にならないでしょ? 言えないままでいると、腐っちゃうよ~、恋心ってや・つ・は♪ ねちょねちょになって、カビ生えちゃったりしてさ~」
最後のは余計だ。けれど、天童さんの言葉は、妙に俺の心に引っ掛かった。
「…………録音……」
言いたいこと。伝えたい気持ち。それを言葉にする。
確かに頭の中だけでは纏まらない。声に出してみることで、何か変わるかもしれない。
「ま、やるかやらないかは、つとむ次第だけどね~。健闘を祈る!」
そう言って、天童さんは俺の肩をポンと叩き、部屋から出て行った。嵐のような先輩だった。
その夜。
寮の自室のベッドの上。消灯時間を過ぎ、部屋は真っ暗だ。俺は布団の中に潜り込み、スマホの画面の明かりだけを頼りに、息を潜めていた。
心臓が昼間よりもずっと大きく、速く脈打っている。
(……録音、してみるか)
天童さんの言葉が、頭の中で繰り返される。「言えないままでいると、腐っちゃう」。それは嫌だ。この気持ちは腐らせたくない。
意を決して、ボイスメモアプリを起動し、赤い録音ボタンに指を置く。深呼吸を一つ。
ピッ。
静かな部屋に電子音が響く。録音が始まった。
「…………えっと…………」
声が掠れる。喉がカラカラだ。
「……と、苗字さん……」
いや、違う。もっと、こう……。
「……いや、名前……さん……」
名前で呼ぶなんて、まだ早いか? いや、でも、いつかは……。
「あ、いや、やっぱり苗字さん、で……えっと、あの……」
ダメだ、全然言葉が出てこない。顔が布団の中で、カッと熱くなる。
「ああああ~~~!!! 何言ってんだ、俺は!!!」
思わず小さな声で叫び、録音を停止。再生してみると、情けない自分の声が聞こえてきて、更に落ち込む。
もう一度だ。今度こそ、ちゃんと。
ピッ。
「……苗字さん。あの、突然ごめんなさい」
うん、これなら、まだマシか。
「俺……苗字さんのこと……」
好きだ、と言いたい。けれど、その一言が鉛のように重くて、口から出てこない。
「……その……いつも、目で追ってしまって……すみません……」
違う! 謝りたいわけじゃない!
「……っ、ちゃんと、伝えたいんだ。俺……苗字さんのこと、ずっと……ずっと前から――」
そこで言葉が詰まる。胸がいっぱいで、息が苦しい。顔が熱くて、心臓が痛い。
録音停止。
はぁ、と深い溜息をつき、スマホを放り出して、シーツに顔を埋めた。無理だ。録音ですら、こんなに緊張するなんて。これを本人に直接伝えるなんて、一体、どうすれば……。
何度も録っては消し、録っては頭を抱え、悶絶する。シーツは、俺の苦悩の跡でくしゃくしゃだ。
一体、どれくらいそうしていただろうか。最後に一つだけ、消さずに残ったボイスメモがあった。それは途切れ途切れで、決して上手くはないけれど、今の俺の一番素直な気持ちが、少しだけ込められているような気がした。
「……苗字さん……あの……俺は……貴女のことが……」
最後の言葉は、殆ど吐息のようだった。
(……これを、どうしろって言うんだ……)
結局、天童さんの言う通りにしたところで、何の解決にもなっていない気がする。ただ、自分の不甲斐なさを再確認しただけだ。
疲労感と共に、俺はスマホを枕元に置き、目を閉じた。明日も朝練がある。早く寝なければ。
――― その、数分後のことだった。
枕元で、スマホが短く震えた。トークアプリの通知だ。こんな時間に誰だろう? 天童さんか?
眠い目を擦りながら、画面を確認する。相手は予想通り、天童さんだった。
『つとむ~~~、例の件、進捗どうよ?(・∀・)ニヤニヤ』
変な顔文字付きのメッセージ。この人は本当に……。
寝惚け眼で返信を打とうとした。
『まだ何も……』
その時だった。手が滑ったのか、或いは寝惚け頭で操作を誤ったのか。
操作ミスを取り消そうとした指先が、更なる操作ミスを呼び、最終的に画面に表示されたのは、『ボイスメモを送信しました』という無慈悲な通知。
送信先は――― 【苗字 名前】
「…………………は?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
数秒後、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああ?!!!!!ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
その悲鳴が、抑え切れずに喉から溢れ出していた。
布団の中で、俺は絶望に打ちひしがれるしかなかった。
時刻は深夜を少し過ぎた頃。
読み掛けの本を閉じて微睡み始めた頃、わたしの枕元でスマートフォンが短く震えた。こんな時間に誰だろう、と画面を見ると、そこには予想外の名前が表示されていた。
【五色工】
彼からのメッセージ通知。こんな時間に珍しい。それも、ボイスメッセージ……?
不思議に思いながら再生ボタンを押すと、彼の声が聞こえてきた。
『……苗字さん……あの……俺は……貴女のことが……』
そこで途切れた言葉。その先を聞きたいのに、何も続かない。
けれど、そのたどたどしい呼び掛けと、殆ど吐息のような声色だけで充分だった。五色くんの鼓動が聞こえるような、切実な響き。
わたしは、彼が録音ボタンを押して、どんな顔で、どんな気持ちでこれを吹き込んだのかを想像して、思わず笑みが零れた。
(……ふふっ、可愛い)
五色くんの真面目さ、不器用さ、そして隠し切れない熱情。
きっと、彼は今頃、頭を抱えて悶絶しているのだろう。
わたしが伝えた「昨日の続き、聞いてもいい?」という言葉への、彼なりの答えなのだろうか。
わたしは、彼がどんな反応をするか見たくて、少し意地悪な返信を送ってみた。
『昨日の続き? 聞かせてくれるの?』
既読の表示は直ぐに付いた。
けれど、返信はない。
きっと、五色くんのことだから、今頃はスマートフォンを握り締めて、どうしようかと慌てているに違いない。
(ふふふ、困らせてしまったかな)
わたしはもう一度だけ、五色くんの送ってきたボイスメッセージを再生した。
彼の声が、夜の静寂に溶けていく。
(明日、どんな顔をして会おうかな)
そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。
彼の真っ直ぐな瞳が、わたしだけを見つめる瞬間を、わたしは待っている。
彼が、その想いを、臆病な心を"踏み躙って"、わたしにぶつけてくれる日を。


