22.目を開けたら朝だった | この手を離さない。

 その夜、二人の間に横たわっていた見えない線が静かに、けれど、確かに融解した。  それは決して乱暴なものではなく、寧ろ、名残の雪が春の陽光に溶けていくように、互いの肌へと静かに沁み込んでいく、ひどく繊細で優しい熱の交換だった。言葉は最小限に、吐息と視線だけで語り合う。迷いながら、確かめながら、何度も目を合わせては「ここに居るよ」と、声にならない声で伝え合う。互いの存在を確かめるように重ねられた指先、躊躇いがちに触れ合った唇。静寂の中に、二人分の心臓の音だけが熱を帯びて響いていた。そんな、どこまでも穏やかで、それでいて燃えるように濃密な夜。  そして――  ふと意識が浮上した時、世界は朝の色をしていた。  夜の濃密な藍色を洗い流すように、暁の淡い朱色がカーテンの織り目から差し込み、昨夜の熱の名残が漂う部屋の隅々にまで、静謐な光を満たしていく。それはまるで、誰にも見つからないようにと大切に隠されていた秘密の時間が、朝の訪れと共にゆっくりと現実の輪郭を取り戻していくようで。五色はその穏やか過ぎる光景に、ほんの少しだけ眩しそうに目を細めた。  すぐ隣、枕の上には、安らかな寝息を立てる名前の横顔があった。規則正しい呼吸に合わせて、肩が小さく上下している。長く縁取られた睫毛が陶器のように滑らかな頬へ柔らかな影を落とし、まだ深い夢の淵を漂っているかのようだ。その無防備な寝顔を見つめていると、昨夜、何度もその頬にそっと触れ、名前を呼ぶ代わりに、慈しむように唇を重ねた記憶が鮮やかに蘇る。熱を持った感触、微かな彼女の匂い、そして、応えてくれた温もり。  ――夢じゃ、ないんだよな。  疑念ではなく、確信に近い感情が、胸の奥深くで静かに力強く息衝いた。名前の肩を優しく包む毛布。その内側には、昨夜、触れ合ったばかりの生々しいまでの温もりが、まだ閉じ込められている気がした。五色はその安らぎを壊してしまわぬよう、細心の注意を払いながら、ごくゆっくりと自分の腕を動かそうとした。  けれど――その、ほんの一瞬の逡巡が予期せぬ事態を招いた。  毛布の僅かなたるみに指先が滑り込み、意図せず触れてしまったのだ。そこは、五色がまだ知らなかった、名前の柔らかな部分。薄い寝間着越しに伝わる、ふっくらとした弾力と生命の温もり。余りにも無防備で、余りにも繊細なその感触に、瞬間、五色の全身の血が沸騰し、思考が真っ白に染まる。脳裏でけたたましく警鐘が鳴り響いた。 (……うわっ……!)  心臓が喉元まで跳ね上がるような衝撃。慌てて手を引こうとした、正にその刹那だった。五色の動揺に呼応するように、名前が小さく身動ぎをした。ぱちり、と重たい瞼がゆっくりと持ち上がり、まだ夢の余韻を色濃く残した、とろんと潤んだ瞳が、間近にある彼の顔を捉える。 「……おはよう、つとむくん」  囁くような声には、まだ覚醒し切らない眠気と――それから、隠し切れない微かな照れ、そして、何かを言い出し兼ねているような甘い躊躇いが滲んでいた。けれど、名前はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ふわりと微笑むと、安心し切った猫のように、再び五色の胸元にそっと顔を埋める。髪が彼の鎖骨を擽り、甘い香りが鼻腔を満たした。  その無言の許容に、五色の方が先に限界を迎えた。全身から滝のような汗が噴き出す感覚。 「……あ、あのっ、さ、さっきの! 今のは、違うんだ、わざとじゃなくて! 指が、その、ほんと偶然、滑ったと言うか――っ」  寝起き早々、しどろもどろに弁明を試みる五色に、名前はくすくすと鈴を転がすような笑い声を立てた。顔は彼の胸に埋めたままだったが、その肩が楽しそうに震えているのがわかる。やがて、ゆっくりと顔を上げた彼女の頬は、朝の光を受けて桜色に染まっていた。 「……うん、知っているよ。工くんがそういう……嘘をつけないこと」  淡い光の中で、名前の目元が愛おしげに、ふんわりと細められる。その潤んだ瞳は、五色を責めるでも、揶揄うでもなかった。ただ真っ直ぐに「大丈夫だよ、わかってる」と伝えるかのように、五色の焦りや罪悪感を大きな優しさでそっと包み込んでくれる。  ――こんな、穏やかで満たされた朝が来るなんて。昨日までは想像すらできなかった。  夢みたいだ、なんて陳腐な言葉は、昨夜の内に使い果たしてしまった筈なのに。それでも、五色は込み上げてくる感情のままに、もう一度、それを口にしたくなった。どうしても。 「……夢じゃ、なかったんだな」  五色がぽつりと呟くと、名前はふにゃりと蕩けるような、とびきり甘い微笑みを浮かべた。言葉で返す代わりに、そっと彼の手を取り、自分の指を絡める。その確かな温もりと、指先に込められた優しい力が、何よりも雄弁に「そうだよ、現実だよ」と教えてくれた。  確かに触れた手指の熱も、ほんの少し大胆になった唇の角度も、互いの名前を呼ばないままに視線だけで通じ合った、あの夜の空気も。指先が迷子になった、今のこの気まずささえも。その全てが幻なんかではなく、こうして現実の朝に繋がっている。  五色は握られた手をそっと握り返し、彼女の華奢な指を柔らかく包み込んだ。とくん、とくん。重なり合うように響く、二人の鼓動。窓の外からは、目覚めたばかりの鳥達の声が、新しい物語の始まりを告げるファンファーレのように、明るく部屋に降り注いでいた。  ――どこまで許されるかなんて、もう考えなくていいのかもしれない。  境界線は昨夜、確かに越えたのだ。そして、今、目の前にあるのは疑いようのない現実。  これはもう「夢」じゃなくて、二人の確かな"今"なのだから。


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