
夜の帳が、まるで厚手のベルベットのように、町を丸ごと柔らかく包み込んでいた。壁の時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく部屋に響いている。時刻は、もう間もなく日付が変わろうかという頃合い。世界が寝静まり、秘密を語り合うのに相応しい深閑とした時間だ。
名前の部屋のカーテンは夜の色を映した濃紺で、外の気配を窺わせない程に隙間なく、きっちりと閉められている。それが却って、この部屋を外界から切り離された、二人だけの特別な空間のように感じさせた。テーブルランプの放つ、蜂蜜を溶かしたような微かな灯りがベッドの上に落ちている。その光の中で、五色は膝を抱え、どこへ焦点を合わせるでもなく、ぼんやりと宙を見つめていた。
「……工くん、眠れないの?」
静寂に慣れた耳に、ふわりと優しい声が届いた。ベッドの反対側、少し距離を置いて座っていた名前が、心配そうに薄く首を傾げている。彼女が身に纏うネイビーのワンピースパジャマは、滑らかな生地がランプの光を受けて淡く艶めき、月の光を吸って夜に咲く、儚い花のように見えた。その姿は余りに清らかで、直視するのが少しだけ躊躇われ、五色は思わず視線を彷徨わせる。
「いや……さっきまで、眠れそうだったんだけどな……」
五色は腕を解き、言い訳のように呟きながら、もぞもぞとシーツの上を移動して、名前に近寄った。理由は分かっている。なんだか、今日は普段よりもずっと自分の心臓の音がやけに大きく、そして速く脈打っているのだ。意識すればする程、それは存在を主張してくる。昼間、自主練を終えて体育館を出た時に見た、陽に照らされた名前の屈託のない笑顔。あの残像が、まだ瞼の裏に焼き付いていて、心を落ち着かなくさせているのかもしれない。或いはただ、すぐ隣に居る彼女の存在そのものが、五色の平静を乱しているのか。
「……なあ、名前」
意を決して、五色は口を開いた。
「なんか、こう……ぎゅってしたら、怒るか?」
自分でも驚く程、僅かに声が上擦った。こんな風に、直接的な触れ合いを求めるのは初めてかもしれない。断られたらどうしよう、気まずくなったらどうしよう、という不安が胸を過る。しかし、名前の返事は、五色の逡巡を吹き飛ばすかのように、間髪入れずに、そして、驚く程の穏やかさで返ってきた。
「ううん、怒らないよ」
その余りにもあっさりとした、素直過ぎる肯定に、五色は逆に思考が停止し、一瞬、硬直してしまった。予想していた反応と違い過ぎて、どう応じればいいのか分からない。
「そ、そっか……そうだよな……」
意味のない言葉を呟き、ぎこちなく、躊躇いがちに手を伸ばす。指先が彼女の肩に触れるか触れないかの距離で、ふわりと、いつもの名前の匂いが鼻腔を擽った。清潔な石鹸の香り。それに混じる、夜風のような澄んだ空気の匂い。そして、ほんの少しだけ、二人だけの秘密を共有しているような、甘く切ない香り。
意を決して、そっと引き寄せる。抱き締めた身体は想像していたよりもずっと華奢で、力を込めれば壊れてしまいそうな程に小さく感じられた。けれど、その頼りなげな感触の中に、凛とした確かな芯が通っているのが分かる。ぴったりと胸が重なり、互いの鼓動が混じり合うような錯覚。暫くして、名前の細い腕が躊躇いながらも、静かに五色の背中に回された。温かい体温が、Tシャツ越しにじんわりと伝わってくる。
「……工くん」
耳元で吐息と共に囁かれた自分の名前に、五色の背筋がびくりと跳ねた。擽ったいような、それでいて、心臓を直接掴まれたような感覚。急に体温が上昇した気がして、喉がからからに渇いていくのを感じる。
「……な、なんだよ」
努めて平静を装うが、声は掠れていた。
「ふふ、今日は、甘えたさんなんだね」
悪戯っぽく、けれど、優しい響きを含んだ言葉。
「ち、ちがっ……!」
反射的に否定し掛けて、けれど、その言葉は嘘になるな、と思い直した。本当は、そうなのかもしれない。昼間の笑顔を引き摺って、ただ、もう少しだけ、名前の近くに居たかった。彼女の傍に居ると得られる、この無条件に受け入れられているような感覚が堪らなく心地よくて、欲しかったのだ。けれど、それを素直に認めてしまうのは、なんだか自分の弱さを曝け出すようで怖かった。
言葉を探して口籠もっている内に、名前が肩口で、ふふっと小さく笑う気配がした。
「……わたしも嬉しいよ。工くんが、こうしてくれるの」
まるで秘密を打ち明けるような、囁き声。その言葉の破壊力に、五色の耳がぶわっと熱くなるのが分かった。込み上げてくる照れ臭さと喜びを、ぐっと飲み込む。抱き締めている腕に、無意識の内に少しだけ力が籠もった。
「……っ、名前、お前……ほんと、可愛過ぎ……」
自分でも何を言っているのか分からないくらい、ぼそっと漏れた声。名前に聞こえたのか、それとも夜の静寂に吸い込まれて消えたのか。判然としない、あやふやな空気。でも、名前は何も言わず、そっと指先で、五色の着ているTシャツの裾を小さく摘まんだまま、彼の胸に顔を深く埋めた。その仕草が言葉以上の雄弁さで何かを語っているようで、五色の心臓は、もう隠しようもない程に大きな音を立て始めた。バレバレだ、きっと。
「……なあ」
静寂を破り、五色は再び口を開いた。
「うん?」
名前のくぐもった声が返ってくる。
「……キス、したい」
言ってしまってから、そんなこと、わざわざ宣言するものではないだろう、と内心で自分に突っ込んだ。けれど、言わずにはいられなかった。この高鳴る気持ちを、もっと確かな形にしたかった。
名前は、少しの間だけ黙っていた。その沈黙が、永遠のように長く感じられる。やがて、顔を上げた彼女は、潤んだ瞳で五色を見つめ、そして、蚊の鳴くような、けれど、はっきりとした声で、「……いいよ」と答えた。
その許可を得て、五色はそっと名前の顎に指を添え、顔を上向かせた。触れるか触れないかの、息が掛かる程の距離。ゆっくりと閉じられていく、名前の長い睫毛。またしても、心臓が煩く鳴いた。
――このタイミング、絶対に、間違えたくない。格好付けたい。
そう強く思ったのに、現実は、五色の願い通りにはいかなかった。焦りと緊張で動きが硬くなり、狙いを定めた筈の唇ではなく、鼻先が微かに触れ合い、こつん、と額が軽くぶつかってしまったのだ。
間抜けな音と共に、名前が耐え切れなくなったように、くすっと小さな笑い声を漏らした。
「……ふふ、ドジ」
「う、煩い……!」
思わずむくれた顔をすると、名前は悪戯が成功した子供のように笑いながら、今度は自分から、ぎゅっと五色に抱き付いた。ベッドがふわりと揺れて、二人の体温がより深く混じり合う。
キスも、抱きしめることも、言葉にすることも。
どれ一つ取っても完璧な正解なんて、どこにもないのかもしれない。
不器用で、ぎこちなくて、ちょっとずつ、あやふやなまま、気持ちだけが確かに重なっていく。
五色は、まだくすくす笑っている名前の耳元に、今度は意趣返しのように、そっと唇を寄せた。
「……なあ、もっと、あやふやなこと、してもいい?」
囁きは夜の静けさに溶けていく。
「……うん」
名前の返事は吐息のようにか細く、けれど、確かな肯定だった。
こんな、手探りで進む恋のタイミング。そのもどかしさも、甘さも。
絶対に、誰にも教えたくない、二人だけの秘密。
夜はまだ深く、そして、この部屋は二人だけのものだった。
――全てがこの優しい闇の中、あやふやなまま溶けていく。それでいい、今はまだ。そんな気がした。