21.夢の中で目を閉じた

優しさも、欲しさも、ぜんぶ本音だって、ちゃんと伝えたい。

 ――きっと、今の俺達なら、どんな夢にだって迷い込める。そんな、確信にも似た予感が胸を満たしていた。  名前の「うん」という、吐息のような囁きを最後に、部屋は再びしんとした静寂に包まれた。けれど、先程までの張り詰めた空気とは明らかに違う。それはもう、ただの音のない空間ではなく、言葉にならない期待や甘酸っぱい予感をたっぷりと含んだ、魔法が掛けられたような特別な"闇"だった。窓の外の夜の色さえ、いつもより深く、優しく見える気がする。  五色は大切な宝物のように抱き締める腕の中で、じっと息を潜める名前の柔らかな髪に、そっと自分の頬を押し当てた。指先は殆ど無意識に、彼女の華奢な背中をゆっくりと上下に撫でるように動いていた。ルームワンピース越しの温もりと、規則正しい呼吸のリズム。そうして確かめるように触れていると、ドクン、ドクン、と響く心臓の音が、どちらのものか分からない程に重なり合い、まるで一つの鼓動のように、彼の鼓膜を打つ。この温かさが、この存在が、今、自分の腕の中にあるという事実だけで、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。 「なあ……」  もう一度、彼女の名前を呼ぼうとして、けれど、寸でのところで言葉を飲み込んだ。  それは多分、もう名前という記号で呼び掛けなくても、この温もりや重なる鼓動だけで、伝えたい想いは充分に伝わるような気がしたからだ。言葉よりも雄弁な何かが、確かに二人の間に存在している。そんな、擽ったいような確信があった。  不意に、名前の指先が、彼の着ているTシャツの裾を、くい、と小さく、確かな力で引っ張った。迷子の子供が縋るような、愛らしい仕草。 「……あやふやって、どこまでがあやふやなの?」  声は囁くように小さいのに、その響きはやけに鮮明に耳に残る。少し掠れた、甘ったるい響き。それが鼓膜を撫でると、ぞくりとするような感覚が背筋を走った。顔を上げた彼女の頬は、部屋の淡い明かりの中でもわかる程に、ほんのりと林檎のように色づき、潤んだ瞳は頼りなげに揺れていた。その表情に、五色はごくりと息を飲む。心臓が、また一つ大きく跳ねた。 「……あんまりはっきりさせると、それはもう、あやふやじゃなくなるだろ」  自分でも驚く程の真面目な声で答えたつもりだったが、口にした途端、我ながら酷く的を射た、それでいてどこか間の抜けた返答に、思わずふっと笑いが零れた。すると、腕の中の名前も堪え切れないといった様子でくすくすと笑い出す。その軽やかな笑い声が、夜の静けさの中で思いのほか大きく響いてしまい、二人して慌てて顔を見合わせ、「しーっ」と人差し指を唇に当てて笑いを堪え合う羽目になった。秘密を共有するような、そんな共犯めいた空気が、また二人の距離を縮める。  どちらからともなく、また自然と互いの顔が近づいていた。吐息が掛かる程の距離。けれど、今度の五色はゆっくりと息を整え、ほんの少しだけ首を傾ける。先程のドジ――勢い余った不器用な接触から、彼はちゃんと学んでいたのだ。焦りは禁物。もっと丁寧に。  唇と唇が、今度こそ、静かに触れ合った。最初は微かに、互いの熱を確かめるように、躊躇いがちに。それでも、先程よりも確かに柔らかく重なった。  初めて知る、少しだけ深い角度。でも、まだどこか恐る恐るで、互いの感触を確かめ合うような、そんなキス。唇が触れ、離れる度に、胸がきゅうっと切なく締め付けられるようだった。まるで、大事なものが溢れてしまいそうな感覚。  深く息を吸い込めば、名前のシャンプーだろうか、甘く清潔な香りがまた鼻先を擽る。触れていた指先が、今度は導かれるようにゆっくりと、彼女の腰へと添えられた。薄いルームワンピースの布越しに伝わる、滑らかな曲線。指先が背中のカーブをなぞるように動くと、その度に彼女の身体が小さく反応するのがわかった。 「……っ、つとむくん、そこ……ふふ、擽ったい……」  ぴくりと肩が跳ねて、名前が笑いを堪えながら身を捩る。その声も仕草も、何もかもが、五色の心を掻き乱す。  五色は慌てて手を止めるが、その拍子に零れた彼女の笑顔が、余りにも柔らかくて、無防備で、どうしようもなく愛おしかった。守ってやりたいと、強く思う。 「……ちょっとずつ、だな」  自分に言い聞かせるように呟いて、そっと彼女の頬に唇を落とす。触れるだけの優しいキス。頬から額へ、そして、小さな鼻の頭へ、最後は白い項へ――柔らかな肌に唇を重ねる度に、心臓の音が早鐘のようにどんどん速くなっていくのが自分でもわかった。もっと触れたい、もっと知りたいという欲求が、じわじわと身体の芯から湧き上がってくる。  名前も、五色のTシャツの胸元を掴んだまま、されるがままになっているだけではなく、寧ろ応えるように、こちらに頬を擦り寄せてくる。彼女のルームワンピースの裾がふわりと揺れて、五色の膝の上に少しだけ掛かる。その些細な接触が、妙に意識を集中させた。柔らかな布の感触と、その下に隠された肌の温もりを想像してしまう。  そろそろ、理性の糸が限界に近い音を立てているのを感じていた。この甘い空気と、腕の中の存在感に思考が溶かされそうだ。 「……なあ、名前」  掠れた声で、それでも真剣な響きを込めて問う。 「夢の中って、……どこまで許されると思う?」  あくまで真面目な顔で、しかしその実、逸る気持ちを必死で抑え付けながら問うと、名前は長い睫毛を小さく伏せて、秘密を打ち明けるかのように囁く声で答えた。 「……多分、夢の中なら……ちょっとくらい、道を脱線しても……許される、かも……」  その言葉に含まれた、恥じらいと、ほんの少しの期待。五色はその響きだけで胸がいっぱいになるのを感じた。 「……だよな。夢だしな」 「うん、夢だし」  二人で顔を見合わせて、どちらからともなく、遂に、ふふっと笑ってしまった。それは緊張を解きほぐすような、そして、これから始まる何かへの合図のような、特別な笑い声だった。  その夜、二人は寝間着を着たまま、縺れるようにして、ごろんとベッドに倒れ込んだ。勢いで脚が絡まり、名前の柔い髪が五色の顔に掛かり、シーツはあっと言う間にくしゃくしゃになった。暗闇の中で手探りで触れ合う内、指先が滑って意図しない場所に触れてしまい、互いに小さく息を飲むこともあった。  でも、それすら全部、この夜の「あやふや」の一部で。触れる肌の熱も、乱れる息遣いも、絡まる視線も、全部、どうしようもなく甘くて。現実と夢の境界線が心地よく溶けていくような感覚だった。  暫くして、五色の胸に顔を埋めたまま、名前がぽつりと「……本当に、夢みたいだね」と、うっとりした声で呟いた時。  五色は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべ、けれど真剣な眼差しで彼女を見つめ、そっとその額に慈しむようなキスを落とした。 「……じゃあ、目、閉じてみろよ。俺が、ちゃんと最高の夢にしてやるから」  その言葉に、名前はこくりと頷き、ゆっくりと瞼を閉じた。暫くして――本当に、心地よい夢を見ているかのように、安らかで、幸せそうな顔で、五色の胸に深く顔を埋めた。  それはどこまでも優しくて、どこまでも「あやふや」で、そして、確かに世界中で二人だけの、秘密めいた夜の中の出来事だった。


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