
放課後を濡らす雨は、まるで天気予報が大外れした日の、不意打ちの告白みたいだった。しとしとと降り続く雨粒が、グラウンドに残る白いラインを滲ませ、淡く溶かされた水彩画のような景色を作り出している。白鳥沢学園の高い天井を持つ教室の窓ガラスに、額を押し付けんばかりにしてその様子を見下ろしながら、五色工は誰にも聞こえない程の小さな溜息を漏らした。声に出すレベルの絶望ではない。けれど、それは彼の胸の内側で、制御の利かない振り子のようにぐらぐらと揺れ動く、もどかしい感情の現れだった。
(まただ。今日も、ちゃんと言えなかった……)
帰り支度を進めながら、自分のスポーツリュックのチャックが、妙なところで引っ掛かって閉まらないことに気づく。無理に力を込めれば壊れてしまいそうで、指先が躊躇う。中には、昨日、同じクラスの苗字名前が「これ、面白いよ」と貸してくれた文庫本が、他の教科書やジャージに紛れて収まっている。淡いベージュ色のブックカバーには、可憐な白い花の写真があしらわれていた。彼女は「ちょっと切ないけれど、最後まで読んだら、きっと心が温かくなると思う」と、少しはにかみながら言っていた。けれど、五色はまだ、その物語の入り口、十ページ程を彷徨っているに過ぎなかった。
ページを開こうとすると、どうしても、あの声が文字の隙間から立ち上ってくるからだ。
「五色くん、」
そう呼ばれる度に、自分の中の、普段は整然と並んでいる筈の何かが、不自然な音を立てて弾け飛ぶ。降り頻る雨音が窓を叩き、周囲の騒めきを掻き消しているというのに、彼女の声だけは、例え脳内で再生される幻聴であっても、鼓動が跳ねる程の鮮明さで胸を突くのだ。
昇降口を出た五色が、ふと視線を校門の方へ向けると、そこに見慣れた姿を見つけた。降り頻る雨の中、校門脇に設置された簡素なベンチに、傘も差さずにぽつんと座っている名前が居た。肩や髪が雨に濡れて、しっとりと色を濃くしている。
「……え、なんで……濡れてるじゃんか!」
思わず声が出た。一瞬、どうすべきか思考が停止する。けれど、身体は勝手に動いていた。駆け寄りながら、自分が差していた大きな黒い傘を、彼女の頭上へと傾ける。雨粒が傘の布地をぱらぱらと叩く音が、急に近くなった。
名前はゆっくりと顔を上げ、大きな瞳で五色を見上げた。雨に濡れた睫毛が小さな雫を宿している。
「ありがとう。……待っていたの」
その声は、雨音の中でも不思議とクリアに聞こえた。
「え? お、俺を?」
「うん。五色くんがここを通るかなって。……あわよくば、会えるかなって思って」
名前の口元が、ほんの僅かに綻んだ気がした。それは微笑みだったのか、それともただの言葉の続きだったのか。見極めようとして、五色は気づけば、彼女の瞳をじっと見つめ過ぎていた。慌てて視線を逸らす。頬が熱い。
(……あわよくば、って……)
その、どこか期待を滲ませるような、それでいて掴みどころのない言葉だけが、五色の心の中で何度も反響した。あわよくば。その響きが、彼の思考回路を妙な方向に導こうとする。
「か、風邪引くだろ! ちゃんと傘差さないと……いや、そうじゃなくて、ほら、こっち来て、入れって!」
しどろもどろになりながら、傘の内側へ来るように促す。自分の肩が雨に濡れるのも構わずに。
「五色くん、」
名前が再び、彼の名前を呼ぶ。今度は先程よりも、少しだけ真剣な響きを帯びていた。
「な、なに?」
緊張で声が上擦る。
「ねぇ、好きって、何回言ったら、伝わると思う?」
一瞬、時が止まった。いや、止まったのは五色の心臓かもしれない。ドクン、と、有り得ない程の大きな音を立てて、本来在るべき場所から飛び出しそうになる。肺の奥深く、喉仏の直ぐ裏側、或いは脳天を突き破って、宇宙の果てまで。そんな馬鹿げた想像が一瞬で頭を駆け巡った。
「……そ、そんなのっ……! お、俺に聞かれても……」
言葉が続かない。彼女が誰に伝えたいのか、なんて、考えたくもないのに、勝手に想像してしまう。
「教えて」
悪戯っぽく、それでいて真剣な眼差しで、名前は重ねて問う。
その時だった。彼女の雨で少し冷たくなった指先が、五色の制服のブレザーの袖をそっと掴んだ。布越しに伝わる微かな体温と、確かな存在感。その小さな仕草が、彼女から伝わる湿った空気の匂いが、五色の頭の中をまるで強いスパイクを叩き込まれたコートのように、真っ白にした。
(まただ……! これが、天童さんや瀬見さんが言ってた、思春期特有の、コントロール不能なヤツか……!)
五色工。白鳥沢学園高校一年。次期エースと期待されるウイングスパイカー。身長181.5センチ。得意なのは、ブロックの僅かな隙間を抜くキレキレのストレート打ち。クロスもストレートも、寸分の狂いなく打ち分ける自信がある。けれど、今、この傘の下では、好きな子のたった一言、たった一つの仕草に、成す術もなく打ちのめされる側になるしかない。レシーブなんて、できっこない。
「そ、それより! あのさ!」
必死で話題を変えようと、口を開く。
「なに?」
名前は袖を掴んだまま、小首を傾げた。その仕草が、また心臓に悪い。
「その……昨日、借りた本! ありがとう。あれ、まだ全然読み進められてないんだけど……最初の数ページだけでも、凄く言葉が綺麗で……なんていうか、苗字さんの声みたいだなって思った」
彼女の声の透明感と、どこか切なさを帯びた響きが、本の文章と重なって聞こえたのは、本当のことだった。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに、ふわりと笑った。今度は、はっきりと分かる笑顔だった。
「……本当? 嬉しい。じゃあ、もし最後まで読んでくれたら、次のお勧めも貸してあげる」
「あ、ありがと……!」
思わず、大きな声が出た。
傘の下、二人の距離は意識すればする程、近過ぎた。顔を上げれば、鼻先が触れてしまいそうな程。あわよくば、触れてしまいたい。そんな衝動が喉元までせり上がってくる。けれど、五色はそれをぐっと堪え、代わりに強く拳を握り締めた。視線は、名前の濡れた前髪に吸い寄せられたまま動かせなかった。
静寂が雨音と共に二人を包む。その沈黙を破ったのは、彼女の囁くような声だった。
「ねぇ、工くん」
今度は苗字じゃなく、名前で呼ばれた。それだけで、また心臓が跳ねる。
「……あわよくば、今日、わたしの家に来る?」
心臓が雨粒みたいに、何度も何度も激しく跳ねた。
(あわよくば、じゃなくて……! もうそれ、完全に本命の誘いじゃねぇか……!)
五色は言葉を失った。肯定も否定もできない。ただ目の前の、少し潤んだ瞳に見つめられて、まるで魔法にでも掛かったかのように、こくりと、小さく頷くことしかできなかった。
雨の中の帰り道は驚く程に静かだった。一つの傘の下、すぐ隣に感じる名前の体温と、早鐘のように打ち続ける二人分の鼓動だけが、この世界で唯一のBGMであるかのように、やけに大きく響いていた。五色はまだ、この先に何が待っているのか、想像もできないでいた。
