
放課後、雨宿りの傘の下――
"好き"の距離が、少しだけ縮まった。
雨音だけが支配する世界を一つの傘の下で歩く。
左隣には、苗字名前が居る。さっきまで雨に濡れていた彼女の肩からは、湿った布と、シャンプーなのか、ふわりと甘い香りが漂ってきて、俺の意識を否応なく掻き乱した。自分の右肩は傘からはみ出して、既にブレザーがじっとりと重くなっているけれど、そんなことは些細な問題だった。問題なのは、心臓が本来在るべき場所を忘れたかのように、不規則かつ暴力的に脈打っていることだ。
(家、に……苗字さんの、家に……!?)
『あわよくば、今日、わたしの家に来る?』
あの言葉が壊れたレコードのように、頭の中で繰り返される。あわよくば、じゃなくて、それはもう確定事項じゃないか。俺は頷いてしまったのだ。白鳥沢のエースたるもの、どんな状況でも冷静沈着であるべきだ。そうだ、きっと牛島さんだって、こんな時でも泰然自若としているに違いない。だがしかし、今の俺はなんだ。完全に浮き足立っている。レシーブもメンタルもまだまだだって、白布さんによく怒られるけど、恋愛偏差値に至っては測定不能レベルで低いんじゃないか。
「……あのさ、苗字さん」
「なに?」
隣から聞こえる声は雨音に溶けることなく、クリアに鼓膜を震わせる。
「その……寮、門限とか、あるんだけど……」
言い訳がましい。情けない。けれど、何か言わなければ、このまま無言で彼女の家に着いてしまう。それはそれで心臓が持たない気がした。
「そう。じゃあ、門限までには帰さないとね」
あっさりと、苗字さんは言った。まるで、俺の葛藤などお見通しだと言わんばかりに。その余裕綽々な態度が、また俺の心をざわつかせる。
やがて、瀟洒なマンションの前に辿り着いた。エントランスには集合ポストが並んでいるが、どの部屋番号にも名前が書かれていない。奇妙な光景に一瞬戸惑ったが、苗字さんは慣れた様子でオートロックを解除し、中へと促した。
「どうぞ」
静かなエントランスホールを抜け、エレベーターに乗る。狭い密室。二人きり。上昇していく感覚と共に、俺の緊張も天井知らずに上昇していく。壁の鏡に映る自分の顔は間違いなく強張っていた。隣の苗字さんは、どこか楽しそうに階数表示のランプが点灯していくのを眺めている。
(なんでこんなに落ち着いてるんだ、苗字さんは……!? 俺だけか!? こんなにドキドキしてるのは!?)
チーン、と軽やかな音がして、目的の階に到着した。
廊下を進み、一つのドアの前で、苗字さんが鍵を取り出す。ガチャリ、と施錠が解除される音は、俺にはまるで、未知の世界への扉が開く音色のように聞こえた。
「お邪魔します……」
蚊の鳴くような声で呟きながら、俺は恐る恐る部屋の中へと足を踏み入れた。
玄関は広く、清潔に整頓されている。廊下の先から、リビングらしき空間が窺えた。ふわりと、微かにインクと紙のような匂いが混じった、生活感のある香りがした。
「タオル、使う? 後、何か温かいものでも飲む?」
苗字さんが振り返り、俺の濡れた肩を気遣うように言った。
「あ、ああ……ありがとう。じゃあ、先にタオルだけ……」
差し出された清潔なタオルを受け取る。その指先が、ほんの一瞬だけ触れた。それだけで、また心臓が跳ねる。
(ダメだ、意識し過ぎだ……! 落ち着け、俺!)
リビングに通されると、そこは想像していたよりもずっと落ち着いた空間だった。大きな窓からは、雨に煙る町並みが見える。壁一面の本棚には、びっしりと本が詰まっていた。絵本らしき背表紙も多い。ソファとローテーブルがあり、隅には観葉植物が置かれている。全体的にセンスが良いが、どこか生活感の希薄な、モデルルームのような印象も受けた。
「適当に座っていて。今、紅茶を淹れるから」
キッチンに向かう苗字さんの背中を見送りながら、俺は所在なくソファの端に腰を下ろした。クッションがふかふかと身体を受け止める。けれど、心は少しも休まらない。
(苗字さんの家……本当に来ちゃった……)
きょろきょろと室内を見回していると、本棚の一角に、見覚えのあるキャラクターのぬいぐるみが飾られているのが目に入った。最近、人気のバレーボールアニメの、ライバル校のマスコットキャラクターだ。
(え、苗字さん、こういうのも好きなのか……?)
意外な一面に、少しだけ親近感が湧く。同時に、彼女の知らない部分をもっと知りたいという欲求がむくむくと湧き上がってきた。
やがて、苗字さんがティーカップを二つ、トレイに乗せて戻ってきた。湯気の立つ紅茶からは、ベルガモットの良い香りがした。
「どうぞ。アールグレイだけれど、大丈夫?」
「あ、うん! ありがとう!」
カップを受け取り、一口飲む。温かい紅茶が、緊張で冷えた身体にじんわりと染み渡るようだった。
「……さっきの、話だけれど」
苗字さんがローテーブルにカップを置きながら、切り出した。俺の心臓が、またドクンと跳ねる。
「さっきの……?」
「好きって、何回言ったら伝わるのかなって話」
来た。核心。俺は思わず身構えた。カップを持つ手が微かに震える。
「……そ、それは……相手によるんじゃないか……?」
なんとか捻り出した答えは、余りにも凡庸だった。情けない。もっと気の利いたこと、エースらしい、ビシッとした一言は言えないのか、俺は。
「そう。相手による、か。……じゃあ、五色くんになら、何回言ったら伝わる?」
真っ直ぐな視線が、俺を射抜く。
深い海の底のような瞳。吸い込まれそうだ。雨に濡れた睫毛は乾き、今はただ静かに、俺の反応を待っている。
「お、俺に……!?」
完全に不意を突かれた。まさか、自分を対象に訊かれるとは。思考が完全に停止する。頭の中が真っ白になる。
好きって、何回。俺に。苗字さんが?
え?
どういう意味だ?
これは、もしかして、そういうことなのか?
いや、でも、苗字さんに限って……いや、でも、さっきの「あわよくば」とか……。
ぐるぐると思考が空転する。顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
「……わ、わかんない……そんなの……」
か細い声で答えるのが精一杯だった。視線はテーブルの上のティーカップに落としたまま、上げられない。
「ふふ」
苗字さんが、小さく笑う気配がした。楽しんでいる。完全に、俺で遊んでいるんじゃないか、この子は。
(くそっ……! なんで、俺はいつもこうなんだ……!)
悔しさと、期待と、混乱と。ぐちゃぐちゃになった感情が胸の中で渦を巻く。
もう、どうにでもなれ、という気分になってきた。
(もういっそ……!)
もういっそ、聞いてしまおうか。「それって、俺が好きってこと?」って。
いや、駄目だ。そんなこと聞けるわけがない。もし違ったら? 自意識過剰だって笑われたら? 白鳥沢のエースとしてのプライドが粉々に砕け散る。
(もういっそ……!)
もういっそ、このまま時間が止まってしまえばいい。この、心臓に悪いけど、どこか甘い緊張感が続くなら、それでも……。
(もういっそ……!)
もういっそ、告白して……!
そこまで考えた瞬間だった。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー、名前。……おや?」
リビングのドアが開き、ひょっこりと顔を出したのは、黒い服を着た、長身の男性だった。整った顔立ち。苗字さんとよく似た、静かな雰囲気を持っている。けれど、その手には何故か、"打倒!ラスボス"と書かれた奇妙な文字入りTシャツが握られていた。
「……兄貴兄さん。お帰りなさい」
苗字さんが立ち上がり、静かに言った。
「うん。……ところで、お客さん? 初めて見る顔だね。名前の友達かい?」
男性――苗字さんの兄、兄貴さんは柔和な笑みを浮かべて、俺を見た。その視線は値踏みするようなものではなく、純粋な興味といった感じだ。
「あ、あのっ! は、初めまして! 同じクラスの、五色工です! いつも、苗字さんには……いや、名前さんには、お世話になってます!!」
俺は弾かれたようにソファから立ち上がり、殆ど叫ぶような声で自己紹介をした。90度の完璧なお辞儀付きで。
「ご、五色くんですか。どうも、苗字兄貴です。名前の兄です。……ふむ、君が五色くんか。名前から話は聞いているよ」
兄貴さんは少し驚いたように目を瞬かせた後、にこやかに言った。
「えっ!? さ、名前さんから……!?」
俺の顔が、再びカッと熱くなる。何を、どんな風に聞いているんだ!?
「うん。『クラスに、凄く真っ直ぐで、面白い子が居る』ってね。……うん、確かに、一目でそうだと分かる。彼は良い子だね、名前」
兄貴さんは、ポン、と俺の肩を軽く叩いた。その仕草は親しみに満ちていたが、俺にとっては完全にキャパシティオーバーだった。
(良い子……!? 面白い子……!? ま、真っ直ぐ……!?)
褒められている。苗字さんのお兄さんに。それは嬉しい筈なのに、なんだか物凄く居た堪れない。顔から火が出そうだ。
「……兄貴兄さん。五色くんが困っているでしょう?」
苗字さんが呆れたような、それでいて、少し楽しそうな声で兄貴さんを窘めた。
「おっと、すまないね、五色くん。つい、妹の友達となると、興味が湧いてしまってね。新作の物語は、真っ直ぐ過ぎるが故に空回りしがちな、若きエースを主人公にしようと思っているんだ。何か参考に……」
「兄貴兄さん」
苗字さんが、ぴしゃり、と兄貴さんの言葉を遮る。
「……はいはい。邪魔者は退散するよ。あ、五色くん、ゆっくりしていってね。あ、そうだ、これ、今日の戦利品」
そう言って、兄貴さんは手に持っていた"打倒!ラスボス"Tシャツをひらひらとさせながら、リビングから出て行った。嵐のような登場と退場だった。
後に残されたのは、呆然と立ち尽くす俺と、何事もなかったかのように紅茶を飲んでいる苗字さん。そして、気まずい沈黙。
(……もう、なんか、色々あり過ぎて、わけわかんねぇ……)
さっきまでの、あのドキドキした空気はどこへやら。完全に、兄貴さんの登場によって掻き消されてしまった。
「……ごめんね、兄が騒がしくて」
「い、いや! 全然! 優しいお兄さん、なんだな……」
俺はまだ混乱した頭で、なんとか言葉を返した。
結局、その後は当たり障りのない話をして、借りている本の感想を少しだけ伝え(「声みたい」と再び言った時の、苗字さんの嬉しそうな顔は、しっかり目に焼き付けた)、あっと言う間に時間は過ぎた。
「……そろそろ、門限、ヤバいかも」
「そう。じゃあ、送るよ」
「え、いや、いい! 大丈夫だから!」
慌てて断り、玄関へ向かう。
靴を履きながら、今日の出来事を思い返す。雨の中の帰り道、彼女の家、二人きりの時間、核心に迫る(?)質問、そして、お兄さんの登場……。
(結局、何も進展してない……? いや、でも……)
「五色くん」
ドアを開けようとした瞬間、背後から苗字さんの声がした。振り返ると、彼女は玄関の上がり框に立ち、静かにこちらを見ていた。
「……今日、来てくれて、ありがとう。……嬉しかった」
そう言って、ふわりと微笑んだ。それは、今日見た中で一番柔らかくて、優しい笑顔だった。
「……っ!」
俺は言葉を失った。ただ、その笑顔に、心臓を鷲掴みにされた。
(……嬉しかった、か)
それだけで、充分過ぎるかもしれない。
いや、充分じゃない。
「お、俺も……! その、紅茶、美味かった! ありがとう!」
それだけ言うのが精一杯で、俺は勢いよくドアを開け、マンションを飛び出した。
外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。湿ったアスファルトが外灯の光を鈍く反射している。
寮への帰り道、俺は早鐘を打つ心臓を押さえながら、今日の出来事を何度も反芻していた。
(苗字さんは、やっぱり何を考えてるか分からない……。でも……)
でも、今日、少しだけ、彼女の心に近づけたような気がした。あの笑顔は、きっと本物だ。
(次は……次こそは……!)
もっと鋭いクロスを打てるようになりたい。それと同じくらい、自分の気持ちを真っ直ぐに伝えられるようになりたい。
(もういっそ、じゃなくて……ちゃんと、俺の言葉で……!)
決意を新たにする俺だったが、その道程が険しいであろうことは、自分自身が一番よく分かっているのかもしれない。それでも、雨上がりの夜空に、微かに星が瞬き始めているように、俺の心にも、確かな希望の光が灯っていた。
苗字名前という、掴みどころのない、けれど抗い難い程に魅力的な少女への想いと共に。